第一王子
ウィームのリーエンベルクには、白い魔物がいる。
そう噂され始めたのは、いつからだろう。
そんな馬鹿な。
白い魔物が、そう容易く人界に姿を現わす筈がない。
そう考えて報告書を放り出した。
どうせまた、他領の連中がウィームに対して、根も葉もない噂を流したのだろう。
(…………馬鹿馬鹿しい)
白い魔物という表現が、一体どれだけの稀有なものなのか、知りもしないくせに。
魔物という生き物は、纏う色彩の多さでその属性を伸ばす。
色の透明度でその深さを示し、鮮やかさで鋭さを謳う。
何を治める者であるか、その持ち得る意味でまた可動性を広げ、総体的にある程度の階位を決める。
ただ一つ、全てを覆す白のその色彩を除いて。
だから、幼い頃からずっと、白を持つ魔物を手に入れたいと思っていた。
それは魔物だからこその拘りではなく、あまりにも息の詰まる王都の狭さに、せめて心を砕いた者達を守れるだけの力をと望んだからだ。
一度だけ、白い斑点を持つ魔物を見たことがある。
子供の頃、母である王妃の外遊に合わせて、真夜中の海を渡った。
波の音は思いもかけず大きく、眠れない夜は長い。
真っ暗な海を睨むように見続けていたそのとき、真夜中の海を不思議な行列が横切ったのだ。
鳥の頭の騎士に、首のない従者達。
枝に覆われた侍女は、背中に妖精の薄い羽があった。
奇妙で恐ろしく、賑わしいくせに音一つ立てない人ならざる者達。
まるでそこに道があるみたいに、奇妙な行列が通り過ぎてゆく。
そしてその行列の中央に、その魔物はいた。
黄金の輿に乗せられた、栗色の髪の魔物。
美しさに特化し過ぎた容貌は、子供には理解が難しく、女であったか男であったかすら定かではない。
ただ、壮絶なまでに美しかった。
栗色の髪には白い斑点があり、鹿の子供の毛並みに似ている。
けれども、その魔物の眼差しには幼さの欠片もなく、自分を運ぶ行列の全てを、まるで虫けらでも眺めるように睥睨していた。
数分だったか、数刻だったのか。
気付けば海は元通りの暗闇を取り戻しており、あの行列はどこにもいなかった。
一人取り残された豪奢な船室で、泣き声を聞いた乳母が駆けつけてくるまで、声を上げて泣き続けていた。
後にも先にも、あれだけ泣いたのは初めてだ。
あの行列に加えて欲しかった。
虫けらの一欠片で構わない。
あの魔物と共に、どこまでも一緒に行きたかった。
後から思えば恐ろしい事だが、なぜだか、心からそう思ったのだ。
「速やかに私を解放しなさい!」
背の高い魔物に抱き上げられた少女が、眦を吊り上げてその魔物を叱っている。
リボンで一纏めにした長い髪は純白で、そこに、世界に存在するありとあらゆる美貌の色を這わせている。
(白い、魔物)
愕然と、その光景を見ていた。
魔物の特等の白は、その領域の広さで階位を決める。
かつて、この大陸の信仰の要として降り立った白持ちの魔物は、今でも信仰に篤く、絵姿として残されている。
かの魔物は、白い牡鹿の角を持つ乙女であったという。
それ程で充分なのだ。
いや、正直なところ、それ以上の白を帯びる魔物を人間は見たことがない。
髪など伸びるではないかという問題ではなく、これ程の長さの髪で、これだけの量の白を纏うこと自体が異常だった。
「…………他にも白があるのか?」
「瞳と、睫毛に。指先の爪も白いですよ。足は見たことはありませんが」
振り返った先で、腹違いの弟はどこか投げやりに報告を重ねた。
幼い頃から潤沢な魔術に恵まれ、したたかにあの王都で生き延びていた厄介な頭脳を持つ弟。
優秀なのであれば上手く使おうと思っていたが、狡猾に地図を引き、城から逃げて行った。
歌乞いと魔物を統括し、前例にない若さで古参の魔術師達を一掃し、あの魍魎の椅子に座った男。
そんな弟が疲れた顔をして、白い魔物と寄り添う歌乞いを見ている。
その目には見慣れない畏れと、更に見慣れない憧憬にも似た何かがあった。
その眼差しに少しだけ、ああ、弟なのだなと思う。
「だから、陛下のお言葉に叛くのを承知で、彼女との婚約を破棄したのです。私とて、あの魔物の不興を買いたくはない。そしてそれは、国そのものの傷となりかねない」
「ふむ。欲しいな」
「おやめ下さい。次期国王を、そんなことで失うわけにはいかないでしょう」
「離宮に留まり、まだ鎖探しに行かないのは、あの魔物が理由か?」
「仮面の魔物は厄介ですが、あの魔物を飼っていると知られることも災いを呼ぶでしょう。過ぎた恩寵は、得てして災厄の目になる。いずれは利用しますが、今はもう少し場を整えたい」
「成る程。関わりを持つ者には、白い魔物は災いか」
ではなぜ、エーダリアは、こんな瞳であの二人を見ているのだろう。
私の幼い頃の強い憧れにも似ているが、弟は自分とは違う。
(お前は、望めば彼等と一緒にどこまででも行けるではないか)
そう考えて、報告書には続きがあったことを思い出す。
「お前は、あの白い魔物に懸想しているのか」
そう問いかけると弟は、まるで酷い意地悪を言われた子供のように、今にも泣きそうな顔でこちらを振り返る。
遠い日に、その危うい足元をどうにかしてやりたいと願った弟を、けれども初めてただの弟として認識した瞬間だった。