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天にも昇るプラチナペッパー

 朝起きた時から、ティノは憂鬱な気分だった。


 宝物殿に連れて行かれる前日や厳しい訓練を課される前日よりもひどい気分だ。


 ティノはますたぁを尊敬している。大好きである。

 呼ばれれば自主練を放り出してすぐにますたぁの下に馳せ参じるし、師匠からもそうするよう言いつけられているが、今のティノの気分は最低にかなり近かった。



 全ての元凶は喫茶店『森羅万象』――とても喫茶店には思えない名前をした、ますたぁの始めたお店だった。


 ますたぁの生み出す異次元レシピはたった数度でティノの心をばきばきに折りつつあった。

 痛みよりも恐怖よりも、摩訶不思議な味が精神を削ることがある事をティノは改めて実感していた。


 だが、呼ばれた以上はいかないわけにはいかない。ますたぁがティノを呼んでくれているのは完全に善意である。断って(もちろん断ったらお姉様にぼこぼこにされるのだが)今後呼ばれなくなったらもう何のためにハンターになったのかわかったものではない。


 重い足を引きずり、ますたぁの店に行く。今日のティノは事前準備が万全だ。ちゃんと胃薬も飲んできたし解毒ポーションなども用意してきた。

 昨晩から食事を抜くことで空腹という調味料の準備まで試みた。


 これならばますたぁの手料理も今日こそ完食できるだろう。


 喫茶店『森羅万象』の前にはメニューボードが増えていた。

 帝都の一等地にあるその建物は来る度に設備が整い、オープンの日が近づいている事を否応なく感じさせる。


 帝都の一等地に出来た喫茶店。恐らく多くの人間が訪れる事だろう。そして、それらティノよりもお腹が丈夫じゃない人間はますたぁの試練に耐えきれないに違いない。


 世界の終わりの日が近づいている。


 ティノは呼吸を整え覚悟を決めると、ゆっくりと扉を開けた。もはやトラウマになりつつある美しいベルの音が耳に入る。


「こんにちは、ますたぁ」


「……ああ、おはよう、ティノ。今オープンに向けて準備があって……ごちゃごちゃしてて悪いね」


 店内の様子は前回来た時から一変していた。


 天井から吊るされた美しいシャンデリア。壁に掛けられた高そうな絵に、曇り一つないドリンクバーの機械。

 つい先日まで空っぽだったカウンターの奥の棚には幾つもの瓶が並び、どうせ包丁を使って出す癖にコーヒーミルまで置かれている。


 唯一、そこかしこに積み重ねられた木箱がこの店が未だ改装中である事を示していた。


 …………ずっと改装中だったらいいのに。


「とうとうメニューが出来たんだ! ティノくらいの子にいっぱい来てもらいたいから、確認してもらえるかな?」


 完全に帝都の若手ハンターをふるい分けするつもりである。完全に及び腰のティノに、ますたぁは満面の笑みでメニューを渡してきた。

 木製の板に書かれたおしゃれなメニューだ。並んだ料理の数は一般的な喫茶店と比較しかなり多かったが、(使っている素材はともかく)特筆しておかしな料理名はない。


 ティノは死んだような目でリストをざっと確認すると、恐る恐る確認した。


「ますたぁ…………ナメルゴンの、ブブベルベが載っていませんが……」


 ナメルゴンのブブベルベ。つい先日ティノがごちそうになった料理である。

 ナメルゴンもブブベルベも、どちらの単語も浅学なティノの辞書には載っていないものだった。


 そして――実際にごちそうになった今でもそれが何なのかティノにはわかっていない。記憶が飛んでいるからだ。


 ティノの疑問に、ますたぁはいつもの見惚れるような笑みで言う。


「ああ、あれは新鮮なナメルゴンが入らないと出せないからさ……食べたかった? 悪いけど今日は入っていないんだ」


「……ビーフカレーも新鮮なまな板がないと出せないのでは?」


 思わず皮肉が口から出てしまう。即座に我に返りしまったと思うが、ますたぁは目を丸くして気を悪くした様子もなく言った。


「いや、ビーフカレーはまな板じゃなくても作れるから」


 ……逆に普通はまな板では作れないんです、ますたぁ。


 どうしてティノと一緒に喫茶店に行き、ティノと同じものを食べ美味しい美味しいと言い合っていたますたぁが、おそらく人を成長させるためとはいえ、こんな酷いことを考えてしまったのか理解に苦しむ。


