魔術師と通信妖精
私は、魔術式の図案がとても好きだ。
展開するべきものへの指示として描き上げるそれだが、二世代程前から芸術性や数学性も可能性を伸ばしてゆき、今は立派な鑑賞物となっている。
もっとも、込み入った魔術の式程美しいので、高位の魔術師以外は閲覧禁止だが。
「何とも、美しい模様だな」
惚れ惚れと称賛して、数年前に異国で開示された術式を眺める。
入り組んだ草木の模様と、怪物の手の意匠。そして数学的な式そのものの計算の妙。
円系図式の左側の柊が、微かに斜めを向いているところが実に素晴らしい。
見ているだけで、微笑みが浮かんでくる。
大きめのカウチに座り、図式集を抱え込むようにして読み耽る。
昨晩から没頭しているので、実に七冊の図式集を読破してしまった。
三冊目には封印の意味を兼ねて翼を持つ蛇が住み着いていたので、そこで一戦交えたことにより、夜明けの睡魔にも打ち勝っている。
「ガレンエンガディン、昨晩の通信の、ご説明を願います」
窓側に立った背の高い男が、先程から何度目かになる台詞を繰り返した。
漆黒の装いにフード付きの長いケープ。
背中に畳んだ大きな羽は、彼が妖精であることを示している。
太陽の光を受けて緑と青の複雑な色彩に煌めき、触れれば破れてしまいそうに薄い。
「歌乞いとの婚約を破棄した。これ以上に、どんな説明が必要だと言うんだ」
わざとらしく溜息をつき、黒衣の妖精は仮面のような表情を曇らせた。
「その一言で破棄出来る程、この婚約の意味は軽くはありません。報告には薬の魔物とありましたが、もし、あの歌乞いが国益に反する意思を示したとき、あなたがたの婚約は抑止力であったものを」
「あのけだものに、首輪をつけるのは無理だな」
「失礼ながら、あなたの婚約者殿は、獣のような女性でいらっしゃる?」
「心根がだがな。私の心を噛み殺すのに、随分と熱心なようだ」
昨晩、彼女が真摯な眼差しで口にした言葉を思いだし……、
「エーダリア様っ?!」
感情を抑制する術を育まれた妖精が声を上げる程、激しく机に額を打ちつけた。
「この通りだ、ヒルド。誰が何と言おうと、私はこの婚約を破棄する」
「一体何があったのですか?」
「破棄するか、私の心が死ぬか、どちらかしか道はない。私はまだ、廃人になるわけにはいかないからな」
「浸りきってないで、状況を説明して下さい。私には、報告の義務がある。あなたの言葉だけを伝えても、再び調査に送り帰されるだけですよ」
「…………まぁ、…………兄上だからな」
この国の第一王子は、唯一の正妃の子供である。
王に望まれて正妃となった元公爵令嬢の面影を色濃く残し、輝かんばかりの金糸の髪に、赤い瞳をしている。
何よりも、高慢で理性的と、次代の国王に相応しい性格なのは間違いない。
あの兄が存命している限り、ヴェルクレアの国内は継承に纏わる火種は生まれるまい。
現国王の意志より何よりも、弟達の追随を許さない才ある人だった。
「それで、婚約破棄に至る理由をお伝えいただけますか?」
精神安定剤であった、術式集から視線を上げる。
こうして誰かと視線を合せるだけでも、昨晩の屈辱が蘇るようだ。
「……………っ、」
よりによって、
彼女は、最も屈辱的な勘違いをしてのけた。
あの白持ちの魔物の不興を買っても尚、庇護してやろうと思ったこちらの気など知らずに。
契約の魔物が白持ちだと知れれば、彼女はあっという間に欲と毒に晒される。
不本意ながらもそのときの盾となるべく、寝る間も惜しんで環境を整えてやった自分は何なのか。
“いつかきっと、あなたの分かりにくいトゲトゲの心を温めてくれて、あなたの心に適う誰かが、あなたの隣に寄り添う人になりますように”
あの少女が、そんな不可解な呪いの言葉を吐いたとき、何かが変わってしまったのだ。
大人しい素振りと、丁寧な仕草。
ひっそりと微笑むばかりのくせに、彼女はとても強い。
しなやかに風にたわむ柳の木にも似た、こちらの評価を裏切る強靭さ。
