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第3章 メスを持てない男 5

 絨毯の敷かれた廊下。

 威厳のある重厚なドア。

 そして、メッキだとは思うが金色に光るプレート。

 ノックをすると女性の声で応答があり、静かにドアが開いた。


「どちら様でしょうか?」

「フリーライターをやっている鳴海沢と申します」

「どのようなご用件ですか?」

「二年前の件で、どうしても院長先生のお耳に入れたい話がありまして……。手短に済ませますので、お時間をいただきたいのですが」


 秘書らしき女性は一礼し、一度ドアが閉まる。

 しかし、すぐにドアは再び開かれた。


「お会いになるそうです」


 招かれるままに奥へと進む。

 土足で踏みつけるのを躊躇(ためら)われる絨毯。

 高価そうな机の前まで同伴してくれた女性は、一礼して踵を返す。

 机に両肘をつき、組んだ両手に顎を乗せた五十を少し過ぎたぐらいの男。机を挟んで対峙したこの男が現院長か。

 神経質そうな彼は、不服そうな表情で静かに口を開いた。


「邪険にして、逆恨みで変な記事でも書かれては困るから、話は聞く。だが、二年前の件は既に終わっている話だ。今さら何があるというんだね」

「単刀直入にお話しましょう。実はですね――」


 さて、一対一の真剣勝負。茶番劇の幕開けだ。

 さっき外科部長から聞いた話を、ゆっくりと話しながら情報を引き出す。

 もちろん、サングラスを外し、片時も目は逸らさずに。


「――剣持先生の手術が失敗したように見せかけるために、薬物を投与した者がいます。そして、その計画を練ったのが当時の内科部長。つまり、今の副院長という話です」

「ハッハッハ。馬鹿も休み休み言いたまえ。彼がそんなことをするはずがないだろう」

「そうですか? 既に、共犯者からの証言ももらってるんですがね」


 その言葉に院長はやや表情を険しくさせたが、すぐに平静を取り戻す。

 そしてすぐさま、一笑に付す。


「あらかた、その人物が主犯だったりするんじゃないのかね?」

「なるほど、副院長に罪を着せようとしていると?」

「ああ、副院長は信頼できる男だ。そもそも私にとっては、貴様の言葉の方が疑わしいのだからな」


 なるほど、一理ある。こんな、どこの馬の骨ともわからない奴の言葉を、簡単に鵜呑みにする方がおかしい。

 それにしても、院長の副院長に対する信頼度は絶大なようだ。

 彼のお陰で今の地位がある以上、無理もない。それに、随分と目を合わせているが、事件との関わりは見えてはこない。副院長の裏の顔も知らないようだ。


「別に、信じてもらわなくても構いませんよ。この後、原稿の執筆に入らせてもらうだけです」

「ふむ、脅しかね。君がそこまで言うなら、ここに副院長を呼んで、本人から話を聞こうじゃないか」


 そう言うと院長は、受話器を持ち上げ内線番号を押し始める。

 俺はそっとフックに手を掛け、阻止。

 そして見上げる院長を、笑みを浮かべて見下ろす。


「ここまでの話を聞いて、院長先生はおかしいとは思わなかったんですか?」

「どの話だね?」


 空気が変わったことを感じ取ったのか、受話器を戻した院長は、椅子に深く腰掛け直す。そして、さっきよりも真剣な眼差しをこちらへと向ける。


「後はもう記事にするだけだっていうのに、どうしてわざわざこうしてあなたに話を持ってきたのかってことですよ」

「それは、それをネタに私を強請ろうとしたのだろ?」

「だったら直接、副院長を強請りますよ」

「ふむ、じゃあ、どうしてここへ来たというのかね?」

「それは、院長先生をお救いするためですよ」


 院長は怪訝な表情を浮かべ、こちらを睨みつける。

 だが、意に介さず、言葉を続ける。


「実は、フリーライターの私がここにいるのは、ある人物に呼ばれたからなんですよ。記事のネタを提供するって言うんでね。ですが調査を進めていくと、真相は全然違うじゃないですか。ですので、このままでは大変だとお伝えにあがった次第です」