「今日は厨房の方の片付けをやろうと思うんだ。手伝ってくれる?」


「はい、もちろんです」


 厨房……それは、ティノにとって未知の世界である。


 もちろん、ティノの家にもキッチンくらいあるし、一般的な喫茶店やレストランの厨房を覗いたこともあるが、森羅万象のカウンターの奥にある厨房に立ち入った事はない。


 ますたぁが訳知り顔で指を立て、ティノに言う。


「厨房は店にとって聖域だからね。特別だよ?」


「……ルシアお姉様がいつもますたぁをパンチしている理由が今わかりました」


 ルシアお姉様とは、ますたぁのパーティメンバーの一人であり、ますたぁの妹である。

 凄腕の魔導師であると同時に《嘆きの亡霊》では一、二位を争う常識人であり、ますたぁが何かしでかす度にパンチで諌める実力者だ。


 そもそもエプロン一つしない人が厨房を語っていいのだろうか?

 そんな事を考えつつもますたぁの後に続き、厨房に立ち入る。



 そして、ティノは広がる光景に目を見開いた。



「どう? 凄いでしょ?」


「は、はい………………さすがです、ますたぁ」



 思わず声が下がる。ますたぁの厨房はこれまでティノが見たことがないくらい見事なものだった。

 ピカピカに磨かれた厨房は店内と同じくらいの広さがあり、棚には無数の調味料が所狭しと並んでいる。

 大きな業務用の冷蔵庫に立派なオーブンまであり、食器棚にはピカピカの銀の食器が綺麗に整頓されていた。


 宝の持ち腐れだ。明らかに一人で回すようなキッチンではない。


 何より目に付くのはキッチンの大部分を占める異様に広い台である。台には溝があり、水で洗い流せるようになっていた。


「ルーク達が狩ってくる獲物は、ほら、大きいから……捌くためにもスペースが必要でね」


「なる…………ほど?」


 ますたぁ、このキッチンから出来上がる料理はちゃんとした物じゃなければ嘘です。


 きっと《嘆きの亡霊》が狩ってくる獲物は普通の料理人なら喉から手が出るほど料理したい代物だろう。きっと一流の料理人でも料理したことがないものが連なるに違いない。


 そして、それら超高級食材からますたぁは異次元料理を繰り出すのだ。


 実際にますたぁのメニューには高価な幻獣魔獣の名前が並んでおり、それぞれの値段は時価となっていた。

 時価の料理を出す喫茶店……ますたぁ、貴方は何を目指しているのですか。


 ますたぁが自信満々に磨き上げられたコンロを示す。


「見てよ、ついさっきなんだけど、特製のコンロも入ったんだ! これで火も使える」


 ますたぁ、貴方は火を使わずにビーフカレーを作ったことにどうして疑問を抱かないのですか……。


 ティノは脳内に過る様々な疑問を全て押し留め、きょろきょろと厨房内を見回した。


「ますたぁ、レシピとかはあるのですか?」


「レシピは全部ここにあるよ」


 とんとんと、ますたぁが頭を人差し指で叩いてみせる。


 駄目だ、このますたぁ……完全に人を殺すつもりだ。


 引きつった顔で見上げるティノに、ますたぁは冗談交じりの笑みを作って言う。


「冗談だよ。まぁ僕には天包丁シルエットがあるからね……レシピなんていらないんだ」


「そ、そうですか……」


「包丁一本で何でも作る料理人。格好良くない?」


「!? それらの料理人は別に包丁一本しか使わないわけじゃなくて、ちゃんと鍋とか使ってると思いますッ!!」


 そもそもますたぁが作っているのは料理ではなく試練だ。

 逆に、本職だって記憶を失う料理なんて作れないのではないだろうか? やはりますたぁは凄まじい。


「しかし、随分広いキッチンですね……」


「飽きたら誰か雇おうと思ってね」


「!?」


 本気か冗談なのかわからないことを言うますたぁ。もしも本気なのだとしたらティノとしては一日でも早く飽きる事を願うばかりだ。


 ますたぁの指示に従い、雑用をこなす。冷蔵庫に詰め込まれた肉塊に驚き、新鮮な野菜に目を丸くする。

 ドリンクも随分豊富だ。ワインセラーまであるらしい。儲けが出る見込みもないのに、シトリーお姉様、お金を使いすぎであった。


 調味料の数も凄まじい。


 棚に並んだ瓶の数は尋常ではなかった。それぞれ几帳面にラベルが貼られている。

 塩や砂糖、胡椒などティノもよく使うものがあるが、大部分はティノが見たこともないものだ。喫茶店で出す料理にこんなに必要なのだろうか?


「随分沢山集めましたね」


「料理は調味料が命だからね」


 ……それ、本当に使ってるんですか?


