【電子書籍化決定】サイコパス令息と呼ばれている俺は、婚約者がかわいく見えて仕方ない

作者: 紺青

 どうやら、俺は社交界で"サイコパス令息"なんて呼ばれているらしい。

 友人も多く陽気な弟が、社交界で最近、俺がそう呼ばれていると面白おかしく教えてくれた。


 "サイコパス"とは、共感性が低く、感情に乏しくて傲慢で自分さえ良ければよいという人のことを現す言葉だ。

 王都で昨シーズンから流行っている歌劇『サイコパスな吸血男爵は虐げられた男爵令嬢に薔薇を捧ぐ』の主役である"サイコパス男爵"と外見上の特徴も一致していて、性格や行動も似ていることからそのあだ名が付けられたらしい。劇を実際に見た母や弟によると、俺とは違って人前ではきちんと話すことができるキャラクターのようだが。人のいないところで吐く、直情的で失礼な物言いはそっくりだそうだ。


 人々にわざわざ言われなくても、俺は自分が人間としてなにかが欠落した人間だとわかっている。


 赤ちゃんの頃は泣くこともなく手がかからない良い子だったらしい。その頃が俺の人生のピークだったのかもしれない。ただ、抱っこや人に触れられることを嫌がる事が両親や乳母は少し気にかかっていたらしい。


 二歳年下の弟が生まれ、彼は生まれた瞬間から非常に自己主張が激しい男だったため、周りの注目は全てそちらに注がれた。それで、俺に感じたささいな違和感もどこかへ吹き飛んだらしい。俺は両親や乳母の言う事をよく聞くおとなしい子だと思われていた。


 問題が起きたのは侯爵家で行われた俺の七歳の誕生日パーティーのことだった。侯爵家の長男であった俺の友人作りのためと、あわよくば婚約者候補を見繕おうという目的で開かれたものだった。メインは貴族の子息令嬢の交流なので、昼間に茶会という形で開催された。

 両親もはりきって侯爵家の庭に会場を用意し、大人達が休憩できるように大きなテントまで張られて、子供でも好きに手に取れるように低めのテーブルに色鮮やかな菓子や軽食が並べられた。使用人達もたくさんアイディアを出してくれて、リボンや花で会場を華やかに飾り付けてくれた。


 俺はまず、初めて遭遇する大勢の人々に圧倒された。続々と客人が到着するのを父の横で機械的に挨拶をして迎える。自分の屋敷の庭なのに、人で埋め尽くされてまるで違う家のように感じた。皆の前で父が俺を紹介して、乾杯をすると大人達と子供達とに分かれて、自由に交流することになった。


 「自由にしろ」と言われるのが一番苦痛かもしれない。とりあえず、庭の隅で時間をつぶして自分の部屋へ逃げようと算段した。その段階で、人々の着ているカラフルな衣装だとか、会場のゴテゴテした飾りだとか、葉巻や香水や化粧の匂いだとか、視覚や嗅覚に訴える情報が溢れていて気分が悪くなっていた。

 両親が俺のために開催してくれたことは重々わかっている。それでも耐えられそうになかった。


 しかし、侯爵家嫡男の俺との縁を繋ぐことを使命として参加している貴族令息や令嬢が俺を見逃してくれるはずがなかった。特に母から受け継いだ容姿は、令嬢達のお気に召すものだったらしい。会場の真ん中で、いっぱしの大人のように着飾っている令嬢達に囲まれてしまった。その輪の向こうから、令息達もそわそわしてこちらを見ている。逃げられる隙間はない。


 その輪の中から、公爵家の令嬢が進み出て、自己紹介し見事なカーテシーを披露した。俺はただ茫然として、それを見ていた。

 「ジェフリー様って、本当にすてきですわね。わたくし、将来ジェフリー様のお嫁さんになりたいわ」

 なんの前触れもなく彼女は接近し、俺の腕に腕を絡めて耳元で囁くように言った。腕にナメクジが這うような感触がして、ぞっとする。そして彼女のつけている甘ったるい香水の香りに吐きそうになった。精神的に限界だった俺は反射的に彼女の腕を振り払って、突き飛ばしてしまった。


 和やかだった会場は、騒然とした。突き飛ばした公爵令嬢は周りの令嬢を巻き込んで倒れて、巻き込まれた令嬢が近くにあった菓子の載っていたテーブにぶつかり、テーブルも倒れ菓子が散乱した。公爵令嬢はショックで泣き叫び、それにつられて周りの令嬢達も泣き出した。


