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9. 婚約者を慰めたら婚約破棄されました 2(本編)



足音もなく王宮内を駆ける。

飛ぶように、踊るように、転移などしなくても魔物の移動はやはり美しい。

しかしながら、抱きかかえられているのが大変遺憾である。



「ゼノ、このくらいの速さであれば、私は自分で走れますよ?」

「ネアが壊れちゃったら困るもの」

「待って下さい!まさか、そんな襲撃的な事件が起きているんですか?!」


自分を持ち運んでいるのが、青年姿とは言え愛くるしいクッキーモンスターだと思うと、ネアは大変申し訳なくなる。

あとでたくさんクッキーを進呈しよう。


そして、王宮というものの構造上、決して短くはない距離を運ばれ、そっと降ろされたのは回廊の曲り角だった。


「ゼノ?」

「少しここに居て。ネアは、二人の会話を聞いた方がいいと思う。……思う?」

「疑問系にされてしまうといいのかなと悩みますが、ゼノがそう考えてくれるなら様子を見ましょうか?」


壊されてしまいそうな婚約者殿は、無事だろうか。

とは言え、ゼノーシュの落ち着き方を見るに、身体的な危機に瀕しているわけでもなさそうだ。

痴話喧嘩であれば、あまり踏み込みたくない。


「あの二人なら、こっちに気付きません?」

「大丈夫。わからないようにしてるから」


それはあれか、魔法的な便利ツールなのだろうか。

安心して盗聴が出来るとして、となると聞いてもいいものだろうかと、ネアは複雑な気持ちで曲がり角の向こうを窺った。

どうやらこの場所は、姿は見えないが、会話の内容は聞こえる位置らしい。



「磨耗させているのは、貴方ではないのか?」


聞こえてくるのは、ひどく硬いエーダリアの声だ。

部下たちと話す時の、公人としての声音に似ている。


「ふうん。返事をするだけの元気があるのは、やはり筆頭魔術師なんだね」


ディノの声は低く甘い。

睦言を囁きながら相手を切り刻んでしまいそうな、魔物らしい声に、ネアはぞくりとする。


「もう少し待って」


だが、思わず飛び出そうとしたネアは、ゼノーシュに止められてしまった。



「ネアは普通の少女だ。貴方の指先では壊れてしまうくらいに、何の特筆さもない。だから、私には不本意ながら、あの少女への責任がある」


そうすると、続けて聞こえてきた内容に、ネアは眉を寄せた。

もしかすると、これは恋敵への穏やかな酷評だろうか。

であれば、向かい合う二人の会話の中で、いたずらにネアの名前を投げ合わないで欲しい。


(それとも、婚約は不本意だと暗に伝えたいのだろうか)



「あの子に鎖を探しに行かせないのは、飼い殺しにしたいからかい?」

「それは貴方のことだろう。貴方であれば、あの鎖を手に入れることも容易い。あえて差し出さないのは、逃げ出される口実を与えたくないからでは?我々は、そういう意味では同類だな」


(…………そのくらいのことであれば、暗黙の了解だと思っていたのだけれど、違うのだろうか)


苦渋に満ちた声に、ネアは、いっそうに眉間の皺を深めた。


あれだけの品物を掻き集めてきたディノなのだから、考えなくても、グリムドールの鎖くらい、簡単に手に入れられそうだとネアにもわかる。

品物の振り分けの際にこっそり探してみたくらいだ。

それなのに、ディノもエーダリアもそのことには触れようとしなかった。


(であれば、何か事情があるのだろうと、考えていたのだけれど……………)


そうして思い至ったのは、国の事情と魔物の事情であった。

そのどちらも、ネアとディノの契約を長引かせることにメリットを持っている。

歌乞いを効率的に活用する為に、余命観測を義務付けた国であり、ネアに梳かして貰う為に、わざと髪の毛を絡ませてくるような魔物なのだ。


別に角を立てる程のことでもないし、黙って目隠しされていたので、今更だ。

また、魔物はどれだけ高位でも何もかもが手に入れられるという訳でもないようなので、ネアには良く分からない魔術的な例外があり、ディノには手の出せない領域の品物なのかもしれない。


どちらにせよ、このような状態が続くからには、致し方ない理由が暗黙の了解の上であるのだと考えていた。



(となると、こんなこと感情的になってしまうくらい、エーダリア様は動揺していらっしゃるのだろうか?)



「君の主張は、私のものを、まるで君自身の問題として考えているようだ。なんて不思議なんだろう」


(………………っ!)


