湖の精霊と湖竜
シュタルトという町の湖には、湖竜が住んでいるという。
若く美しい男性の姿をしていて、その美しさに湖の精霊も恋をした。
けれども竜は、精霊が手を伸ばすとあっという間に羽ばたいて空に消えてしまう。
湖の精霊は日々叶わぬ恋に涙を流し、そのせいでシュタルトの湖は、湖底が見えるくらいに透明な水を湛えているのだそうだ。
「精霊さんは泣き過ぎなのでは」
そう涙腺の心配をしたネアに、ディノは珍しく苦笑した。
「精霊は感情の振り幅が大きく、執着心が強いからね」
「ディノ、口調が昔の女を語る悪い男のようですよ」
「ネア?!」
魔物はとても悲しげに驚いたので、精霊の女性に特に思い入れがあった訳ではないようだ。
「そう言えばディノは、王様なのですよね。後宮のようなものはどうしたのですか?」
「誰がそんなことを言ったんだい?」
「………歌劇場で、逆さまだった魔物さんが」
「そう言えば話していたかな…………。でも、どうして後宮があることが確定事項なのかな?」
「王様ですから、あるのではないでしょうか?ディノは強くて綺麗ですし、志願者も多かったことでしょう」
女性の魔物に出会う機会は少ない。
少し、心がもやりとはするが、その後宮にどれだけの美しい魔物がいたのかと思えば、興味が湧いた。
「後宮なんて持たないよ」
「でも、お城の方にあれこれ言われませんか?」
そう言えば、ディノは小さく笑った。
真珠色の髪を縛る淡い菫色のリボンに触れて、その表面を大事そうに撫でる。
「住まいとしての城はあったけれど、そこに私以外の者が入ることはない。誰の手も必要ないからね」
「……お城に、一人でいたの?」
「私達魔物は、派生した瞬間からこのままだ。誰かの手を借りる必要はないんだよ。下位の者は群れることもあるけれど、爵位を持つ魔物は大抵そうだ」
驚きのあまり、何も言えなくなった。
以前ディノは、誰とも住んだことがないと話していたが、それは近しい相手という意味だと思っていたのに。
「後宮でも、部下達でも、そのようなものではなくても、誰かを集めようとも思わなかったのですか?」
「必要ないから、しなかったな。外に出て、寄ってきたものと関わることはあったけど、一晩も過ごせば飽きてしまうし」
「爛れていた………」
少し責める眼差しになったせいか、ディノは慌てて言葉を足す。
「アルテア達のような、知人も含めてだよ。下位の魔物に擬態して人間の組織の中で遊んだこともあるけれど、やはりすぐに壊れてしまったし」
長く側で生きた者はなかったかな、と呟いたディノに、ネアは勢いよく体をぶつけた。
「………ご主人様」
「魚の鱗を剥いでいて手が塞がっているので、暫定的処置です。………そんなディノが、どうして私をこの世界に引き落とそうと思ったんですか?」
「気に入ったから。ずっと傍に置いて、傍にいて貰おうと思って」
無垢な微笑みで、とてもしたたかで。
けれど、特に忌避する理由もなかったので、ネアは小さく微笑んで頷く。
もしも、と仮定する必要もない。
あちら側には特に未練もないのだ。
「では、私は頑張って長生きして、ずっとディノの傍にいますね」
「………ネア」
またほろりと、嬉しそうに微笑む。
「さてと、これで下拵えは終わりです。今夜は魚だらけの晩餐ですよ」
「ネアは魚が好きなんだね」
「料理によりますが、新鮮な魚は好きです。でも、基本微量な肉食で乳製品が一番ですので、リーエンベルクの食事が私の理想ですね」
ネアが好きなのはチーズとバターと加工肉。そして香草と骨の少ない魚だ。
魚は白身で濃厚なソースを合わせるか、塩釜焼きか、いっそスパイシーにするのが好きである。
実は、エーダリアとは、ほとんど同じ食嗜好であった。
「私は好きな料理を習得するのも好きなので、リーエンベルクからも調理方法泥棒してます」
