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第1章 疑わない女 2

「――財布、戻ってきて良かったですね」


 女は目の前で、我が事のように嬉しそうな笑顔を浮かべている。

 それにしても、立ち去るつもりだったのに思わぬ足止めを食らってしまった。

 大声であんな言葉をかけるなんて、計算高いのか、それとも天然か。今でもまだ、あの時集めた注目を思い返すと顔から火が出そうだ。

 結局、お礼として空腹を満たすことはできたものの、ハンバーガーというのはどうにも物足りない。


「どうして、私が万引きを注意して追いかけられてたって知ってたんですか?」

「適当言ったら当たっただけじゃないかな。まぐれだよ」

「あの人たちが財布の拾い主だなんて、すっごい偶然でしたよね」

「そんなこともあるさ」


 質問にちゃんと答えていないことぐらいわかりそうなものなのに、彼女は笑顔を絶やさず、本気で受け取っている様子だ。

 真面目か。それもクソ(・・)がつくほどの。

 こういうタイプの人間ほど、内面ではドロドロと腹黒いことを考えているものだ。


「やっぱりご迷惑でしたか? 無理に引き留めてしまってごめんなさい」

「ああ、いや、別に」

「でも、ずっと窓の外を見てばっかりですし、つまらないかなって」

「そんなことはないよ」

「でしたら……。こっちを向いてくれませんか? ほら、お話しする時は相手の目を見ましょうって言うじゃないですか」


 少しでも場を和ませようとしているのか、彼女は冗談めかして笑顔を振りまく。目を合わせたら困るのはそっちなのだが……。


 色つきのサングラスを掛けていれば、相手の過去は見えない。

 不意に目が合って、見たくもない過去を見せつけられるのはかなりの苦痛なので、常日頃はこうして対策を講じている。

 そのサングラスをそっと外し、彼女の要望に応えるべく、じっと目を見つめる。


「…………」

「…………」

「…………」

「…………」

「ちょ、ちょっと、そんなに見つめないでください。照れるじゃないですか」


 沈黙にこらえきれず、彼女は顔を赤らめながら目を逸らす。

 純情か。

 さっきの『内面は腹黒い』という考えは取り消しておこう。彼女のことも色々とわかったところで、そろそろこの気まずい空間ともおさらばしようか。

 不動産屋に勤務しているようだし、十時も過ぎたこの時間なら、きっと仕事を思い出させれば彼女の方から立ち去るだろう。


「俺は夕べこの街に来たばっかりなんで、これから部屋探ししないといけないんだ」

「え? 本当ですか? だったら私にお世話させてください。不動産屋に勤務しているので――」


 そこまで言い掛けると、彼女は慌ててバッグから携帯電話を取り出し、時刻を確認する。


「――ああ! こんな時間。いっけない、遅刻だわ。ここに勤めてますんで、ぜひ来てくださいね。慌ただしくてすみませんが、これで失礼します」


 川上(かわかみ) 唯子(ゆいこ)

 机の上に置いて行った名刺には、そう書かれていた。

 まんまと作戦成功。

 無事解放され、やっと一人になる。

 空腹が満たされた上に、気が緩んだところで一気に睡魔が襲う……。

 ……深く眠りに落ちていく……。




 いたるところ塗装の剥げ落ちているアパートのドアを開けると、まだ夕方だというのに部屋の中は薄暗い。カーテンが締め切られているせいだろう。

 玄関に父の靴を確認すると端に寄せ、履く時に楽なように後ろ向きに靴を脱いで家に入る。

 入ってすぐの台所は三畳程度の広さしかなく、冷蔵庫や食器棚と日用品が雑多に置かれただけでもう飽和状態。狭いシンクには、学校から帰ってから洗うつもりだった食器が、洗い桶に突っ込まれたままになっていた。


『はぁ……。晩ご飯作る前に、これ洗わなきゃだわ』


 溜息をつきながら、帰りがてら買ってきた夕飯の材料を足元に置くと、制服のブレザーを手近な所に掛け、腕まくり。蛇口を捻り、出てきた水道水をスポンジに含ませ、食器用の洗剤も染み込ませる。

 これから夕食の支度だというのに、その前に一仕事こなさなくては。こんなことなら朝面倒臭がらずに、洗い物を片付けておけば良かった。


『お父さーん、今日仕事休みだったんなら洗い物ぐらいしてくれても良かったのにー』


 ちょっと愚痴っぽく声を掛けたが、返事はない。

 休みだったのなら寝ているのかもしれない。

 皿を洗っていると洗剤の泡がスカートに跳ねた。やっぱり明日も着なければならない制服のままじゃ、気になって洗い物も満足にできない。多少汚れてもかまわない普段着に着替えよう。


『お父さん、寝てるのー?』


 着替えるために居間に入ろうとガラス戸を開けたその瞬間、目の前にあったのは……。


 ――ロープで首を括ってぶら下がる父親の姿だった。



(……ハッ!)


 身の毛もよだつ恐怖と共に目が覚めた。

 調子に乗って深く記憶を覗き見たせいで、居眠りをしていたらしい。

 過去の記憶を見ると疲労感に襲われる。深く見れば見るほどに。


 早まった鼓動を落ち着けようと、胸に手を当てながら繰り返し深呼吸。

 周囲の様子も見回したが、空席だらけの店内は何事もなく、ただただ穏やかな時間が流れている。


(とんでもない夢を見たもんだな……。あんな過去見るんじゃなかった)


 彼女の記憶を覗き見た後悔と引き換えに得た、大きな収穫。

 夕べターゲットにした男の記憶の中に、彼女の父親の姿が確かにあった。

 もちろん弱者の側に。

 部屋探しを兼ねて彼女を訪ねてみるとするか……。




 ――俺はサングラスをかけ直した。


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