わたしの大好きなひと
わたしは、病気というものらしい。
寝台から下りて、部屋を横切るだけで喉の奥が熱くなる。
はくはくと口を開けて息をしなければ、苦しくて胸がつぶれてしまう。
「ただいま、お姫様。今日は何をして過ごしたんだい?」
お父様の帰りは遅い。
乳母が、お父様は王宮でとても立派なお仕事をしているのだと教えてくれた。
みんなが憧れる、とても素晴らしい人なのだと。
それでも時々、お父様は明るいうちに帰ってくる。
抜け出してきたよと笑って、お土産の縫いぐるみを私にくれた。
そういう日は、お父様が深夜にこっそり仕事に戻ることを、わたしは知っている。
わたしの部屋は、お父様のお土産でいっぱいになっていた。
「お父様、もう寝台が満員です」
嬉しくて抱き締めながらそう言うと、お父様は笑って、棚を作るぞと宣言してくれた。
少し前に、私が伯爵家ではなく庶民に生まれたかったと言ったせいで、お父様は何でも自分でやろうとするようになってしまった。
(庶民のお家なら、息を切らさずに窓まで行けるからそう言ったのに)
自分がいなくて寂しいのだと、お父様はすっかり誤解してしまった。
この前も、庶民は自らの手で料理をするのだと、不恰好なケーキを作ってくれた。
とても嬉しいので、わたしはお父様の思い違いを正さない。
お父様がお忙しいのは知っているけれど、
きっともう、あと少しの我が儘だから。
「お嬢様、お可哀想に」
わたしはもう、あまり長くは生きないらしい。
みんなが影でこっそりと泣くのだ。
お可哀想に、と。
どんなに勉強を頑張っても、
私にはワルツは踊れない。
数少ないお友達に、お父様が第二王子のお気に入りだと羨ましがられても、私が社交デビューをして王子様と踊ることはないだろう。
お父様の騎士姿を見ることもない。
だけど、哀れで不幸だと言われる度に
もっと、もっと悲しくなってしまう。
生きているだけで不幸ならば、
わたしはなんの為に生まれてきたのだろう。
どうしてこんな風になってしまったのだろう。
「それ何?美味しいの?」
「あっちにいって!これはわたしのケーキだから、あなたにはあげません!」
最近、わたしが嫌いな魔物がよく部屋に来る。
白と水色の巻き毛をした、檸檬色の瞳の男の子で、びっくりするぐらいに綺麗な魔物。
でもわたしは、その魔物がとても嫌いだった。
「いつか僕も、グラストに作ってもらう」
「お父様は、あなたの為になんか作らないもん!」
この魔物は、お父様が大好きだ。
お父様の仕事を覗き見してきたり、
お父様の執務室のペンをくすねてきたりしている。
お父様が馬を走らせている早朝には、高い木の上からその姿を見ているらしい。
お父様は、わたしのものなのに。
「お父様は、あなたのことなんて好きにならないもの」
そう言うと泣きそうな顔になったけど、わたしは悪い事をしたとは思わなかった。
あと少し。
あと少しだけしか、わたしにはないのに。
「ほら、今日はドレスが仕上がったんだぞ!」
その日、お父様が持ち帰ったのは綺麗な鴇色のドレスだった。
宝石を縫い込んだ刺繍とレースで、とても贅沢な夢のようなドレス。
他のご令嬢達が、王宮のお茶会に着て行けるようなお出かけのドレスだ。
「お父様、だいすき」
微笑んで受け取ったけれど、泣き出してしまいそうだった。
わたしが、このドレスを着ることはない。
まともに立つことも出来なくなったのに、このドレスを着る力がある筈もない。
わたしが死んだ後、お父様はこのドレスを残されて、一体どんな思いで過ごすのだろう。
もう、あと少ししかないのに。
そう思ったくせに、
わたしはその後、縫いぐるみやドレスなど、女の子にしか使えないものを欲しがった。
あの魔物に残せるものなど、絶対に許せなかったのだ。
我が儘だとわかっていても、ドレスを見せるたびに魔物が悔しそうな顔になるので、どうしても止められなかった。
たくさんのドレスが出来上がり、
衣装部屋の宝物達が窒息しそうになる頃、
わたしは、大きな発作を起こして生死の境を彷徨った。
真夜中の部屋で目を覚ますと、
誰かが泣いている。
お前しかいないんだ。いなくならないでくれと、咽び泣く人の声を聞いている。
(お父様…………)
その時になってやっと、
わたしよりも怖かったのは、お父様なのだとわかった。
わたしは死ぬまで一人にはならないけれど、
わたしの死んだ後、お父様は一人きりなのだ。
わたしは、こんなにも恵まれていたのだ。
お父様がただ一人恋をした、優しくて綺麗なお母様はもういない。
お仕えする王子様や、叔父様達では駄目なのだと、ぼんやりわかった。
(泣かないで、お父様)
そう言ってあげたいのに、
一度消耗しきってしまった体は、泥のように重い。
今は目が覚めたとしても、もうそう長くはないと自分でもよくわかった。
(誰か、)
声なき声で、悲鳴を上げる。
誰か、
どうかここに来て。
お父様を一人きりにしないであげて。
(わたしはもういいから、お父様を助けてあげて)
「………僕がいるのに」
その声に驚いて、何とかそちらを見ようとしたけれど、頭を動かすことは出来なかった。
部屋の隅に誰かの気配がある。
(あの魔物……?)
そうだ。
お父様には、あの魔物がいたではないか。
あの魔物ならきっと、お父様を一人きりにはしないだろう。
毎日隠れて付き纏っているくらいなのだ。
ゆっくりと瞼が重くなる。
(お父様が、あなたを好きにならないなんて、言ってごめんね)
今の声も、とても寂しそうだった。
魔物がそんな風に孤独なのは、お父様が見ているのが、わたしだけだから。
ごめんなさい。
あと、もう少しだけ。
もう少ししたら、お父様をあなたにあげる。
(だから、お父様を一人にはしないでね)
初めて、あの魔物のことを少しだけ好きになれた気がする。
だって、わたしにとって一番大事なものは、
やっぱりお父様だけなのだ。
「愛しているよ、お姫様」
最後の眠りに落ちる瞬間、頭を撫でるお父様の優しい手を感じた。
大丈夫。
大丈夫よ、お父様。
あの魔物が、これからも傍にいてくれるからね。