 謝って、公爵令嬢に手を差し出さなければ……。わかっているのに、体が細かく震えて動くことができない。この場から逃げ出したい。ただ、この場から逃げ出したいと思った。


 その時、背中にあたたかい手が添えられた。

 「大丈夫か? ジェフリー」

 父だった。父は俺を責めることもせず、俺の全身にさっと目を走らせて無事なのを確認すると、俺の代わりに公爵令嬢の前に跪いて、そっと助け起こして事情を聞いている。母も周りで倒れた令嬢に声をかけ、使用人達に矢継ぎ早に指示を出している。


 俺が呆然としている間に、優秀な侯爵家の侍従や護衛達が両親を手伝い令嬢達を一人一人を助け起こして、怪我の有無などを確認している。侍女達もテーブルや菓子を片付け、怪我をしたり、ドレスが汚れてしまった令嬢の対応をしているようだ。


 開始早々、俺が台無しにしてしまったパーティーだったが、弟と同じく陽気でテキパキと仕切ることが得意な母が場を収め、さらに盛り上げて盛況のうちに会は終わったようだ。令嬢達には、母がデザインしたドレスを着替えとして提供し、さらにブローチをプレゼントすることで事を収めることができたようだ。


 父の指示で一旦、部屋に戻った俺は、来客の帰宅時に父の隣に立ち真摯に謝罪した。両親や使用人達のおかげで俺の起こした騒動はなんとか収めることができた。


 その日の夜の晩餐は、いつもは賑やかにしゃべる母や弟も黙りこくっていて沈黙が支配していた。せっかく俺の好物を並べてくれているのに、味がわからない。

 「ジェフリー、なにがあったか話してくれるかい?」

 ついに、上座に座る父から昼間の騒動について問われた。そこに俺を責めるような気配はない。俺はそっとカトラリーをテーブルに置いた。どうしても父の顔が見られなくて、顔を伏せてしまう。


 「申し訳ありません……」

 「謝罪は受け入れよう。僕はなにがあったかが知りたいんだ。教えてくれるかい?」

 「申し訳ありません……。俺のために、父様も母様も使用人達もあれだけ準備してくれたのに……」

 「謝罪は受け入れるし、反省も必要だ。でも、まずはなにがあったか、ジェフリーの言葉で話してくれないか?」

 「正しく伝えようとしなくていいのよ。ジェフリーがなにを思ったのか、なにがあったのか教えてちょうだい」

 横から母も穏やかに言葉を添える。普段騒がしい弟ですら神妙な顔をして俺を見ている。俺が話さないと始まらないようだ。 


 「……人がたくさんいて、色々な色が溢れていて、あと食べ物と香水と葉巻の臭いがして、気分が悪くなりました。部屋へ戻りたかったのですが、女の子達に囲まれて……。公爵家のご令嬢に挨拶を受けました。そうしたら、そうしたら……俺の腕に腕を絡めて来て、耳元で話しかけられて……気持ち悪くて、腕を振り払って突き飛ばしました。……ごめんなさい、ごめんなさい」

 膝の上のナプキンをぎゅっと握りしめて、なんとかあの状況を言葉にしようと努めた。言葉遣いも内容も支離滅裂になってしまい、ただ謝ることしかできない。

 どうして、俺は他の子供のようにきちんと振る舞うことができないのだろう?


 「よく話してくれたな。そうか、ジェフリーは賑やかな場所が苦手なのだな……」

 いつの間にか父が自分の席を離れ、そっと俺を抱きしめてくれた。人に触れられるのは苦手だったけど、いつの頃からか家族だけは平気になっていた。それも今日の出来事で、他の人間との接触は苦手なままであるとよくわかった。


 「ミッチェルと仕事にかまけて、あなたの事ちゃんと見ていなかったのね。ジェフリーは整った顔立ちをしているものね……。貴族令嬢は積極的な子も多いから……。ご令嬢をつきとばしたのはいけないけど、ジェフリーが先に嫌なことをされたのね」

 母も父とは反対側から俺の手を握りしめている。父の抱擁はあたたかく、母が握る手は滑らかで気持ちいい。両親の気持ちが痛いほど伝わってきた。俺は侯爵家の嫡男としてしてはいけない失態を犯したし、人間として欠陥品なのに、両親に愛されている。


 「これからジェフリーの誕生日は家族だけで祝おう。侯爵家の嫡男として、茶会や夜会は避けられないが、マナーの家庭教師とも相談して工夫して克服していこう。してしまったことは仕方ない。どう挽回するかが大事だ。迷惑をかけたご令嬢にはお詫びの手紙を書きなさい。侯爵家の名でも詫びと詫びの品を届けておくから気に病むな」

