名状しがたきビーフカレー
その金色の宝具――包丁型宝具を、天包丁シルエット、というらしい。
宝具。
宝物殿に転がる摩訶不思議な能力を持つ宝物は、世界に満ちる不可思議な力――マナ・マテリアルが蓄積することによって再現された、過去の記憶とされている。
天包丁シルエットの起源は、記録すらほとんど残らぬ遥か昔、料理の腕だけで国を支配していた男が保持していた調理器具の一つだという。
その包丁の金色の刃は万象を切り刻み担い手の技量関係なしにあらゆる料理を再現することを可能とする。
ただし――再現できるのは形だけだ。
ますたぁはほれぼれするような包丁を持ち上げ、どこか憂いを帯びた笑みを浮かべた。
「僕は――この包丁を手に入れたから喫茶店をやろうと思ったんだよ」
「…………」
やろうと思わないでください、ますたぁ。その言葉を、ティノはぎりぎりで飲み込んだ。
苺を口に運んだ瞬間から記憶が飛んでいた。味も覚えていなければ自分がどうなってしまったのかもわからない。
激しい訓練の末、大抵の事には動じなくなったティノの記憶を飛ばすとは、そのショートケーキはまさしく魔物だった。
ますたぁ曰く、ティノは一口苺を齧った瞬間、きゅうと小さな声を上げて倒れてしまったらしい。
普段なら恥じ入るべきだが、悪びれもなく話すますたぁを見ているとそんな気分でもなくなる。
「シリーズでまな板とか色々あるはずなんだけど……傾国の調理器具シリーズは一度手に入れたら誰も手放そうとしないから、全然手に入らない」
「…………他の調理器具を手に入れたら、味もよくなるんですか?」
「それはもちろん…………使い手によるよ」
にこにこと答えるますたぁに、ティノは瞳を伏せた。
駄目だこのますたぁ。いつもティノに過酷な課題(もちろん、ティノの成長のためだ)を与えてくるが、今回も完全に確信犯だ。
「喫茶店やるって言ったらシトリーが店を用意してくれてね……ルーク達が食材を集めてくれている。いやぁ、持つべきものはいい友達だ」
ますたぁは最強のハンターだ。最強のハンターであるますたぁには最強の仲間達がいる。
生まれ故郷の幼馴染同士で組んだというそのパーティの名は――《
ティノの師匠である『お姉さま』、リィズ・スマートも所属するそのパーティはゼブルディア近辺では敵なしの実力を誇っている。
「…………味は、食材によるんですか?」
恐る恐る尋ねるティノに、ますたぁはまるで可哀想な子でも見るような目で見て言った。
「ティノ、普通の料理はそうだよ」
「!?」
全くもってその通りだが……なんだかよくわからない物体でショートケーキを作ったますたぁにだけは言われたくない。
だが、このまま放置してはおけない。ショートケーキはやばいできだった。何がやばいって味が全く記憶に残っていないのがやばすぎる。
このままでは死人が出かねない。だが、包丁を取り上げる事なんてできるわけがない。
ティノは決意をした。まだ痺れの残る手を握り、宣言する。
「ますたぁ…………私も、食材を集めてきますッ!」
「え!? いや……悪いよ。ほら、リィズ達も集めて来てくれるからさ……」
世界にはマナ・マテリアルが満ちている。マナ・マテリアルとは力の塊であり、魔物や幻獣の大好物だ。
マナ・マテリアルの流れる地脈の付近は強力な幻獣が縄張りとする正しく魔境であり、そう言った地域で大きく強く成長した幻獣は非常に高値で取引されている。
その素材の多くは武器防具や薬、魔法の道具などに生まれ変わるが、ティノは知っていた。
そういった幻獣魔獣の味が――非常に美味である事を。
余りにも勿体ないので誰も食べたりはしないが、一般流通する食材と比べて桁外れの旨味を持っている事を。
きっと、ますたぁのパーティメンバーはますたぁの異次元料理を見て、高級食材を探す事を決意したのだろう。
何を材料にすればあんな恐ろしい苺のショートケーキが出来上がるのか全く予想できないが、もう二度と犠牲者を出してはいけない。
敬愛するますたぁが寂しげに言う。
「そんなに美味しくなかったかな……悪いね。料理なんて今までしたことないから……」
ますたぁ……あれを料理と呼ぶのは料理に対する冒涜です。
さすがのティノでも擁護できない味だ。
「うーん、甘味が足りなかった?」