 感情を表に出すように、身振りも添えて大げさに伝える。

 多少芝居掛かっているが、それくらいで構わない。

 もちろん、院長もまだ信じている素振りはない。


「ある人物とは誰だね」

「その前に提供されたネタを紹介しましょうか。ネタは二つ。一つ目は、二年前の医療事故は現外科部長の処方ミスによるものだった。そしてもう一つは……、院長の収賄疑惑ですよ」

「ハッハッハ。馬鹿な。身に覚えのないことをいくら書かれようが、私は痛くもかゆくもないぞ」


 院長の言うことは正しい。

 だが甘い。

 世の中は正しい方向へ進むとは限らないものだ。

 睨みを利かせて院長に迫る。


「マスコミの力を甘く見ない方がいいですよ、院長。二年前、二人の医師が病院から去った理由が、根も葉もない記事だった事実をお忘れですか?」

「だが、やってないのだから問題ないだろう。叩いても埃も出んよ」

「依頼人は、充分記事にできるだけの証拠も準備してますよ。もちろん、でっち上げのね。そして、記事が掲載された頃合いを見計らって表面化するように、既に手回し済みですよ」

「し、しかし……」

「噂になってしまえば……、後はわかりますよね。事実なんて二の次の会議が開かれます。ご出席されてたんでしょ? 前院長が去ることになった会議に」


 院長の最初の威勢はみるみると萎む。

 彼も知っているはずだ、真実さえも掻き消す、数の暴力。

 当時を振り返っているのだろうか、院長は机に肘をつき、頭を抱える。

 そしてさっきまでの通る声とは打って変わって、ぼそぼそと呟くように尋ねる。


「で、誰なんだ。ある人物というのは」

「もう、おわかりでしょう。副院長ですよ」

「どうして、そんなことを……」

「簡単なことでしょう。今座っているその椅子から、あなたを蹴落とすためですよ」


 疑問に答える度に院長はため息をつき、力を失くしていく。

 そしてここが肝心かなめの場所。秘密兵器の使いどころだ。

 ボイスレコーダーを再生。

 さっきの外科部長の証言が、生々しく室内に響き渡る。


「まさか、あいつが……。私はどうすればいいんだ……」


 完全に肩を落とし、憔悴。

 副院長に絶対的な信頼を寄せていただけに、裏切られたときのダメージも計り知れないとみえる。

 激しい動揺。

 激しい狼狽。

 さらに普段の選択を彼に任せていたからなのか、自分の進むべき道すらも見失っている。

 まさに心の隙に付け入るチャンスだ。


「簡単なことですよ。こっちから警察に突き出してやればいいんです」

「し、しかし……」

「躊躇してる暇はありませんよ。副院長の耳に入れば、きっと逃れるための策を講じてきます。その前に突き出さなければ、逆にあなたがやられますよ」

「そ、そうか。確かにそうかもしれん……」


 言われるがままの言いなり。思考停止。

 パニックに陥ったとき、人は目の前にぶら下がる自己保身の選択にすがりつく。

 それを逆手に取れば、こちらの操り人形。

 つまり、パニックに陥れ、目の前に体のいい選択をぶら下げるのだ。


「さて、もう一つ大事なことが」

「まだ、何かあるのか」

「さっきの収賄疑惑のネタはまだ生きてますよ。でっち上げられた証拠と共にね。もちろん、胸の内にしまう用意もありますが――」


 そう言って指を三本、院長に向けて突き付ける。


「――今回、窮地を救った謝礼と合わせたら安いものじゃないですか?」

「ま、待ってくれ。そんなには用意できない。これで勘弁してくれ」


 そう言って、院長は指を一本突き立てた。

 思った以上の即答に、逆に驚かされる。

 思考停止を超えて、思考が麻痺しているのかもしれない。

 下手に冷静になられる前に、妥協して退散した方がいいだろう。


「受け渡しはどうしますか?」

「銀行振込でも構わないか?」

「わかりました。一週間たっても音沙汰がない場合は、一躍有名人になると思ってください」


 口座番号をメモ用紙に記し、院長に手渡す。

 そしてサングラスをかけ直し、別れのあいさつ代わりに、念を押しておく。




「――副院長は怖い人です。速やかに警察に突き出すことをお勧めしますよ」


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