第1章 疑わない女 5
うーん…………。
最悪の寝起きだ。首も痛いし、頭も痛い。無理な寝相がたたったか。
やはり、ネットカフェでは安眠には程遠い。
備え付けのパソコンのモニタは、この街での最初の客の顔写真を映し出したままにしていた。
『水野江 源三郎、六十二歳』。
唯子が口にしたキーワード、『水野江工業 社長』。
夕べ、パソコンで検索してみたら、一発で正解を引き当てた。
あまりにもあっけない、人探しの終了。拍子抜け。
悪どい噂も山のように出てくる。脱税、贈賄、恐喝、果ては殺人まで。
これは搾り取り甲斐がありそうだが、ネット上に転がっているのは噂だけ。結局、役に立った情報は所在地ぐらいか。
使えるネタは自分でかき集めるしかない。
身支度を整えると、精算して店を後にした。
高く張り巡らされた、壁。
そこかしこに設置されている、防犯カメラ。
そして通用門を厳重に守る、警備員。
ネットで調べた住所から、さっそく訪れてみたのは水野江工業。
着慣れないスーツに身を包み、フリーライターに成りすましてはいるが、とても部外者が気軽に立ち入れる雰囲気ではない。
(今日のところは周辺調査にとどめておくか……)
この近隣は町工場が点在している。当然、水野江工業とも関連は深いはず。
情報を求めて、町工場を訪ねて回る作戦へと切り替える。
「すいません。取材で社長さんにお話を伺いたいのですが」
「は? もうちょっと大きい声で!」
「社長さんはどちらですか!」
すべてかき消す、やかましい機械の音。
思った以上に声を張り上げないと会話にならない。
偽物の名刺を差し出し、怒鳴りつけるように入り口付近の作業員に尋ねる。
面倒そうな表情で、油まみれの軍手を外す若い男。
軍手を外してもなお、油まみれの素手で名刺を受け取ると、奥へと案内する。
案内されるままについていくと、そこには溶接作業中の人物。
そして指差しながら「この人ですよ」と若者は告げると、不愉快そうに元の場所へと帰っていく。作業の中断が迷惑だったのだろう。
「社長さんですか?」
必要最小限の言葉で、大声で尋ねる。
溶接のマスクを外して現れたのは、赤黒く焼けたような肌の色の骨ばった顔。
小柄な五十過ぎの男は、職人という言葉がぴったりだ。
「あんたは?」
「雑誌の取材です」
「そんなもんに付き合ってる暇はねえ。帰ってくれ」
あっさりと断られた。
だが、『はいそうですか』と引き下がるには、あまりにも早すぎる。
サングラスを外し、用件をズバリとぶつける。
「水野江工業さんのことで、聞きたいことがあるんですよ」
「何が聞きてえんだ。こっちは忙しいんだよ」
水野江の名前を出して飛び込んでくるのは、やはりひどい有様の映像。
あの男には、随分と苦渋を飲まされているようだ。
映し出される映像は、頭を下げ、謝っている場面ばかり。
取引相手という円満な関係にはとても見えない。むしろ、受ける印象は奴隷扱い。
こんな目に遭っているのなら、思うところもあるだろう。
さらに詳しく話を聞き出すために、ズバリと質問をぶつけてみる。
「水野江製作所には、恨みとか色々あるんじゃないですか?」
その言葉に、男の表情は険しくなる。
そして口を真一文字に結び、目を閉じたかと思うと、次の瞬間に一気に開かれる。
「馬鹿野郎! てめえ、うちの工場潰す気か! そんなもんねえよ。早く帰れ!」
予想外の言葉と、その声の大きさに思わず首をすくめた。
そして男は立ち上がると、言葉だけでなく、身体を小突く。
工場から追い出すように、小突く。
さらに小突く。
二度三度と繰り返されるその光景に、周囲の従業員も作業の手を止める。
これだけ注目を集めては、とても居たたまれない。そのまま工場を後にした。
