ナメルゴンのブブベルベ
帝都の空は今日も雲ひとつなく澄み渡っている。
喫茶店『森羅万象』。最近帝都の一等地に建てられた店の扉の前にはクローズの札がかけられていた。
というか、喫茶店『森羅万象』は実はまだ正式に開店していない。食材も機材もまだまだ足りていないからだ。ティノがこれまでご相伴に与ったのは、与ってしまったのは、ティノが身内だからである。
急ピッチでオープンに向かっているようだが、ティノは永遠にオープンしなければいいのにと思う。
そして、店長であるますたぁ曰く、隠れ家的な喫茶店にしたいらしいがずっと隠れていて欲しいとも思う。
なんと表現すべきだろうか、決して口にしないが、ティノは思うのだ。
食事とは幸福な気分になって然るべきものだ。試練であるべきではない、と。
それはともかく、今日ティノが喫茶店を訪れたのは食事を取るためではなかった。
店の中に運ばれていく機材を眺めながらますたぁに尋ねる。
「? なんですか? ますたぁ、この機材――」
「ああ、これは――ドリンクバーだよ。この喫茶店は皆の憩いの場にしたいんだ」
「それは……」
素晴らしい考えだが、ビーフカレーとショートケーキを頂いた身としては賛成しかねる。
運ばれた立派な箱が台の上に設置されていく。蛇口のついたピカピカの箱はおしゃれで、普通の喫茶店では備えつけたりしないものだ。
恐らく、値段もかなりするだろう。ますたぁの喫茶店の儲けではとても購入できないと思われた。何故ならば、喫茶店に入るお客さんの大半は試練を求めてはこないからだ。いくら一等地に店を構えてもリピーターがいなければいずれ喫茶店は赤字を垂れ流し閉店することになるだろう。
「いやぁ、何か足りないと思っていたんだよ。うんうん、いい感じだ」
「そう…………ですね」
だが、残念ながらこの喫茶店が赤字で閉店することはありえないだろう。
トレジャーハンターは危険だが儲かる仕事だ。最強ハンターともなればティノでは予想もつかないくらい収入があるだろう。
以前ますたぁは十桁の借金があると言っていたが、こうして並の喫茶店では手が出ない帝都の一等地に立派な喫茶店を建ててみせた事がその証明である。
「シトリーが開店祝いに買ってくれたんだ。やっぱり喫茶店と言ったらドリンクバーだよね」
おまけにますたぁには大金持ちのパトロンまでいる。
ティノの師匠の妹でもあるシトリー・スマートはますたぁのパーティメンバーの一人であり、一流の
錬金術師は一般的に戦闘能力は低めだが、腕前次第で巨万の富を生み出す事ができる職だ。実際にシトリーお姉さまはハンターの域を越えたお金持ちであり、貴族にも顔が利く《嘆きの亡霊》で一番敵に回してはいけない人であった。
そしてそのシトリーお姉さまはますたぁの『親友』であり、親友のためならばお金を湯水の如く使うのであった。
たまにティノは、『ますたぁ』はシトリーお姉さまにとって一番お金のかかる道楽なんだろうなあと思う事もある。
…………。
「どうしたの? 黙って」
「……い、いえ」
ティノはブンブンと首を横に振ってその考えを振り払うと、よく磨かれたドリンクバーの機械を見た。
ドリンクバー。冷静に考えたら素晴らしい考えである。
「いいですね。ドリンクバー。ドリンクバー、最高。私も、大好きです!」
「そっか。ティノならただでいいよ。いつでも来てよ!」
「でも、機材をメンテナンスとか、大変なのでは?」
「大丈夫。それはシトリーが業者を手配してやってくれるから」
ますたぁも嬉しそうだ。ますたぁが嬉しいとティノも嬉しい。
ドリンクバー。ああ、なんといい響きだろうか。
このドリンクバーに何が並ぶのかティノは知らない。だが、少なくともこのドリンクバーに並ぶ飲み物にあの『包丁』は介在しないだろう。
あのとんとんたたたんというリズミカルな音も聞かなくていいのだ。普通に美味しい紅茶を飲めるのだ。
最初に出されたケーキと紅茶。今でもティノは悪夢で見る。