本日のメニューは、とても秋刀魚に似ている謎の淡水魚の塩焼き。
鱒は焼き目をつけてから、香草とオリーブとたくさんの冬野菜に、白葡萄酒と塩胡椒で。
山羊のチーズの香草のスープは盗作メニュー。
川海老だけど海海老みたいな川海老を揚げて、大蒜と唐辛子で辛めの味付けにしたもの。
白パンは町で買ってきた。
水が美味しい土地なのでネアは檸檬水にして、ディノは料理を見てから何か葡萄酒めいたものをひらりと取り出した。
「はい。いただきましょう」
本当はトナカイの肉とやらも試してみたかったが、手に負えないので見送った。
そのせいか、食卓に肉料理はない。
ディノが肉食だったら、今夜は我慢させるしかないのだが、嬉しそうにしているので大丈夫だろう。
「……ネアの料理は初めて食べる」
少しおっかなびっくり取り分けるので、可愛らしくなって微笑んでしまった。
「土地のものをいただきたいので、素材重視で偏ってしまってごめんなさい。スープは私の中毒料理なので外せませんでした」
「美味しい」
様々な美食を堪能してきたろうに、そんなことを言う。
空気を読める良い魔物になったと、ネアは晴れやかな気持ちになった。
(どんなに良い出来でも、家庭料理の延長なので)
本物の料理人の食事を、毎食いただいているのだ。
これが特別美味しいと言うほどでもないだろう。
塩焼きだけは別だ。
これは素材の良さが、素晴らしく反映されてくれている。
「秋刀魚に似ている……」
はぐはぐと食べていたら、鱒料理をしみじみと口に運んでいるディノが気になった。
最初の一言以降、とても静かに食べている。
「ディノ?もし味が足りなかったら、塩や胡椒を足して下さいね」
「……美味しいよ。こういう料理を食べたのは初めてだ」
「家庭料理系統の味が好きであれば、そういう料理を選んで出すお店もありますよ」
「ネアの料理がいいな。また作ってくれるかい?」
「気に入ってくれるなら、また作りますね。凝ったものは出来ませんが、私としてはそれなりに好きです。計画から完遂までを効率的に楽しめる手段ですから」
「作っているのを横で見たのは、初めてだったよ」
「ふふ。今日は厨房も貸し切りでしたしね。この後で、お片付けもしますよ」
「ネアが、お皿を洗うのかい?」
とびきりに世間知らずな質問に、ネアは優しく微笑んだ。
「やり方を教えてあげるので、一緒に洗ってみますか?」
「うん」
気持ちのいい返事に、ネアはほくそ笑む。
面白そうだと思ってくれる内に、色々経験させてみよう。
「ところで、本当にこの湖には竜がいるんですか?」
「昔はいたね。最近は見ないけれど、渡りをしたのかもしれない」
「渡り?鳥が季節に合わせてするような、あの渡りですか?」
「竜は、成長過程で住処を変える生き物だ。成竜になれば、また生まれた土地に帰ってくるよ」
「ということは、今は湖の精霊さんは泣き通しでは……」
「このような水辺の精霊だけは、住処を変えられない生き物なんだよ。だからこそ、翼のあるものに惹かれるのかもしれない」
「憧れは恋になりやすいと言うので、そのような感覚はあるかもしれませんね」
そこで、少しの間もそもそとした後に、ディノはちらりとこちらを見る。
微かに弄うような、艶めいた魔物の微笑み。
「ネアは、今は何が好き?」
「海老でしょうか。こやつ、川海老のくせに身が太っていてとても美味しいです。私を幸せにしてくれる存在ですね。愛さずにはいられません」
「なんか違う気がするけど、いいな、海老になりたい」
「………揚げられて、大蒜と唐辛子と和えられますよ?」
「それでもいい」
「大変に凄惨な現場になるので、やめて下さいね」
窓の外は静かに雪が降り始めていた。
この湖岸の街は湖に近く寄り添っているので、湖の精霊は、恋しい竜に会えなくても一人ぼっちにはならないだろうなと思って、ネアは少しほっとした。