前へ次へ
6/24

第1章 疑わない女 5

 うーん…………。

 最悪の寝起きだ。首も痛いし、頭も痛い。無理な寝相がたたったか。

 やはり、ネットカフェでは安眠には程遠い。


 備え付けのパソコンのモニタは、この街での最初の客の顔写真を映し出したままにしていた。

 『水野江(みずのえ) 源三郎(げんざぶろう)、六十二歳』。

 唯子が口にしたキーワード、『水野江工業 社長』。

 夕べ、パソコンで検索してみたら、一発で正解を引き当てた。

 あまりにもあっけない、人探しの終了。拍子抜け。


 悪どい噂も山のように出てくる。脱税、贈賄、恐喝、果ては殺人まで。

 これは搾り取り甲斐がありそうだが、ネット上に転がっているのは噂だけ。結局、役に立った情報は所在地ぐらいか。

 使えるネタは自分でかき集めるしかない。

 身支度を整えると、精算して店を後にした。




 高く張り巡らされた、壁。

 そこかしこに設置されている、防犯カメラ。

 そして通用門を厳重に守る、警備員。

 ネットで調べた住所から、さっそく訪れてみたのは水野江工業。

 着慣れないスーツに身を包み、フリーライターに成りすましてはいるが、とても部外者が気軽に立ち入れる雰囲気ではない。


 (今日のところは周辺調査にとどめておくか……)


