第2章 仲の良くない二人 3
病院出口に姿を現した中澤。
物陰に潜んで待ち構えていたが、こちらに気付く様子はない。
どうやら、唯子は上手いことやってくれたようだ。彼女は親切をしたとしか思っていないだろうが。
さて、尾行開始だ。
まだ夜の八時だが、今日の肌寒さは際立つ。
素足にサンダルの中澤には、相当堪えるだろう。彼は二の腕をさすりながら、身体を丸めて速足で歩く。よほど寒いのか、後ろも振り返らずに急ぐ。
俯きながら歩く彼の姿は、後ろからでは表情が読み取れないが、寒さばかりではなさそうだ。
五分ほど歩いたところで、小道に入っていく中澤。
そろそろ終点か。
お世辞にも立派とは呼べないアパート。
さっき契約を済ませたばかりの我が家、『日没荘』とどっこいどっこいだ。
中澤は、錆びついた外階段の上り口をしばらく見つめていたが、やがて階段を上ると、上り切った正面の部屋へと入っていく。あれが二人で暮らしていたという家か。
しばらく電柱の陰に身を潜めていると、再び中澤の登場。
さっきまでの見てるこちらが寒くなる服装とは打って変わって、しっかりとしたよそいきの服に大きなカバン。その中身は唯子にアドバイスされた入院用品と思われる。そもそもの助言をしたのは俺なのだが。
そして当然、行き先も病院に間違いはないだろう。
自宅までの道案内をしてもらった彼には、もう用はない。闇に消えていくのを見届け、こちらも行動開始だ。
さっそく、中澤が見つめていたところに近寄る。
コンクリートの床には、結構な範囲に赤い染み。住人が水を撒いて洗い流したようだが、血と思われる痕跡が照明によって照らし出されていた。ここが現場で間違いなさそうだ。
事故の真実が気になり、ここまでやってきた。
そしておあつらえ向きに、目の前の部屋には明かりが灯っている。
事故そのものを目撃していれば言うことなし。そうでなくても、現場に立ち会っていれば充分な情報を持っているはず。
さっそくサングラスを外し、そのドアをノックした。
「夜分すみません」
ドアを開けたのは五十歳ぐらいの主婦だろうか。
表情が硬い。警察の聞き込みとでも思ったのかもしれない。
だが彼女は、頭のてっぺんから爪先まで眺めると態度を豹変させた。警察ではないと悟ったのだろう。こんなラフな格好をした警官がいるはずもない。
今度は胡散臭いセールスマンか宗教の勧誘とでも思ったのだろうか、途端に煩わしそうに横柄な態度に出る。
「なんだい? 晩ご飯の支度で忙しいんだけど」
「知人が階段から転げ落ちたって聞いて飛んできたんですけど、どうなったか知りませんか?」
「ああ、さっきのあれね。ものすごい音だったからビックリしたわよ」
一件目で当たりを引いた。どうやら事故当時も家にいたようだ。
ついさっきまで煩わしそうにしていた彼女は、またも豹変。
今度は話好きのおばちゃんといったところか。こちらが胡散臭いものではないとわかり、警戒を解いたのだろう。
こちらから質問するまでもなく、次々と話し始める。
「雷でも落ちたのかと思って慌てて外に飛び出したら、そこに女の子が血を流して倒れてたのよ。それで、名前覚えてないんだけど二階の部屋の男がボーっと突っ立ってたから、『早く! 救急車!』って言ってやったのよ」
彼女は得意気に体験談を語る。
身振り手振りのゼスチャー。
感情のこもった抑揚。
この手の人種は話し始めると、本当に止まらない。
「それでも茫然としてるから、仕方なく私が救急車呼んであげてね。落ち着かせて話を聞いてみると、彼女が躓いて転がり落ちたっていうじゃない? ドジよねぇ。でも、救急車で運ばれるまでピクリとも動かなかったから、ちょっと心配だわ――」
階段を塞ぐ形で横たわる女性。
頭から血を流し、顔の下側にできる血だまり。
そして階段の中ほどから、茫然とした表情で見下ろす中澤の姿。
彼女が心配するのも当然な状況。
こんな記憶が頭に浮かんだせいか、表情にみるみる表れる嫌悪感。
そして、その記憶をかき消すように頭を振ると、突然の激昂。
ちょっとした演技派女優だ。すっぴんで部屋着のままだが。
「――あー、もう! あんたのせいで思い出しちゃったじゃないの……。あんな気持ち悪いのは、もうごめんだわ!」
一方的に話したいことだけを話し、勢いよく閉められるドア。
結局『彼女がどうなったか』と聞いて以降、口を挟む暇も与えてもらえなかった。
だが、語られた彼女の言葉に嘘や勘違いがないことは、記憶の映像からも明らかだ。この上ない情報をもたらしてくれた演技派女優には感謝しなければ。
そして確信する。
(――真実を知ってしまっちゃ、黙っていられないな……)