気を取り直して二軒目。
今回はやや大きめの小奇麗な建物で、やかましい騒音もあまり漏れてこない。
今回は怒鳴る必要もなく、インターホンで用件を伝える。
「すいません、取材で社長さんのお話を伺いたいのですが」
「少々お待ち下さい」
自ら社長と名乗った、六十近い中肉中背の男が玄関を開く。
老眼鏡と思われる眼鏡をかけ、白髪も随分と多く、全体的に見ればグレーの髪。そして、人の良さそうな穏やかな表情。
差し出した偽物の名刺を受け取った社長は、ざっと社内を案内すると、応接室へと招き入れた。
「どんな取材なんですかね?」
「町工場の現状のレポート記事です」
「なるほど……」
さっきはストレートに質問をぶつけすぎて失敗した。
今回は慎重に、水野江の名前を出すのも様子をみてからにしよう。
だがサングラスは外し、いつでも目を合わせられる準備は怠らない。
「まずは、会社設立の辺りから話を――」
雑誌の取材がどんな手順で行われるかなど、わかりはしない。
それっぽく見せるために、普段から持ち歩いているボイスレコーダーをテーブルに置く。録音しているように見せるが、スイッチは入れていない。電池がもったいない。
そして、メモを取ってみせながら、適当な質問を並べたてる。
水野江の話に誘導できそうな回答待ちだ。
機をうかがう。
「――次に、町工場ならではのご苦労などお聞かせ願いますか?」
「そうですねえ……。やはり、景気の煽りをもろに食らうところでしょうね。私どものような下請けは、元請けがよろめいただけで簡単に転びますからね」
この回答なら『水野江工業』の言葉を出しても不自然ではないだろう。
さっそく社長の目を見て、質問を切り出す。
「この辺りで元請けって言いますと、水野江工業さんあたりですかね?」
「ええ、水野江さんには頭が上がりませんよ。うちは、あそこでもってるようなもんですから」
やはりか。
社長の穏やかな表情とは裏腹に、厳しい現実が飛び込んでくる。
辞表を提出する従業員、それを引き留める姿。
水野江工業の名前を出してそれが見えたということは、何か関連があるのだろう。
嫌がらせに耐え切れなくなったのか、それとも引き抜きか……。
そして、土下座までして水野江を見上げる姿。
さらにそれを虫けら扱いで見下す、水野江の憎らしい表情。
この社長もまた、水野江に煮え湯を飲まされているのは明らかだ。
さっきほどではないが、やや直接的に探りを入れてみる。
「そんなご関係ですと、無茶とか言われませんか?」
「何を聞き出したいのかわかりませんが、親切にしてくれてますよ。良好な関係を保ってますね」
一瞬顔をひきつらせたように見えたが、すぐに穏やかさを取り戻す。
この分では、ここでも水野江の悪行を聞き出すのは困難そうだ。
「今日は急な取材にもかかわらず、ありがとうございました。紙面の都合上掲載できるかはお約束できないですが、もしも掲載の際には一冊お送りさせていただきます」
「楽しみに待ってますよ」
永遠に雑誌など発刊されはしない。
あらかじめの言い訳をして、工場を後にした。
その後何軒回っても、結果はどこも似たようなものだった。
結局わかったのは、水野江工業の絶大な影響力。
そして些細なことでも、下手なことを口走らせない圧倒的な支配力。
誰も水野江の悪事は語らない。
もう日も落ちた。これ以上回ったところで、徒労に終わるだろう。
最初に見た悪逆非道っぷりなら、付け入る隙はいくらでもあると踏んでいたが、どうやら目論見が甘かったか。
これは長期戦の様相だ。
でもまあ部屋も借りたことだし、じっくりと……。いや、ちょっと待て。
――しまった。今日は不動産屋に鍵を受け取りに行く日だった。