秘密のクリーム
ネアの指先が、つやつやになったのは何時からだろう。
元々、異なる世界層から引っ張り込まれた彼女は、きちんと手入れされた肉体を持っていた。
特別な手入れはしていないと話していたので、その国の生活水準が高かったのだろう。
話を聞かせて貰うとそこは不思議な場所だったが、こちらとあちらで共通する言葉や文化も多いので、どこかのあわいや先代の世界層などから分岐した隔離地だったのかもしれない。
司る資質的に見る事は得意だったが、それでもこの世界には沢山の死角がある。
例えば死者の国は、厳密に言えば別の世界層に近いものだし、古い物語本の中には物語のあわいがある。
こちらを司る今代の万象の死角は、そのまま“この世界”から削ぎ落されてしまうので、崖の向こう側や森の向こう側、橋の向こうや霧の向こうのどこかには、未踏の世界があっても不思議ではない。
そしてそれ等は、観測された後に地続きになると、この世界に併合される事もある。
(きっと、そういうどこかから来たのかな…………)
そう考えるともうその履歴は気にならなくなったので、艶々の指先に意識を戻す。
「甘い匂いがする」
顔を近づけてその香りをくんくんしていると、ネアが振り返って苦笑した。
「まぁ、クッキーはもうありませんよ?」
先日、唐突にネアに呼び止められて「あなたがクッキーモンスターだったのですか?!」と尋ねられた。
出会ったときに本来の姿に戻っていたのは、お腹が空き過ぎて擬態を解除したからだった。
それまでは、白持ちであることも隠していたけれど、本来の姿の方が、ネアは喜んでクッキーをくれる。
青年姿だともう可愛がってくれないのかと思ったけれど、ネアは今日もすごく優しい。
「クッキーじゃなくて。これ何だろう、果物?」
「ああ、クリームですね。割と爽やかな香りなのですが、成程、ゼノの嗅覚では果物の甘い香りになるのですね」
「指がつやつやになってる」
そう指摘すれば、ネアはちょっと困ったように笑った。
「ディノがね、このクリームを塗り込むのを寝る前の楽しみにしているんです」
「…………ディノがするの?」
「一緒に使っているのだから、自分の分を自分で塗ればいいのに、最近はなぜか、私の手を保湿するのに並々ならぬ執念を燃やしているのですよ。不可解ですよね」
それって多分、自分で面倒見ているようで嬉しいからじゃないかなぁ。
世話をすること自体、とても親密なように思える行為だし。
「そんなに、………私の手は、がさがさだったのでしょうか」
「…………今は綺麗だよ。いい匂いするし」
そっとネアの手を両手で掴んで、臭いを嗅いだ。
うん、果物と花とほんの少しだけスパイスの香り。
とってもいい匂いだ。
「ふふ。ディノも同じクリームを使っているので、同じいい匂いがしますよ」
「……………ディノの手は嗅がないよ。ディノは、自分で塗ってるの?」
「いいえ。彼は時々、自分では何もできないひとになってしまうので、私が塗ってますよ」
返答に困る僕に、ネアは、してもらうだけだと変な趣味みたいで辛いので、やり返していますと付け加えた。
ふんすと胸を張って言うけれど、多分上手く転がされている気がしてならない。
でも、ネアはいつもとても丁寧で優しいので、きっと王は幸せだろう。
「だから、ディノは最近ご機嫌なんだね」
「余程このクリームが気に入ったみたいですね。ちょっと高価なんですが、切らさないようにしてあげないと」
そうじゃないと思うけどなぁと思いながらも、ゆっくりと頷いた。
「それに、このクリームの儀式があると、髪の毛引っ張って欲しいだとか、足を踏んでだとか、困ったことで駄々をこねないのですよ」
椅子になりたいのは毎日ですけどね、とネアは厳しい眼差しで遠くを見た。
因みに最近は、体当たりされる喜びを知ってしまったらしい。
前を見ずに歩いていて、庭にいた蛇の魔物を踏み殺しかけたところ、ネアに体当たりで排除されたそうだ。
それ以来、王はその衝撃に飢えているご様子。
(おいたわしい…………)
そう思いながら、じっとネアを見ていたら、よしよしと頭を撫でてくれた。
今の僕は背が高いので、ネアが背伸びをして、僕が体を屈めなければならない。
「…………僕も、」
「どうしました?」
「僕もクリーム買ってくる」
「そのぷりぷりのお肌のどこに、保湿の必要が?!」
驚くネアを置き去りにして、僕はとりあえず一番良さそうなクリームを手に入れるべく、人間の街に向かった。
購入したのは、恐らくあの街のどこかの店だろう。
夕方になってようやく手に入れたのは、装飾的な凹凸のある硝子容器に入ったクリームだ。
似たような容れ物をネアの部屋でも見たので、同じ店舗の商品かもしれない。
バニラとパチョリと香草の、優しくて甘い香りがする。
その日のうちに、僕にも塗ってと本来の姿でねだったら、ネアはいとも容易く頷いてくれた。
彼女が一瞬の躊躇もしてくれなかったことに、僕は少しだけ悔しくなる。
ほんの少しの対抗心から、拗ねるといけないから王には内緒にしてねと言うと、確かに面倒ですねと了承してくれた。
僕にクリームを塗ってくれたネアの手は、僕と同じ香り。
でも、その日の夜、どこで見ていたのかグラストに、“成人男子が、ご令嬢の手の匂いをあんなに嗅いではいけない”と怒られた。
何だか悲しい。