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ネアハーレイ 2




『ディノと呼んでくれるかい?』



それが本当の名前だから。

虹色の魔物は、そう要求してこちらを見下ろした。



ディノシルハーン


それが、魔物の通り名であるらしい。

今の名前は短くて呼びやすいのはいいが、最初の響きも結構気に入っている。


音楽のような、祝福のような不思議な名前に、かつて呪ったこともある自分の名前をふと思う。

語感が少しだけ似ていたのだ。



「ディノ」


最初にそう呼んだときの喜びと困惑の入り混じった無防備な表情に、自分には不相応な恩寵として手放すにせよ、この魔物を大事にしてやろうと強く思った。

名前を呼んだだけで、こんなにも嬉しいと目で、微笑みで、全身で示されるのは初めてだった。



(………あなたを呼んでくれる人が、誰もいなかったの?)




そう思うのは知っているからだ。

もう誰も、誰も自分の名前を呼ばないということを、ネアが、痛いほどに。



「ネア、今日は髪の毛引っ張らないのかい?」

「日課のように言わないでいただきたい」



けれども非常に残念なことに、この魔物の幸福は、常人には理解出来ないところにあるようだ。



「この前みたいに、爪先を踏んでもいいよ」

「私の趣味で踏んだみたいな言い方はやめましょうね」



不用意な発言で、片思いのエーダリア様を傷付けたので、足先を踏んで黙らせただけではないか。

ただ大切にするには、少々荷が重かったようだ。

そのことを悟った初日の内に、転職する覚悟をあらためて決めた。




「…………困ったなぁ」



それなのに、この魔物は時々、心の奥の柔らかい部分を掻き毟る行動を取る。


カーテンの隙間から差し込む光は、まだ明けきらない夜明けの柔らかな光。

青白く静謐なその部屋の中で、無防備に眠り込んだ魔物を見ている。


ばさりと広がった真珠色の髪は、この薄闇の中でも内側から光るよう。

閉ざされた瞼を縁取る睫も、同じ色彩だった。



(こうして眠っていると、起きている時より遥かに、酷薄に見えるんだ)


時々ディノは、唇の端だけで器用に微笑む。

ひやりとする程に残忍な微笑の凄烈さは、決してこちらに向けられることはない。

それはとても、魔物らしい美しさだった。



そんな魔物が、拍子抜けするような些細なことで、子供のような目をする。


それは例えば、絡まった髪を梳いてやった瞬間だとか、ディノのお気に入りらしい酢漬け野菜を分けてやったときだとか、洗髪の際に、耳に水が入らないように押さえてやったときに。

いつもの、獲物を窺う老獪な獣のようなあざとい喜びようではなく、綺麗な目を大きく瞠って、ほろりと、心を取り零すように淡く微笑むのだ。



多分、この魔物は非常に寂しがり屋である。



けれども性格が災いしてか、或いはその生い立ちや存在故なのか、ディノは、わかりにくいなりの素直さを発揮するゼノのようには明かさない。

自分の孤独と安堵を、上手く捌ききれていない。



だからもし、この魔物が今の不安定さをどうにか飲み込むようになり、その上でもこの手が必要なのだと訴えるのであれば、いつまででも大事に慈しんであげるのに。



彼が、ネアには埋めてやれない、厄介な嗜好を諦めることが出来ればだが。




(貶したり踏んだり、本物のひとの嗜虐嗜好を満たすだけの才能がない…………)



そう考えると、寂しい気持ちになった。

残念ながらネアには、彼の喜びを満たしてやれるだけの素養がない。


現状エーダリア様とてその界隈ではないような気がするが、生まれながらに高貴な存在である彼ならば、せめてネアよりは上手くやるだろう。

本当に愛する者の手に委ねるのであれば、ネアもこの執着も宥めることが出来る。



(私に、あなたを守ってあげるだけのものがあればいいのに)



叱られると思ったのだろうか。


勝手に寝台に潜り込み、ディノは器用にネアの指一本だけを握りしめて眠っている。

手を握るだけのことは出来なかった稚さは、どこかアンバランスで可愛らしい。


ふと、ネアは、彼からもらった指輪が、彼の爪の色と同じであることに気付いた。

柔らかな気持ちが一瞬で吹き飛び、ぎりぎりと眉間の皺が深くなる。

いささか不整脈になりかけてしまうのは、単純に怖いからだ。



(………まさか違うよね?)



慌てて寝ているディノの手を持ち上げて全確認したが、幸い爪は全て揃っている。

だが、左手の小指の爪だけ、僅かに色味が違うのは気のせいだろうか。

あの後念の為に図録を再確認させて貰ったが、この指輪の記載はどこにもなかった。



「ち、違うよね…………?」



この感情は、平穏な日常の挿入から始まる、ホラー映画の冒頭の感覚とでも言えば伝わるだろうか。

やはり、適切な専門家に託してやるべきだと、強く思った。




例えこの魔物が、ネアが無残に失った家族のように、この名前を呼ぶのだとしても。







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