第5章 忠告を聞かない男 1
【水野江工業 新工場稼働間近】
広げた新聞に踊る見出し。景気の良さをうかがわせる。
小沢の証言でやっと足掛かりはできたものの、弱みを掴んだとはとても言えない。
次はどうしようかと思案に耽っていると、不意に電話が鳴った。
『――剣持だ。ちょっと一大事なんだが、時間取れるかい?』
待ち合わせは午後八時。
そして、今は午後八時半。
呼び出されてやって来たというのに、待ちぼうけの予感。
だが、待ち合わせのバーの居心地がいいので、ちっとも腹は立たなかった。
外のゴミゴミした商店街とは別世界の店内。
アンティーク調の落ち着いたインテリアたち。それらを雰囲気良く照らす間接照明。そこへ流れる小気味良いジャズ。
長いバーカウンター内の壁面には、世界中の様々な酒のビンが並び、デザインとしても花を添える。
そして、それを背負うように立つマスター。
派手さのない中年の渋みを感じさせながら、カウンターの一部として違和感なく溶け込む。
こんな洒落た店もあったのかと、教えてくれた剣持に感謝したくなる。
だが、それはそれ。これ以上、義理堅く待つ必要もないかと席を立つ。
そして、一杯だけ注文したコーラの清算をしようとしたところで、剣持の登場。
三十分の遅刻。
「いやー、呼び出しておいてすまねえ。来る直前に、急患が入っちまってな」
「急患?」
「あ、しまった。勿体ぶってビックリさせようと思ってたんだがな……。バレちまっちゃ仕方ねえ。この間話してた通り、元院長のところで働かせてもらえることになったんだよ」
登場するなりの陽気な振る舞い。こんな男だったかと、やや目を疑う。
そしてがっしりと肩を組まれ、さっきまで座っていたカウンター席へ逆戻り。
剣持も隣に腰掛けると、マスターに対しても同様に振る舞う。
「ハッハッハ。相変わらず客いねーな、この店は」
「いらっしゃい」
「この澄ました顔のマスターは、俺の高校からの親友なんだよ。当時は、俺も医者になるとか言ってたっけなあ」
「昔話ですよ」
「今日は、いかがなさいますか?」
「相変わらず硬いなあ。いつも通りしゃべればいいのによ」
「今はお客様ですから」
「この後、この命の恩人に贅沢三昧させてやるつもりだからよ。食前酒代わりに、軽めのやつ頼むわ。お前さんも好きなもの頼んでくれ。もちろん奢りだ」
まるでタイプの違う二人。
だがその両極端さが、逆にバランスよく感じられる。
他に誰も客のいない店内に響く、剣持の大きい声。
せっかくの店の雰囲気もぶち壊し。他にも客がいたら、ただの迷惑客でしかない。
だが、マスターは嫌な顔一つせず、というより口元に笑みを浮かべ、心なしか楽しそうに見える。
「それで……、一大事って言うのはひょっとして、さっきの話ですか?」
「おうよ。一大事だろ? 俺にとってのだがな。ハッハッハ」
「おめでとうございます。いつか渡そうと思っていたんですが、ちょうど良かった。お祝いってことで……」
用意しておいた封筒を懐から取り出し、剣持の前に差し出す。
中身は十万円。院長から手に入れたほんの一部。
情報提供料としての、ささやかな謝礼だ。
「なんだ? 手回しがいいな。中を見て構わねえか?」
「ええ、どうぞ」
不思議そうな顔で、封筒を手に取る剣持。
そして中を見て、表情を驚きに変える。
「おいおいおい。こんなもの受けとれっかよ。俺の方が逆に渡さないといけねえぐらいなのによ」
「いいんですよ、受け取ってください。それは、院長から巻き上げたものですから」
「院長から? ハッハッハ。いい気味だぜ、あの院長。それに良くやってくれたなあ。お前さんは、ちゃんと院長にもお仕置きしてくれてたってわけだ。スカッとしたぜ」
剣持は封筒を懐にしまい込む。
だが、一拍置いて懐に手を入れると、再び同じ封筒を取り出して、目の前に差し出した。
「どういうことですか?」
「院長にお仕置きしてくれた報酬だ。受け取ってくれ」
「わかりました。そういうことならもらっておきます」
「おう、そうしな。ほんとお前さんにゃ、いくら感謝しても感謝しきれねえな」
受け取った封筒を懐にしまう。
そして剣持の真似をして再び封筒を取り出し、再度剣持の目の前に差し出す。
固執しているわけではない。半分は冗談だ。
「おいおい、お返しかよ。今度はどんな名目だよ」
「一つ、頼まれ事をしてもらえませんか? これは、その依頼料ってことで」
「わかった、わかった。キリがないから、こいつはいただくことにする。それで? 頼みってのはなんだ? 何でもやるぜ。何しろ命の恩人だからな」
たまたま、こんな展開にはなってしまったが、元々依頼はするつもりだった。
適任とは言えないが、あの病院に勤務していた剣持なら可能かもしれない。
それに何より、俺に恩を感じている点で付け込みやすい。
「ちょっと、カルテをね。漁ってもらいたいんですよ……」
「まさか、あの病院のか? 何でもやるなんて、言うんじゃなかったぜ。で、誰のカルテだ?」
「それは名前がわかり次第、また連絡しますよ」
凪ヶ原総合病院を調べていた時に、外科部長の記憶で見かけた人物。
どうにも気にかかるその人物とは、唯子の父親だった。
彼が診察室で受診している光景。
何十人も毎日のように診ているだろう、外来患者。
にもかかわらず印象に残していたのは、特別な何かがあったに違いない。
しかし、名前がわからなかったので尋ねようがなかった。
そして拘置所に収監されている彼には、もう尋ねられないだろう。
警察には俺は話さないと約束したのに捕まってしまったのだから、きっと恨んでいるはず。話したのは院長であって、俺は約束は破っていないのだが……。
そこへ割り込む携帯電話の着信音。
バツが悪そうに頬を掻きながら、剣持が電話に出る。
『おう、どうした? ……それで? ……そうかわかった、すぐ行く』
「呼んでおいてすまねえ、急患が入っちまった。この後も、晩飯予約してたっていうのによ……。好きなだけ飲んでいってくれて構わねえからな。俺は行くわ」
「やれやれ、相変わらずですね。お気をつけて」
「いつも通り、ツケで頼むわ。そいつの分もな」
慌ただしく出ていく剣持を見送る。
まったく、何しにここまで来たのやら。
一つ小さくため息を吐き、席を立つ。
「まあまあ、ゆっくりしていってくださいよ。これは、私からの奢りです」
目の前に差し出されるカクテル。
酒はあまり飲まないので名前も種類もわからないが、軽く口をつけると口当たりの良い、わずかな甘みに顔が緩む。
「あいつから聞きましたよ。あなたが噂の、命の恩人だったんですね」
「大袈裟ですよ。俺は好き勝手やっただけです」
「あいつはあの事件以来ずっと塞ぎ込んで、ここに来ちゃ愚痴ってばかりでした。さっきみたいに、昔のままのあいつに戻してくれたあなたは、私にとっても恩人ですよ」
残ったカクテルを一気に飲み干し、店を後にする。
何となく心地が良いのは、酔いが回り始めたせいか。
背中に、マスターからの見送りの言葉がかかる。
「――またいつでもいらしてください。歓迎しますよ」