味は覚えていないが、あの体験が死屍累々の戦場と同等以上の代物だったと、ティノの本能が覚えている。
ティノは拳を握り、元気よく振り上げた。
「予言します、ますたぁ! このドリンクバーは一番人気になりますよ!」
「ほんと? 今日の僕は冴えてる?」
「冴えてます、ますたぁ! ちなみに、何が並ぶんですか?」
「何を並べるかはシトリーが手配してくれるんだ。えっと――――
「…………」
どうやらシトリーお姉様はこの喫茶店の実態を正確に把握しているらしい。そこまで把握しているなら止めてほしかった。
というか、回復薬と解毒薬はまあ百歩譲っていいとして…………魔力回復薬って……ますたぁ、貴方の料理は魔力まで減るんですか……。
パトロンの支援が示す意味を微塵も理解していない笑顔でますたぁが言う。
「あはははは、僕は特製コーヒーとか出したかったんだけど、シトリーがドリンクバーは扱いが繊細なのでやめておいた方がいいですってさ。まぁポーション出すのも元トレジャーハンターのやる喫茶店っぽくてなかなか良くない?」
「そ、そうですね…………」
どうやらこのますたぁはもうトレジャーハンターをやめた気分でいるようだ。いつもなら指摘するところだが、もうティノの心は折れていた。
せめてドリンクバーで出されるであろうポーションが客の死を食い止める事を祈るだけだ。
ともあれ、今日ティノが来たのは手伝いのためである。ますたぁの指示を聞き、色々機材を動かしたりテーブルを動かしたりする。
ますたぁはレイアウトに気を使うよりも先に料理の味を何とかするべきだと思うが、言わない。
あれはわざとだ。あれは昨今の軟弱なハンターに対する試練なのだ。そうでなければ、ますたぁは素で料理の腕前が壊滅的で、素でそれをティノに食べさせる鬼畜という事になってしまう。
機材はそれなりに重かったが、トレジャーハンターであるティノにとってはどうということもない。
ある程度機材を動かしたところで、ますたぁが満足げに頷く。
「ああ、ありがとう。こんな感じでいこう。助かったよ」
「いえいえ。お礼を言われるほどの事では――」
と、そこで、ふと思い出したかのように手を叩き、ますたぁが信じられない事を言った。
「あ、そうだ。ティノ、今日はいいナメルゴンが入ってるんだ。せっかく来たんだし、手伝ってくれたお礼だ。食べていきなよ」
「!?」
ナメ…………なに?
ティノの頭の中にはない単語に一瞬思考がフリーズする。その間にますたぁがスキップしながら厨房に消える。
ナメルゴン……ナメルゴンって、何?
動物? 魔物? 植物って事は……ないだろう。
ティノはこれでもトレジャーハンターとして中堅だ。動植物の知識は秘境を旅する事もあるハンターにとって必須である。
そんなティノが知らない――――ナメル…………ゴン?
とんとんとんとんとん…………とととととととととと――。
どくんと、心臓が強く鳴った。何故だろうか、手足が震え心臓が全力で十時間走った時のような速度で鼓動する。
呼吸が荒くなっている事に気づく。だが、どうしていいのかわからない。頭の中がぐちゃぐちゃだ。時間よ止まれと、ティノは思った。
包丁の音が止まる。厨房の扉が開く。ますたぁが立派な銀の皿を持ってきて、ティノの前に置いた。
お皿には膨らんだ銀の覆い(たしかクローシュと言っただろうか?)が被せられ、中身は見えない。
にくい演出だ。今にも心臓が止まりそうだった。ますたぁが見惚れるような笑顔で言う。
「お待たせ! 今日のメニューは、ナメルゴンのブブベルベだ…………冷めないうちに召し上がれ!」
!??? !?
ナメ……ブブ…………な、何?
ますたぁが蓋をゆっくり持ち上げる。
駄目です。ますたぁ、まだこの店にはドリンクバーが――ポーションのドリンクバーが入っていな――。
「………………………………きゅう」
§
今日の教訓。
ドリンクバーなしで創作料理を食べてはいけない。