第2章 仲の良くない二人 1
「すいません……遅くなってしまって。ふう……、まだ、大丈夫ですか?」
息を切らしながら駆け込む不動産屋。
どうやら間に合ったらしい。
唯子が振り向く。
「いらっしゃいませ。今日はお越しにならないのかと心配してました」
店内は閑散としていて、閉店間際ならではの静けさ。
店員はほとんど退勤したのだろうか。唯子の他には、責任者と思われる高齢の男が一人だけ。
一足遅かったら、今夜もまたネットカフェで窮屈な一夜を過ごすところだった。
すんでのところで回避。
改めて胸を撫で下ろす。
「それじゃ、始めましょうか」
そう言いながら、サービスのコーヒーを差し出す唯子。
そしてパンフレットを取り出すと、鍵の引き渡しにあたっての注意事項を形式的に読み上げ始めた。
その単調な説明をぼんやりと聞き流していたが、ふと閃く。
(まてよ、これはチャンスだな……)
絶好のシチュエーションに、邪な考えが頭をもたげる。
邪と言ってもビジネスの話だ。いや、あわよくばそれもありか。
水野江工業近隣の町工場からはちっとも情報が得られなかったので、現状当てにできるのは唯子だけだ。
彼女の説明が途切れるのを待って、小声で囁く。
「水野江社長と君のお父さんとの関係で、ちょっとばかり聞きたいことがあるんですが」
「どんなことでしょう?」
真面目な唯子らしい素直な受け答え。
わざと責任者風の男の方をチラリと見てから、さらに小さい声で耳打ちする。
「自殺の理由とも関わりがあるかもしれないんですが……」
唯子が目を見開く。
動揺する唯子を尻目に、遮りやすいようにゆっくりと話を続ける。
「実は、ですね――」
「ちょ、ちょっと待ってください。ここじゃなんですから、どこか場所を変えて……。私ももう帰るところですし、お食事でもしながらお話をお伺いします」
まんまと彼女の方から食事に誘わせ、ほくそ笑む。申し分ない展開。
日中の慌ただしい店内だったら、こうも上手く話は進まなかっただろう。閉店間際に駆け込んだ甲斐があったというものだ。
それ以降の唯子は散々だった。
同じ所を読み上げる。
肝心な部分を飛ばす。
まるで新人、しどろもどろ。
やっとのことで説明を終わらせた彼女から、契約したアパートの鍵を受け取る。
そして、彼女は深々と頭を下げ、店から送り出す。
「ありがとうございました。それでは、後ほど……」
昨日の営業車よりもさらに窮屈な軽自動車の助手席。
体育座りをしているような錯覚に陥る。
薄いピンク色の車体、かわいらしい内装、そして漂う良い香り。
この車と対面したときは愕然とした、これは罰ゲームかと。
「駅周辺だと会社の人がいるかもしれないんで、ちょっと遠くのお店にしますね。その代わり、帰りは新居までお送りしますから。それで……、さっそくですが――」
知り合いもおらず、誰に格好をつけるわけでもないが、この車はやはり少し気恥ずかしい。
しかしそんな暇も与えず、唯子が質問をぶつけてくる。
強い口調で。
ストレートに。
ずっと気が気でなかったのだろう。
「――父の自殺の理由を教えてください!」
「いやいや、理由がわかったなんて言ってないよ。関係があるかもって言っただけだ」
「そうですか……」
彼女の中でどれだけ妄想が膨らんだのか。
だが連日あれだけ取り乱すほどだ、父親の自殺の理由は彼女の中では相当なものに違いない。だからこそ、食いつかせる餌として使ったわけだが。
「君のお父さんは、水野江社長に弱みでも握られていたのかな? 相当な低姿勢で頼み事をしていたようだけど」
水野江の記憶にあった、唯子の父親が登場した場面を尋ねる。
大の大人が涙ながらに土下座など、そうそうあることではない。
しかも、床に額を擦り付けて。
「きっと、倒産するちょっと前のことですね。その頃、私はまだ中学生でしたから、父は何も話しませんでした。仕事が上手くいってないのは察してましたけど、こっちから聞けるはずもなくて……」
「じゃあ、何を頼んでいたかまではわからないか……」
「そうですね、はっきりとは……。きっと、お金絡みだと思いますけど……」
それぐらいは俺にでも思いつく。
だからこそ、唯子からならもっと詳しい話が聞けるかもしれないと考えたのだが、この様子では彼女から水野江に迫るのも無理だろう。
唯子も空振り。となれば、彼女ももう用済み。
話題も尽きて、静寂が車内を包み込む。
「あ、すみません」
携帯電話の着信音が静寂を破る。
唯子は路肩に車を停め、バッグから携帯電話を取り出すと、不思議そうな顔をしながら出る。
「もしもし。……えっ……?」
一気に青ざめる唯子。
目も泳ぎ、焦点も定まっていない。
ただ事でない空気が、唯子から漂い始める。
「――わ、わかったわ。すぐに、すぐに行くね……」