しかし、続いたディノの言葉に、ネアはぎくりとした。


こわい。

それが向けられるのは自分ではないのに、会話の内容がちっとも頭に入ってこないくらい、このディノの声はとても重い。

見えない力に握り締められているみたいで、指先が冷たくなる程だ。


(これ以上はいけないわ)


魔物は精神圧のそれだけで、人間に損傷を与えることが出来る生き物だ。

何が発端かは知らないが、このまま感情的に言い合いをさせるのはまずい。

肉体的耐久度の低い、エーダリアが圧倒的に不利である。


「わかりました、ゼノ。あの二人の誤解を解いて、二人の心がすれ違わないようにしますね!」

「えっ、違…」



立ち上がったネアが回廊の曲り角から姿を現して冷え冷えとした応酬をする男達の前に姿を現わすと、奥に控えていたグラストがあからさまにほっとした顔になり、当事者二人はなぜか焦った顔になった。




「ネア、どうしてここにいるんだい?部屋に居るはずだったのに。……ゼノーシュか」


ディノの様子を見るに、さてはこの騒ぎに気付かないよう工作されていたのだろうか。

そう言えば、今夜は猛烈な睡魔に襲われ、ぱたりと寝入ったのだった。


「ディノ!こんな夜中に、私の上司を困らせてはいけません」

「私の?」

「そうですよ。私の上司です。だってディノは、そういう形で人間に紐付くのは嫌でしょう?」

「そうだね。私は、ネアだけのものだ」


水紺の瞳が孕む熱の鋭さに、ネアは目を伏せてしまいたくなる。

彼は薄暗い回廊でどこまでも白く際立ち、自分達とは違う存在なのだと明確に誇示するかのよう。

けれどもここで尻込みをすれば、どこかで対等さを失ってしまう。

そんなことをすれば、この寂しがり屋の魔物は、鋭敏に察して失望するだろう。


「だからこそですよ。あなたは、現状私のものなのですから、私の勤務環境を悪化させてはいけません。この方は、理想的ではないにせよ勿体無いくらいの良い上司なのですから」

「理想的ではないのかい?」

「ええ。肩書きがたくさんあって、面倒臭いでしょう?でもそれとこれは別なのです」

「君は、婚約者としての言葉は吐かないんだね」

「公開処刑ですか!」

「……処刑?」

「公衆の面前で辱められることです!婚約者云々は、エーダリア様も私も罰ゲーム的なお国の事情ですから、あまり公言してはいけません。エーダリア様がお気の毒でしょう?」

「君も、嫌なのかい?」


ふと、ディノの言葉から鋭さが欠け落ちた。

首を傾げてこちらを見ているのは、不思議そうな顔をした美しい魔物だ。


(そうか、ディノは知らないのだわ)


この魔物は、自分の心が不当に縛られることなど知らないような存在だ。

自由であるということは、不自由さを知らないことなのだろう。


「組織から、何かを不本意に強いられるのは辛いことでしょう。それが自由に出来る筈だった個人的なことなら尚更です。私も気が滅入る称号ですが、エーダリア様はもっと嫌だと思いますよ?」


ネアの契約相手であるディノがその言葉を出せば、それはネアの意思として認識されてしまうこともある。

まさか婚約者という戯言に期待を持っているのかと、エーダリアを震え上がらせてしまうではないか。


(まったくもう!無邪気に陥れられるところだった……………!)


エーダリアとて、恋する相手からそんな言葉は聞きたくないに違いない。

なんて残酷な仕打ちだろうと、ネアは溜め息を吐く。



「そうなのだね。君が嫌ならいいのかな。……………良かった」


ふわりと嬉しそうに笑うので、ネアは思い至って確認をする。


「ディノは、私にこの婚約を破棄して欲しいんですか?」

「勿論だよ」

「……あらあら、」


(良かったですね、エーダリア様!)


