リノアールの悲劇
晩秋のある日、リノアールの店員達は、訪れた客を見るなり戦慄した。
(男性の方の服装を見ろ。あのコートはコウの毛皮か?!)
(刺繍!刺繍!あの刺繍の為なら、私は貯金をはたいてもかまいません!!)
(誰か、靴のフロアの責任者を呼んで来てくれ!あのブーツを見たら、泣いて取り縋るぞ!)
(あの爪は、雲母を固定材で装飾しているのかしら?何て綺麗なの………)
店員達を慄かせ、なぜだか若干不本意そうな少女を連れて現れたのは、背の高い、たいそう美しい男性だった。
旧ウィームの王都でもあるこのウィーム中央の、世界に誇る品揃えの高級複合商店を、リノアールという。
そのリノアールの総員の誇りを、彼は一瞬で突き崩した。
砂色の髪は艶があり美しく、夜霧を紡いだ妖精のリボンを惜しみなく使い結んでいる。
あのリボンを躊躇いもなく結び皺をつけるなど、近隣の王族でも倒れかねない豪胆さだ。
指程度の長さに紡がれるまでに、百年を要する至高の織物だというのに、その辺のリボンの切れ端のように使っている。
(総員に通達!あのお客様が立ち寄った店舗では、必ず、上得意用の個室の案内をすること)
リノアールでは、支配人を呼び、特別室での買い物を楽しむ顧客も多い。
けれども、元々は、お忍びの王族も歓迎ということを売りにした複合商店だ。
高貴な顧客達に、普段は楽しめない歩きながらの買い物を提案しており、この客もそうである可能性が高い。
(親密そうですね。人目を忍んだ恋人たちでしょうか?女性の方は、中堅爵位の出のようですし)
(………いや、あの靴を見ろ。あれだけで、王宮御用達の馬車が一台作れるぞ?)
(しかもよく見れば、男性のブーツと同じ革で作られていますね。素晴らしい)
「ディノ、私はこういう買い物はあまり………好ましくありません。ほら、金額を見て下さい」
そうして、皆の注目の的となっている灰青の髪の少女が、眉を顰めてそう指差したのは、青柱石を使ったブレスレットだ。
貴族達には安価な値段、裕福な商人達には奮発の範疇と、祝祭の贈り物週間に向けて、現場責任者が意気込んで展示した目玉商品の一つ。
この時期、リノアールの中央吹き抜け広場には、祝祭の贈り物に適した各店舗の目玉商品が並ぶ、特別展示場が設けられている。
(なぜそこを見てしまわれたんだ!もっと高価でもっと稀少なものだって揃えてあります!!)
(くっ、あの金額ではやはり、興味すら示していただけないか!!)
(やめて!まだ商品の入れ替えが済んでいない帽子売り場には近付かないで!!!)
阿鼻叫喚と化した舞台裏を知る由もなく、彼等は様々な店舗や売り場を冷やかしてゆく。
ただひと組の顧客に対して大袈裟だと思うなかれ。
高位の人外者やそのような者達の守護を受けたお客は、そのたった一人やひと組が、商店の評判をいとも容易く書き換えてしまうことがある。
どれだけ厄介でも、一組ずつ、丁寧に対応していかねばならないのだ。
また、単純に、高額の売上げを狙う為でもあった。
「ディノ、お土産なら、もっといいものが他のお店にありますよ?」
(おや…………?)
(あちらか)
(ええ、あちらですね)
どうやら、見た目で判断したのが過ちだったようだ。
買い物の主導権は一見質素に見える少女にあるらしく、財布も彼女が握っているらしい。
えてして、女性の商品観察の方が鋭いとされているし、ましてや、あれだけ美しく稀有な男を傅かせているような少女だ。
彼等を見守る店員達は、気持ちを引き締め直した。
(なんとも手強いな。こんなところには良い品物がないと決めてかかっている!)