「それに、こう調味料の瓶が並んでいるとわくわくするよね! まぁほとんど使わないんだけどさ!」


「そ、そうですね……」


 どうやらますたぁは見た目から入る派らしい。だから森羅万象も見た目だけはちゃんとおしゃれな喫茶店なのだろう。


 と、そこで棚を眺めていたティノの目に一つの瓶が入ってきた。


 輝くような粉が入った大きな瓶だ。

 ラベルにはプラチナペッパーと書かれている。


 思わず目を見開く。次に目を瞬かせ、最後に頬を抓る。痛い。夢じゃない。


「…………!? え!?? 同じ重さの黄金よりも高値で取引されるプラチナペッパーがこんなに!?」


「あー、すごいでしょ」


「す、すごいです………………すごく、もったいない……」


 高さ三十センチはある大きな瓶のおよそ七割が満たされていた。これだけでも小さな屋敷が買えるだろう。


 プラチナペッパーは世界で一番高価とされる調味料である。

 その名の如くプラチナ色の粉末で、ペッパーなんて名前がついているが胡椒ではない。


 その正体は――うま味調味料だ。


 一匙入れるだけであらゆる料理のポテンシャルを三段階上げ、ド素人の作った料理が一流料理人の味にまで昇華されるという、まさしく魔法の粉だ。


 その分、需要と供給が釣り合っておらず、高級レストランでもなければまず使用されない。

 噂ではプラチナペッパーを普段の食事に使えるか否かで貴族の格がわかるという話すらある。それくらい希少で高価な品なのだ。


 本来、絶対に喫茶店で使われるような事がない代物である。だが、ティノは不思議と納得していた。


 プラチナペッパーはお金を積めば手に入るようなものではない。大金持ちのシトリーお姉様でも入手には苦労するだろう。

 だからこそ、その瓶からはシトリーお姉様の涙ぐましい努力が伝わってくる。


 プラチナペッパーは魔法の粉だ。

 一流の料理人が有効活用すれば天にも昇る心地のする料理ができあがると聞くが、料理をやったことがないド素人でも入れればそれなりに美味しい物ができあがる。


 余りにも勿体ない話だし、喫茶店で出す料理に使って黒字になるとは思えないが、それでもそのシトリーお姉様の配慮はますたぁの料理を人死にしないレベルまで昇華してくれるだろう。


 プラチナペッパーをかければ机だって食べられると言われているのだ。ティノはむしろプラチナペッパーだけ舐めたい。


 どうしてあんなにいいものがあるのに使わないのか。ティノはにこにこしているますたぁに真剣な顔で進言した。


「ますたぁ、あれはシトリーお姉様からの好意です。少し勿体ないですが、プライドを捨てて使いましょう! …………ますたぁの料理が、更に美味しくなりますよ!」



 一般的なうま味調味料を嫌う料理人がいても、プラチナペッパーを嫌う料理人はいない。それくらい味に隔絶した違いが出るのだ。

 ますたぁは素材の味を出すべく使っていないのかもしれないが、まな板の素材の味を楽しむ人はいないだろう。


 本来ならばある程度美味しい料理を作れるようになってから使うべきだが、なりふり構っていられない。試練だとかもどうでもいい。何とか使ってもらうのだ。






 意気込むティノに、ますたぁが言った。




「もちろん、もう使ってるよ」



「…………へ?」



 信じられない単語に思わずますたぁを見返す。ますたぁは変わらず笑顔だった。


 もう使っている? ならばどうしてティノはショートケーキもビーフカレーも、そしてブブベルベの味も覚えていないのか。


 プラチナペッパーである。料理の歴史を変えた最強の調味料である。神が涙した美味である。王侯貴族がプラチナペッパーを一袋持ってきた商人に爵位を与えたなんて話まであるのである。プラチナペッパーを使っている高級レストランは一年先まで予約でいっぱいなのである!


 何がなんだかわかっていないティノに、ますたぁは悪気のない笑顔で言った。



「調味料を使いこなすのも料理人の腕前だからね。ほら、瓶が三割くらい減ってるだろ? 始めは上までいっぱいにあったんだよ。少しでも料理の質を高めてお客さんに楽しんで欲しくてね」




 意味がわからない。ティノには料理を食べた記憶が残っていないが、ティノの本能にはますたぁの料理に対する恐怖がはっきり刻まれている。


 余りのショックにティノは小さな声をあげることしかできなかった。




「きゅう」







§ § §






 今日の教訓。

 魔法は更に強力な魔法には通じない。


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