第2章 仲の良くない二人 4
病院へと舞い戻る。
面会時間はもう終了したらしく、一階のロビーにはさっきまでのまばらな人影すらも今はない。ひんやりとした廊下の照明も最小限に抑えられ、不気味な薄暗さに靴音だけがこだまする。
(さて、どうしたもんかな……)
やけに大きく聞こえる、エレベータの到着を知らせるチャイム。
単身乗り込み、五階のボタンを押す。
さっきはあんなに長く感じたはずなのに、あっという間の到着。
扉が開くと、壁に描かれた大きな『5』という数字が出迎える。
さあ、いよいよ本番の幕開けだ。
今なお、病室に掛かる『面会謝絶』の札。
隣のソファーで中澤が頭を抱え、その隣で唯子が涙ぐむ情景は、さっきと変わらない。違うのは中澤の服装と手荷物だけだ。
そこへ歩み寄ると唯子が気づき、こちらを見上げる。
「あ、鳴海沢さん。お帰りになったのかと思ってました」
心配そうに声を掛けてきたが、彼女には構わず中澤の前へ立つ。
もちろん、サングラスは外して。
「中澤さん、ちょっとお話があるんですが、お付き合い願えませんか?」
「あん? お前、誰だよ」
見上げる中澤。顔はこちらに向けたが、目は合わない。
「鳴海沢って言います。お時間は取らせませんから……」
「鳴海沢さん。お話っていったい――」
「川上さんはそこで待っていてください。ちょっと、二人きりで話したいんで」
「唯、よくわかんないけど、ちょっと行ってくる。なんかあったら頼むよ」
中澤は怪訝そうな表情で腰を上げると、三歩ほど後ろをついて歩く。
廊下に響く二人の靴音。
エレベーターホールを抜け、さらに奥の鉄の扉を押し開く。
軋んだ扉の向こう側は、階段の踊り場。
この時間なら、人もあまり通らないだろう。
「どこまで連れ歩くつもりだよ。俺はそれどころじゃないんだけど」
「ここなら、お互い好都合ですかね。それじゃ、始めましょうか」
「始めるって、何を……」
やや怯えた様子の中澤。
不穏な空気を感じ取ったのか、やや気後れの様子。
充分に場は出来上がっただろうか。緊迫感が二人を包む。
「中澤さん、あなた……やりましたね」
「やったって……な、なにを……」
「とぼけるなよ。同じことをやってやろうか、あんたが彼女にしたことを……。この階段で――」
襟首をつかみ上げ、階段に向けて軽く押し出す。
もちろん本当に落としはしない。ただの脅しだ。
だがさらに声を荒げ、一気にまくしたてる。
「――突き落としただろ? あんたが、階段から彼女を!」
「ひぃっ……。や、やってない。俺は階段を駆け上がろうとして踏み外したメグを、う、後ろから見てただけだって」
「階段を上ってる人は普通、転んでも下まで転げ落ちない。貧血で後ろ向きに倒れたならともかく、駆け上がってた最中だろ?」
「や、やってない……。し、知らない……、俺は知らない」
「いい加減に吐けよ。こっちは全部お見通しなんだよ――」
今度はつかみ上げた襟首を持って、そのまま壁に押し付ける。
中澤が顔を背けたので、強引に目を合わそうとすると、また反対側へと背けた。
目を合わせようとしないのは、後ろめたさがあるからだろう。
「――俺はさっき、あんたのアパートへ行ってきた。一階のおばちゃんが、色々と教えてくれたぜ」
「な、何をだよ」
「すごい音と共に彼女が階段を転げ落ちて、階段の一番下で横たわっていた。そして、あんたは階段の中ほどで茫然としてたってな」
「それが……、それが、どうしたっていうんだよ……」
「あんたは血まみれで横たわってる人を跨いで、わざわざ階段を上って茫然としたのか?」
演技派女優の証言と記憶の光景を、中澤に突き付ける。
このあと中澤と目を合わせて真実を確認できたところで、本人がしらを切り通せば何の証拠にもならない。もちろん、警察じゃないから動かぬ証拠など必要はない。しかし、相手を屈服させるにはそれなりの材料が必要だ。
突き付けた状況証拠は効果があったようで、中澤は完全に沈黙した。
「…………」
力の抜けた中澤は重力に抗わず、壁にもたれたまま座り込んだ。
こちらも跪き、目の高さを合わせると、顎を掴んでこちらを向かせる。
(なるほどな、そういうことだったか……)
「あんた、普段から彼女に暴力振るってたな。DVってやつか。あの日も帰りが遅いって玄関で彼女を蹴り飛ばし、その勢いで階段から転げ落ちたってわけか」
「お前……見てたのか?」
「いや、目撃者がいたんだよ。思わぬところにな」
真実を確認し、その目撃者である中澤も屈服させた。
あとは仕上げだ。
「ありがちな痴話喧嘩だけど、あんたは今回ちょっとやりすぎたようだ。警察に突き出せば、立派な傷害事件として処理してくれるだろうな」
「…………」
「痴話喧嘩で終わらせるか、犯罪者になるか……全てはあんた次第だ。黙ってて欲しければ、考えてやらないこともない」
思い詰めた様子で、黙り込む中澤。
まだ一押し足りないか。
「あんた、今でもあの子に気があるんだろ」
「あ、あの子って……」
「あんたが『唯』って呼んでるあの子だよ。最初に姿を見た時、嬉しそうな表情してたじゃないか。こんな状況だっていうのに」
「…………」
「今回のこと俺が話したら、きっと悲しむだろうな。どうするよ」
「…………わかった……」
中澤は力なく返事。
随分と時間はかかったが、やっと完全に折れた。
次はいよいよ条件交渉だ。暮らしぶりを見るに、あんまり吹っ掛けられそうもない。それに露骨な要求をすれば、こちらが恐喝で突き出されかねない。
しかしそんな中、中澤は意を決したようにすっくと立ちあがると、重い鉄の扉を開く。
金でも取りに行こうというのか。まだ要求すらしていないのに。
「おい、どこへ行くんだ」
「話してくる……。自分で」
「そうか、そうか。って、おい! ちょっと待てよ」
「ありがとう。おかげで吹っ切れたよ」
振り返った中澤は、爽やかな笑顔を見せた。
さっきまでの力ない彼は一体どこへ。
そのまま、力強い足取りで病室の方へと戻っていく。
おいおい、マジか。自首するつもりなのか?
覚悟を決められてしまっては、もう彼に怖いものはないだろう。
仕方なくあとを付いて歩く。さっきの彼の如く、肩を落として。
――まいった。とりっぱぐれかよ……。