あの瞳で見上げられると、なぜだか困らせてやりたくなるので、恐らく嫌いなのだろう。
だが、同時になぜか、彼女が傷付くことだけはあってはならないと、強く思う。
………………ひどく不可解なことに、多分今でも。
「エーダリア様?」
ヒルドは、先程から随分と懐かしい呼び方をしているようだ。
最初は王妃の、次に兄の付き人でもある彼は、正式には通信妖精である。
言葉や文字を届けること、映像等の記憶をすることに長けた古い妖精の一人。
今はもう、この色の羽を持った妖精はほとんどいない。
子供の頃、そんなことを話してくれた記憶がある。
「まずは、第一に、やはり契約の魔物の怒りを煽る。先の事例である、他の王子たちの婚約が成立していたのは、ほとんどの魔物が女性だったからだろう」
「三代前の第四王子の婚約者は、男性の魔物を得ていましたが」
「あれは、父親代わりの魔物だったと聞いている。比較対象にはならない」
「では、第二の理由をお聞かせ願いましょうか?」
「………………私の婚約者は、私のことを男色家だと信じている」
「……………もう一度お聞きしても宜しいでしょうか?」
「もう一度言わせないでくれ!」
酷い音がした。
力強く手にした本で机を叩いてしまい、すぐに後悔した。
この本がどれだけ稀少なものか、また入手するのにどれ程苦労したのか忘れた訳ではない。
「しかしながら、それが誤解なのであれば、誤解を解けば宜しいのでは?」
ヒルドの眼差しに不可解な疑惑の色が混ざる。
少し前までグラストの眼差しにもあったその色に、体が震えそうになった。
「勘違いをするなよ、私は断じて男色家ではない」
「そうでしたか。思春期の頃からの女性嫌い、塔に入られてからも、女性と関わる様子がありませんでしたので、てっきりそれが回答かと思ってしまいました」
「くれぐれも、兄上にはその懸念を伝えるなよ?!」
「しかし、そうであるなら尚更、疑いを解けばいいのでは?」
「面倒だ」
「でも、あなたは、今回の歌乞いの為に、随分と尽力していたでしょう?王都にお戻りになったエインブレア様も、とても驚いておいででしたよ。あなたは、ああいう少女が好みであったのかと」
「いや、それはないだろう。見ていて不愉快になったし、何しろ顔を合わせる度に困らせてやりたくなったからな。私は彼女のことを嫌っていたんだ。場を整えたのは、ただの責任からの行為でしかない」
「…………エーダリア様が、女性に感情を動かされることが既に珍しいですけれどね」
そう言われると、今迄の誰にも、ネアに対するような思いは動かなかった。
だがしかし、好意とは即ち、わかりやすく愛情であるべきだろう。
「誤解は解かないのではない。解けないんだ。あいつは頑固でな。……私が、彼女の契約の魔物に懸想してると信じて疑わない」
ヒルドの羽がぴくりと動く。
この妖精が、羽を動かす程に驚くのも珍しい。
「それはまた、どうして?」
その説明を重ねるのは億劫だった。
手にした本に視線を戻す。
すぐにでも、この本を開き直して世俗から遠ざかりたい。
「その魔物を初めて見たとき、………私が失神したからだ」
「失礼ですが、」
「二度も言わんぞ!」
「それはやはり、薬の魔物の容姿がお気に召されたのでしょうか?」
「やはりとは何だ、やはりとは!!」
「しかし、そうではないとなると……エーダリア様が倒れた?」
充分な間を空けてから、ヒルドは切れ長な瞳を瞠って小さく何事かを呟いた。
眉を顰めたこちらに気付き、鋭い視線を戻す。
そこにあったのは、先程までの兄代わりの懐かしい表情ではなく、通信妖精としての厳格な表情だった。
「それは、本当に薬の魔物でしたか?」
背筋がひやりと寒くなる。
あの日のネアも、こんな気持ちだったのだろうか。
今更だが唐突に、彼女にこの返答を代わって欲しいと切実に思った。
「ああ、くすりのまものだ」
「エーダリア様、発音がおかしいです」
この様子を見たらネアが溜息を吐きそうだなと思いつつ、素早くヒルドから目を逸らした。