 この近隣は町工場が点在している。当然、水野江工業とも関連は深いはず。

 情報を求めて、町工場を訪ねて回る作戦へと切り替える。



「すいません。取材で社長さんにお話を伺いたいのですが」

「は? もうちょっと大きい声で!」

「社長さんはどちらですか!」


 すべてかき消す、やかましい機械の音。

 思った以上に声を張り上げないと会話にならない。

 偽物の名刺を差し出し、怒鳴りつけるように入り口付近の作業員に尋ねる。

 面倒そうな表情で、油まみれの軍手を外す若い男。

 軍手を外してもなお、油まみれの素手で名刺を受け取ると、奥へと案内する。


 案内されるままについていくと、そこには溶接作業中の人物。

 そして指差しながら「この人ですよ」と若者は告げると、不愉快そうに元の場所へと帰っていく。作業の中断が迷惑だったのだろう。


「社長さんですか?」


 必要最小限の言葉で、大声で尋ねる。

 溶接のマスクを外して現れたのは、赤黒く焼けたような肌の色の骨ばった顔。

 小柄な五十過ぎの男は、職人という言葉がぴったりだ。


「あんたは?」

「雑誌の取材です」

「そんなもんに付き合ってる暇はねえ。帰ってくれ」


 あっさりと断られた。

 だが、『はいそうですか』と引き下がるには、あまりにも早すぎる。

 サングラスを外し、用件をズバリとぶつける。


「水野江工業さんのことで、聞きたいことがあるんですよ」

「何が聞きてえんだ。こっちは忙しいんだよ」


 水野江の名前を出して飛び込んでくるのは、やはりひどい有様の映像。

 あの男には、随分と苦渋を飲まされているようだ。


 映し出される映像は、頭を下げ、謝っている場面ばかり。

 取引相手という円満な関係にはとても見えない。むしろ、受ける印象は奴隷扱い。

 こんな目に遭っているのなら、思うところもあるだろう。

 さらに詳しく話を聞き出すために、ズバリと質問をぶつけてみる。


「水野江製作所には、恨みとか色々あるんじゃないですか?」


 その言葉に、男の表情は険しくなる。

 そして口を真一文字に結び、目を閉じたかと思うと、次の瞬間に一気に開かれる。


「馬鹿野郎! てめえ、うちの工場潰す気か! そんなもんねえよ。早く帰れ!」


 予想外の言葉と、その声の大きさに思わず首をすくめた。

 そして男は立ち上がると、言葉だけでなく、身体を小突く。

 工場から追い出すように、小突く。

 さらに小突く。

 二度三度と繰り返されるその光景に、周囲の従業員も作業の手を止める。

 これだけ注目を集めては、とても居たたまれない。そのまま工場を後にした。



 気を取り直して二軒目。

 今回はやや大きめの小奇麗な建物で、やかましい騒音もあまり漏れてこない。

 今回は怒鳴る必要もなく、インターホンで用件を伝える。


「すいません、取材で社長さんのお話を伺いたいのですが」

「少々お待ち下さい」


 自ら社長と名乗った、六十近い中肉中背の男が玄関を開く。

 老眼鏡と思われる眼鏡をかけ、白髪も随分と多く、全体的に見ればグレーの髪。そして、人の良さそうな穏やかな表情。

 差し出した偽物の名刺を受け取った社長は、ざっと社内を案内すると、応接室へと招き入れた。


「どんな取材なんですかね?」

「町工場の現状のレポート記事です」

「なるほど……」


 さっきはストレートに質問をぶつけすぎて失敗した。

 今回は慎重に、水野江の名前を出すのも様子をみてからにしよう。

 だがサングラスは外し、いつでも目を合わせられる準備は怠らない。

 

「まずは、会社設立の辺りから話を――」


 雑誌の取材がどんな手順で行われるかなど、わかりはしない。

 それっぽく見せるために、普段から持ち歩いているボイスレコーダーをテーブルに置く。録音しているように見せるが、スイッチは入れていない。電池がもったいない。

 そして、メモを取ってみせながら、適当な質問を並べたてる。

 水野江の話に誘導できそうな回答待ちだ。

 機をうかがう。


「――次に、町工場ならではのご苦労などお聞かせ願いますか?」

「そうですねえ……。やはり、景気の煽りをもろに食らうところでしょうね。私どものような下請けは、元請けがよろめいただけで簡単に転びますからね」


 この回答なら『水野江工業』の言葉を出しても不自然ではないだろう。

 さっそく社長の目を見て、質問を切り出す。


「この辺りで元請けって言いますと、水野江工業さんあたりですかね?」

「ええ、水野江さんには頭が上がりませんよ。うちは、あそこでもってるようなもんですから」


 やはりか。

 社長の穏やかな表情とは裏腹に、厳しい現実が飛び込んでくる。

 辞表を提出する従業員、それを引き留める姿。

 水野江工業の名前を出してそれが見えたということは、何か関連があるのだろう。

 嫌がらせに耐え切れなくなったのか、それとも引き抜きか……。

 そして、土下座までして水野江を見上げる姿。

 さらにそれを虫けら扱いで見下す、水野江の憎らしい表情。


 この社長もまた、水野江に煮え湯を飲まされているのは明らかだ。

 さっきほどではないが、やや直接的に探りを入れてみる。


「そんなご関係ですと、無茶とか言われませんか?」

「何を聞き出したいのかわかりませんが、親切にしてくれてますよ。良好な関係を保ってますね」


 一瞬顔をひきつらせたように見えたが、すぐに穏やかさを取り戻す。

 この分では、ここでも水野江の悪行を聞き出すのは困難そうだ。


「今日は急な取材にもかかわらず、ありがとうございました。紙面の都合上掲載できるかはお約束できないですが、もしも掲載の際には一冊お送りさせていただきます」

「楽しみに待ってますよ」


 永遠に雑誌など発刊されはしない。

 あらかじめの言い訳をして、工場を後にした。



 その後何軒回っても、結果はどこも似たようなものだった。

 結局わかったのは、水野江工業の絶大な影響力。

 そして些細なことでも、下手なことを口走らせない圧倒的な支配力。

 誰も水野江の悪事は語らない。

 もう日も落ちた。これ以上回ったところで、徒労に終わるだろう。


 最初に見た悪逆非道っぷりなら、付け入る隙はいくらでもあると踏んでいたが、どうやら目論見が甘かったか。

 これは長期戦の様相だ。

 でもまあ部屋も借りたことだし、じっくりと……。いや、ちょっと待て。




 ――しまった。今日は不動産屋に鍵を受け取りに行く日だった。


前へ次へ目次