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第1章 疑わない女 4

 契約手続きは済ませたものの、鍵の引き渡しは明日。

 となると、今日もどこかで一夜を過ごさなければならないが、わざわざシティーホテルのあるようなターミナル駅まで移動するのも煩わしい。まあ、今夜もネットカフェでいいか……。


 ぼんやりとそんなことを考えていると、目の前に貧相なサラリーマン風の男が腰掛ける。ああ、そういえば商売中だったっけ……。と、サングラスを外して応対する。


「お願いします。実は……」

「――取引先との商談が不調に終わって、落ち込んでおられるようですね」

「え!? ど、どうしてそれを……」


 この男と目を合わせて最初に見えたのが、そんな場面だった。

 記憶が映像化されるこの能力は、現時点で印象深いものから再現されていく。

 占いに頼るとき、人は大抵弱気になっているものだが、この男にとっては商談の失敗がその要因なのだろう。


 それにしても、この見るからに冴えない風体の男からは、何の旨味も感じ取れない。ひと目合わせただけで、本気を出すまでもないと判断できる。

 多分、今の一言でこの男の心は掴めたはず。

 これ以上、疲労を伴う能力を使うまでもない。男の目から視線を外す。


「今までにも、仕事で何度か大きなミスをしているようです」

「え、ええ……、その通りです……」

「このまま今の仕事を続けていていいのだろうかと、疑問に思うこともあるようですね」

「はい……」


 弱気になるような言葉を、冷ややかな口調で並べ立てる。

 しかもそれが的中しているのだから、男は深みに嵌っていく。

 煽る。

 さらに煽る。

 男の表情が思い詰めていく。

 そこへトーンを緩めて、優しく声をかける。


「なるほど、これまでのご苦労わかりますよ。ちょっと占ってもらおうかという気持ちが沸いても、不思議はないですね」


 弱気に拍車がかかっているところに、ホッとするような救済の言葉。

 落としておいて持ち上げる。

 同情。

 いたわり。

 そんな慰めに男の表情が緩む。


「では今日は、このまま仕事を続けるべきかどうか、道を示せばよろしいですか?」

「はい、お願いします」


 さて、ここからが本番。

 目を閉じて集中力を高める……、振りをする。

 それっぽい演技。

 目を閉じたまま、おぼろげに見えているものを手繰り寄せているような口調で、ゆっくりと語り始める。


「学生時代に……、うーん、何か……芸術関係に励まれていましたね……」

「え、ええ、確かにやってました。高校から大学にかけて五年間、バンドを」


 ゆっくりと目を開くと、期待に目を輝かせる男の顔。

 まだ、未練があるのだろうか。

 背中を一押ししてやるだけで、楽器屋に駆け込みそうなほどの雰囲気。


「しかし……こちらは、趣味として続けるのがいいでしょう。その他には今のところ、選択肢となる道はないようです」

「そうですか……」


 男は、がっかりした様子で肩を落とす。

 だが、その表情は苦笑い。

 『やっぱりな』と納得した様子。


「ですが……、今の道の先に何か明るいものを感じます。めげずに今の仕事を続けていれば、きっと良いことがあると思われますよ」

「そうですか! ありがとうございます」


 男は深々と頭を下げると、財布から千円札を三枚取り出し、机の上に置いた。

 立ち去る男の後姿は背筋も伸び、足取りも軽そうに見える。

 目の前に腰掛けた時は自信なさげな表情だったが、少しは活力が沸いてきたのだろうか。

 机の上の三千円を財布にしまいながら、心の中で呟く。


『チョロいな……』



 占い師的に言えば、一丁上がりの図。

 占い師の技量はどれだけ未来を当てられるかではなく、どれだけ短時間で信頼を勝ち取ることができるかだ。

 言い当てれば信頼度は上がる。

 『仕事で何度か大きなミスをしている』、『今の仕事を続けていいのかと疑問に思う』。そんな言葉が当てはまらないサラリーマンなど、まずいない。

 『学生時代』なんて、小学校から大学まで何年間あることか。『芸術関係』だって絵、写真、音楽、文学、と様々。あの貧相な体格なら、きっと文科系という想像もつく。

 そんな曖昧な言葉の数々と、巧みな口調で相手のペースを操って、信頼を勝ち取ってしまえばこっちのものだ。

 そして最後の言葉、『きっと良いことがある』。この先、なんかしらの良いことは訪れるに決まっている、大小は別として。

 嘘はついていない。

 これにて一仕事完了だ。

 そう、占い師ならば……。



 しばらく次の客を待ってみたものの、現れる気配はない。

 黙って座っていると、容赦なく睡魔が襲ってくる。

 無理もない。今日は高校生二人と唯子に力を使った上に、部屋探しまでこなした。今日は早めに店じまいにするか……。


 ネットカフェに向かう道すがら、風情のあるイタリア料理の店を発見。

 この街に似つかわしくない、高級そうなたたずまい。

 この街での門出に乾杯と洒落こむか。


「ひょっとして、最近この先にお店を出してる占いの方ですか?」

「え、ええ。まあ……」


 オーダーを取りにきた店員に、思いがけない言葉をかけられる。

 だがここで、得意気に講釈を垂れたところで、食事にありつくのが遅くなるだけ。適当に相槌を打つ。

 それに、さっきのように気乗りがしなければ、ただの占い師として振る舞うのだから、わざわざ否定する必要もない。


「じゃあ、今度占ってもらっちゃおっかなー」

「やめておいた方がいいですよ」

「えー、ひょっとして、当てる自信がないとかですかあ?」

「いえ……当てますよ。でも――」


 なかなか失礼な言葉だが、そんなことでは腹は立たない

 だが、いつまで経ってもオーダーを取る気配のなさに苛立つ。

 メニューをパタンと閉じ、やや上目遣いに睨みつける。


「――人生の決断を他人に委ねてたら、足をすくわれるよ」



 腹は膨れた。満腹だ。

 味はと言えば、可もなく、不可もなく。


「八千六百四十円になります」


 コースだったし、こんなものか。

 そういえば今朝巻き上げた財布があったなと、懐から取り出す。


(嘘だろ……小学生かよ……)


 開いた財布に入っていたのは、千円札一枚きり。

 ため息をつきながら、もう一つの財布を取り出す。


(お前もかよ……)


 こちらは千円札が二枚。

 思わず目を覆う。

 同情を禁じ得ない。

 さっき稼いだ三千円を足したところで、それでも足りない……。


 しわくちゃ顔の福沢諭吉に別れを告げた。


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