「…………私では力不足です、ますたぁ」
ああ、何ということだろうか。ティノでは味の感想を言うことすらできない。覚えていないからだ。
一つ言える事があるとするのならば――過酷な地を探索するがゆえに大抵の物は食べられるよう訓練を受けているハンターを一口で気絶させるというのは、相当だ。
なまじ店内がおしゃれで一見普通の喫茶店に見えるところがとてつもなく恐ろしい。
黙り込み包丁を見ているますたぁに恐る恐る進言する。
「あの……ますたぁ。まずは簡単なものから作るなど、どうでしょう?」
「簡単な……もの?」
物事には順序がある。そもそも苺のショートケーキもレシピさえ知っていればそう難しいものではないのだが、この世にはもっと簡単な料理もあるのだ。
たとえ苺ショートで記憶を飛ばされる程のダメージを受けても、ティノがますたぁに受けた恩はなくならない。
ティノは指を一本立てて言った。
「カレーです。あれは食材を切って、市販のルーで煮込むだけでできるので、馬鹿でも作れます。ハンターの基本です」
カレーはいい。トレジャーハンターの強い味方だ。
トレジャーハンター向けの店ならば間違いなく固形のルウが売っている。現地で採った食材と一緒に適当に煮込めば美味しいカレーが出来上がる魔法のようなアイテムである。蛇でも蛙でも兎でも何でもカレーになるのだ。
ティノはカレーが好きだ。大好きだ。いつも外に出る際は大体食事はカレーになる。だから最近は半分飽きているが、それでもカレーは素晴らしい。
ますたぁはティノの進言に、目を見開き、ハードボイルドに指を鳴らした。
「なるほど…………その手があったか!」
「私、カレー好きです」
「カレーの嫌いなハンターなんていない!」
「いません!!」
今、ティノとますたぁの心は一つになっていた。敬愛するますたぁが格好良く拳を握る。
「ティノ、待ってて。すぐに最高のカレーを作ってみせる!」
「普通のカレーでいいです!」
ますたぁが厨房に引っ込む。
よかった……カレーだ。
トレジャーハンター向けのカレールウは愚か者でもカレーを作れるようにできている。この世で最も偉大な発明の一つだ。
目をつぶり、感慨に浸るティノの耳に、心地の良い音が聞こえてくる。
とんとんとん………………とととととと――。
カレーは食材を刻むから、音が聞こえてもいいのだ。
「ティノ、できたよ! お肉たっぷりのビーフカレーだ!」
ますたぁ…………煮込む音がしていませんよ?
ティノの目の前に差し出された銀のカレー皿。その上に盛られていたのは、ますたぁの言葉の通り、大きめに切られたお肉がごろごろ入ったビーフカレーだった。
見ているだけでお腹がなりそうな美味しそうなカレーだ。だが、ティノのお腹は鳴らなかった。
ますたぁが見惚れるような笑みを浮かべて言う。
「召し上がれ!」
「……………………い、いただきます」
ティノは余計な質問をするのを諦めた。匙を投げながら銀の匙を取る。
大丈夫、これはカレーだ。程よいとろみによく煮込まれた野菜、そして柔らかいビーフ。匙に掬ったカレーを鼻先に近づける。
カレーの臭いは――。
ティノはごくりとつばを飲み込み、ますたぁに恐る恐る確認した。
「…………ますたぁ、このごろごろ入ったお肉って、本当にビーフですか?」
本当は、聞きたいことはそれではなかった。ビーフかどうかよりも本当にそれがお肉かどうか聞きたかった。だが、ティノは諦めた。
ティノはますたぁに大恩あるハンターである。ますたぁがいなければ今のティノはいない。
時には敗北必至の相手に勇猛果敢に立ち向かわねばならないこともある。それを、ティノはこのますたぁから学んだのだ。
これはカレーだ。これはカレーで、これはビーフだ。人参に玉葱にじゃがいもに――ご飯だ。これは、ビーフカレーなのだ。見るに明らかにビーフカレーなのだ。ビーフカレー以外の何物でもないのだ。ティノはトレジャーハンターだ、ビーフカレーを恐れるトレジャーハンターなどいない。
自己暗示をかけるティノに、ますたぁは目を瞬かせて言った。
「んー…………多分、まな板」
ますたぁは私の事がお嫌いなのですか!?
「いただきますッ! ………………きゅう」
§
今日の教訓。
まな板はたとえどれほどビーフに似ていても食べられない。