「でも、君はこういうものが好きでだろう?」
そう微笑んだ男に見惚れていた店員は、即座に戦力外として下がらせた。
彼が唯一の突破口かもしれないのだ。
上手く誘導して、少女に品物を見させようとしてくれている。
(まぁ、男性の方がロマンチストなのね。あの女の子に、可愛らしい品物を買わせたいのよ)
(少女の方も、このような場所には慣れていないのだろう。案外、飾り木に見とれているぞ?)
(王族なのかもしれませんね。立ち振る舞いは堂々としていますし)
(成程、出歩くこと自体に慣れていらっしゃらないのかもしれない。お忍びで連れ出されたのかな)
「ディノ、…………これは何ですか?」
「フィンベリアだね。自然気象が化石になったもので、それを研磨して加工しているんだ。ほら、これは雪の夜が化石になったもの。こっちは、朝焼けで、こっちが夏の夜の雨だね」
「それだけじゃなくて、中に小さな細工が入っています!」
「石の中に手を加えて、風景そのものを切り取ったようにしたのかな」
「スノードームみたい…………」
喜ぶべきことに、少女はフィンベリアの一つを手に取ったまま動けなくなり、現場担当者は影で店舗責任者と熱い握手を交わしている。
素通りされた隣りの店舗の責任者は、泣いているようだが明日までに立ち直れるだろうか。
「ネア、気に入ったなら買えばいいのに」
「…………やっぱり、これは買えません」
「買ってあげるよ。この雪のものと、夜の雨のものも気に入ったのかな?」
「ディノ、これでは本末転倒と言うものです。今日はですね…」
「君だけ、狡いと思わないかい?」
「…………ずるい?」
透明感のある鳩羽色の瞳を丸くして、少女は首を傾げた。
理知的な面立ちの少女なので、そういう仕草をすると一瞬で印象が変わる。
どこか無垢な表情と、繊細に整った少女らしい美しさが混ざり合い、何やら危うい。
丁寧な仕事で作られた、老舗工房の硝子細工のようだった。
「今日は、ネアばっかり私に色々買ってくれて狡いとは思わない?私にも同じことをさせて」
「私が与えたのは、食べるものばっかりですけどね」
「でも、嬉しかったから、私もしたいな。ネアは、そういうのも禁止してしまうのかい?」
背の高い男性が、小柄な少女の袖を摘まんで強請る様は随分と可愛らしい。
しばらく長考した後、少女は陥落した。
その間、両手で持ち上げたフィンベリアに視線が釘付けだったのは好ましい限りだ。
最終的に、そのお客は、幾つかの品物を購入した。
フィンベリアを一個(雪の降る夜の森に、聖堂と鹿のモチーフがあるものだ)に、保湿成分の高い、香油入りのクリームを一瓶。
街外れにある北の離宮をモチーフにした、硝子細工のオルゴール。
夜露の結晶をあしらった、湖水銀の万年筆。
クリームは当初、何やら投げやりな様子で少女自身が購入しようとしていたが、同行者の男性が素早く支払いを済ませてしまった。
気付いた少女が、共用出来るようにと、柑橘系の香りを主体にしたものに品物を取り換える一幕があり、微笑ましく見守る。
オルゴールと万年筆は男性自身の買い物であるが、少女が目を止めていたものを、気付かれないように購入していたので贈り物だろう。
だがしかし、二人の周囲を付かず離れず徘徊し、何とか会話と紹介の糸口を探していた総支配人は戦果なく意気消沈していたし、彼等が足を止めもしなかった多くの店舗の主達は、苦い涙に肩を落とした。
故に、我々はこの日のことを、リノアールの悲劇と名付け、教訓とした。
日頃の教育の成果虚しく、彼等の顧客情報を入手出来なかったリノアールの敗戦の日である。
万年筆を購入して貰うことが出来た私には、臨時賞与が支給され、私がそれを元手にして、発作的に指先程の夜霧のリボンを購入したのはいい思い出となっている。
万年筆は、後日、ネアの執務机の常備品として滑り込ませられています。