この魔物は今は自分のものだ。まだ。

そう思ってしまうから、祝福の思いには少しだけ、寂しい気持ちが混ざる。

まだは拙い気持ちだとしても、当人が自覚すればあっという間に自立していってしまうだろう。


(まるで、弟を手放したくない姉のような気持ちなのかもしれない。……まさか母親ではないと思うし……………)


いそいそと近寄ってきた魔物に持ち上げられつつ、ネアはその可能性を却下した。

まだ結婚すらしていないのだ。こんな大きな子供がいては堪らない。

ネアにだって、女性としての人並みの矜持があるので、折りを見て、母親だとは思わないようにと忠告するべきかもしれない。



「はい。ここまでですよ、私を解放して、私の上司に謝って下さいね」

「君も、一緒に部屋に帰るだろう?」

「いいえ、私には、今後の職環境の為に、謝罪と説明があります。ディノはお部屋で謹慎していて下さいね」

「どうしても?」

「どうしても。人間社会は、色々とお作法があるんです。帰ったら椅子にしてあげますから、謹慎していて下さい」

「待ってるから、すぐに帰っておいで」


そう言うと、ネアを床に降ろしたディノは、ふっと微笑んでネアの額に口付けを一つ落とし、姿を消した。


「嫌がらせですか!」


額を押さえて真っ赤になったネアが叫んだが、既にその姿はどこにもなかった。

叱られたことの意趣返しだろうか。また躾けなければいけないようだ。



「…………エーダリア様?」


一息ついてから、ネアは、壁にもたれたまま黙り込んでいた婚約者殿に歩み寄る。

やはり高位の魔物と向かい合うのは負担だったのだろう。

乱れた胸元に手を当て、疲れたような深い息を吐いているのだが、銀糸の髪が少し乱れていて、物理的に何らかの圧力が加わったかのようだ。


「もしや、うちの魔物が手を上げましたか?」

「…………いや、そういうものではない。私が浅はかだったのだ」


(でも、乱れていらっしゃる?)


この時間であるし、少し寛いだ服装でいたのだろう。

けれども胸元は大きめに肌蹴ているし、何やら頬と耳が少し赤い。

ぎゅうっと片手で握り込むようにして、乱れたシャツを掻き寄せたエーダリアに、ネアははっとした。


「………………成程」

「待て、どんな結論を出した?」


微笑んで返答を先延ばしにし、ネアは、淑女らしい仕草で丁寧に頭を下げる。


「ディノが迷惑をおかけしました。エーダリア様は、毎日遅くまで忙しくしていらっしゃるのに、ご負担をかけてしまって申し訳ありません。きちんと躾けておきますので、どうかご容赦下さいませ」

「………………今回のことは、私も早く話し合っておくべきだった。私は、仮にも君の婚約者であるというだけでなく、歌乞いの統括として、正しい在り方を指導するべき責務がある」

「あなたは、…………良い方なのですね」


気付けば、先程まで回廊の突き当りに立っていたグラストの姿はない。

ゼノーシュもいないようなので、退出したのだろうか。


真夜中の回廊には等間隔に並んだ廊下灯の光が散らばり、見慣れない陰影を落としている。

壁紙の色の違いに気付けば、ここはエーダリアの専用棟の中だった。

となると、ディノは随分な不法侵入を敢行したらしい。


(私でも、訪問したときは、きちんと護衛の皆様の許可を取ったのに…………)


有体に言えば、ゼノーシュにクッキーを与え、許可の文言を奪い取っただけだが。



「勘違いをするな。私にとって、君は不本意な婚約者だ。だが、不愉快であるとは言え、私に男としての責任は当然存在する」


そう言われたネアは、上司としての会話ではなかったのかと目を瞬く。

何故に先程から、ディノもエーダリアも、婚約者というワードを連発するのかわからないので、これだから恵まれた者は無神経なのだと、あまり色恋に恵まれていないネアは悲しくなる。

二人のこれからを考えるにあたり、置いてけぼりになるネアを巻き込むのはやめていただきたい。



「前言を撤回します。エーダリア様は、真正のドSでいらっしゃる」

「ど、………えす?」

「他人の心を折り曲げることに、生理的快感を持つ厄介なひとのことです。しかしながら、生来の気質であられるので、周囲は性癖として受け入れるしかありません」

「なぜそうなった!!仮にも君は女性だろう!もう少し会話の内容を憚れないのか!」

「このような場合、遠慮して遠まわしに説明すると、会話の行方が迷子になりそうでしたので」

「…………なぜ、おかしなところで努力を諦めるんだ………」


片手を額に当てて項垂れてしまったエーダリアは、何やら不憫な様子であった。

男性としてはまったくもって魅力的ではなさそうだが、やはり上司としては労しい。


「私は、大丈夫ですよ?エーダリア様」


だから、責任など感じなくてもいいのだ。

上長として、ある程度まっとうに使ってくれれば、それでネアは満足なのだから。


心を寄り添わせるには二人は違い過ぎるし、ネア自身もまだ、ここに居座る覚悟が足りない。

酷薄な判断とて下すだろうに、この元王子は生来の気質が生真面目なのだろう。


(とても上手に冷酷に立ち回っていらっしゃるのに、心が伴うと急に不器用になってしまうのだわ)



いつだっただろうか。


ディノが略奪の旅で姿を消していた頃、ネアは、見知らぬ男性とエーダリアの会話を聞いてしまったことがある。

この王宮に駐在する騎士たちとは違う装いであったので、中央から来た者なのかもしれなかった。


“捕まえた魔物は悪くないが、当人の命がどれだけ使えるのかは、定かではないな…………”


何の感慨もない声に、当然のことだと思いはしても、やはり胸は痛んだ。

平和な国で暮らしてきたネアには、このような立場に置かれたことはない。

事情はわかっているので諦めはするが、それと、平静でいられるかは別の話である。


“………なぜ私が、あんなものを背負わなければいけないんだ”


けれども、ぽつりと呟かれた言葉に、怒りよりも申し訳なさが強くなった。

この国や、そこに紐づく歌乞いが必要とされる背景を何も知らないネアよりも、彼の懊悩は深いだろう。


そんなエーダリアが、ディノに関わるとどこか手薄になる。

迂闊さが新鮮で、言葉が乱れる姿には無防備さが滲むのだ。


(だから、私が自分で選択肢をこじ開けようとしているように、あなたにも頑張って欲しいと思うのは、私の我が儘に過ぎないのだけれど……………)



「大丈夫なわけがないだろう。白持ちの魔物相手に、何を言っている。婚約は破棄しないから、安心…」

「でも、エーダリア様、色仕掛けならもうちょっと考えないといけませんよ?」


(おや、言葉が被った)


割れんばかりに目を真ん丸に見開いて、驚愕の表情のエーダリアがこちらを見ている。

ばれていないとでも思ったのだろうか。

あからさまではないか。


「………………色仕掛け?」

「確かにエーダリア様の鎖骨は綺麗ですし、頬を染めて涙目で見上げるのも鉄板ではありますけどね」

「…………私が?」

「ですが、ディノは、わからないふりしていますけど、そちらの方面で本気を出したら、結構に経験積んでいそうなのです。もう結構な高齢者ですので、当然でしょうけどね。なので、あんな風に迫って、あからさまに警戒されるのはいけません。色仕掛けは、いけそうだなと思ってからの、最終手段にして下さい」




「…………エーダリア様?」


暫くして、あまりにも長い時間返答がないので心配になったネアは、そっと呼びかけてみる。

さすがに、この手の問題での言葉を飾らない忠告はまずかっただろうか。


「ネア、」


心配になってそっと覗き込むと、きっと顔を上げて睨みつけられた。

酷薄だったばかりの淡い鳶色の瞳には、濡れたような光がある。

羞恥のあまり涙ぐんでいるにしては、随分と表情が冷やかだ。


差し伸べようとした手を、音を立てて振り払われてネアは目を瞠った。



「今、この場を以て、お前との婚約を破棄する」



抑揚のない声ではあるけれど、微かに語尾が震えていた。

強い感情を押し隠したその宣言に、ネアはしょんぼりと眉を下げる。

こんなにも余所余所しいエーダリアを見たのは、久し振りだったので、気付かない内に油断していた自分の迂闊さを思い、さっきまでの空気を惜しいと思う。


「今後は、ガレンエンガディンとしてお前の指導にはあたろう。だが、執務外では二度と私に関わるな。お前の余計なお喋りには、もううんざりだ」

「承知いたしました。今までご配慮いただきまして、有難うございました」

「………っ!」


ここは、互いの距離感を見誤ったネアの失態である。

だが、辛辣な評価にも動揺することなく頭を下げたのに、どうしてエーダリアが固まるのだろう。

まるで踏んづけられた子犬のような顔を一瞬見せて、ものすごい音を立てて部屋に撤収されてしまった。


一人残されたネアは落ち込みながらも、首を捻る。

あんまりな退出方法に、ほんの少しだけ、腹が立ったのだ。


「あんな目で見ても、もう恋のアドバイスなんてしてあげませんからね」







「とうとう抑制力がなくなってしまった。俺はどうすればいい…?応援するべきなのか?」

「無自覚な内に失恋しておいた方が、面倒くさくならないだけいいのかなぁ………」


姿を見せない魔術の道の中にそう呟く二人の観客がいたことには、とうとうネアもエーダリアも気付かないままだった。








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