 

 「ご令嬢とも少しずつ交流して、慣れていきましょうね。みんながみんな、あんな無礼な令嬢ばかりじゃないから」


 「俺、にーさま守ってあげるよ。俺、話すの得意だし」

 ずっと黙って事の顛末を見守っていた弟がにこっと白い歯を見せて笑って宣言した。両親からも笑いがこぼれる。家族の思いやりや愛情がうれしいのに、俺は涙を流すことも笑みを浮かべることもできない。なんとか口角を上げて、微笑みらしきものを作った。



 俺は人との交流以外で困ることはなかった。

 次期侯爵家当主として課される教育は順当にこなしたし、体作りのための鍛錬や剣術の稽古もするすると身についていった。目的ややる事が明確なものなら、なんの苦も無くできた。


 しかし、貴族として生きるのに人との交流ができないのは致命的な弱点だった。

 空気が読めない。人の気持ちがわからない。表情が変わらない。

 貴族として感情や気持ちが筒抜けなのも困るが、貴族特有の曖昧な笑みすら浮かべられず、人に同調することもせず、自分の感情も伝えられない無表情な俺は気味悪がられた。


 言葉も端的で、曖昧な表現や遠回しな表現をすることができないし、理解もできない。思ったことを反射的に返すか、頭で考えすぎて無言になってしまうかのどちらかだった。

 嫌味や誉め言葉をあいまいな言葉でくるんでやりとりする貴族社会で俺が生きていけるわけがない。


 家族と共に、工夫し試行錯誤するが、どうすることもできなかった。

 茶会や夜会では常に弟と行動し、弟に盾になってもらい、橋渡しをしてもらってなんとかしのいでいた。


 

 ◇◇


 俺が十二歳の時、何回開かれたかわからない家族会議で、ついに父が切り出した。


 「そろそろ、決断する時かもしれない。いいかい、ジェフリー、僕もミーナもミッチェルもお前を愛している。それを忘れるなよ。侯爵家はミッチェルに継いでもらうことにする。お前はミッチェルに継がせる予定だった、我が家の持つ子爵位を継ぐか、領地でミッチェルの補佐をするか、騎士や文官になって身を立てるか好きな道を選びなさい」


 「……はい。あの、ミッチェルは大丈夫ですか?」

 まるでリスみたいにクッキーを頬張っている弟の方を見る。次期侯爵家当主の座が惜しいわけではない。自分にとって重荷だったそれを人付き合いが苦手だからという理由で弟に背負わせて、俺だけ好きに生きていくことに罪悪感があるのだ。


 「兄様、僕は構いませんよ。僕も兄様と一緒に侯爵家当主教育を受けて、領地の視察にも連れまわされてる時点で気づいてましたし。僕は兄様ほど賢くはないですが、父様のようにほどほどに侯爵家を治めてみせますよ。特に他にやりたいこともないですしね。父様ただ、一つだけお願いがあります」


 「なんだい?」


 「酷な話かもしれないですが、僕が成人して、できれば結婚するまで、対外的には次期侯爵は兄様ということにしておいてほしいんです。僕は絶対にビアンカと別れたくないんです。彼女は子爵家の令嬢だ。僕が次期侯爵になると発表したら嫌がらせや横槍を受けるでしょう」


 「……なるほど」


 「ジェフリーは侯爵家を継ぐ必要がなくなる代わりに、ミッチェルの風よけになる、ということね……」


 ジェフリーの脳裏に弟の婚約者が浮かぶ。弟が七歳の時に茶会で見初めて、婚約したビアンカは子爵家の令嬢だ。

 初対面の時に標準よりはふっくらしたビアンカに「痩せた方がいい」と言ってしまって、いつもは俺の失言を笑って許してくれる弟に初めて殴られた。その次の瞬間、弟に殴られたのと逆の頬をビアンカにビンタされた。いい連携だ。威力は弱いが、街の酔っ払い程度なら撃退できるだろう。二人はとても仲がいい。

 ジェフリーとしては、健康で長生きして弟と添い遂げるためには痩せた方がいいとアドバイスしただけなのだが、その意味は伝わらなかったようだ。とにかく、ふっくらしているビアンカは可愛らしくてほがらかで弟とお似合いだった。


 「ジェフリーはどう思う?」


 「かまいません。俺は騎士になろうと思います。他に親族で子爵位が必要で適任な方がいれば、爵位も必要ありません」


 「ジェフリーが対外的に次期侯爵と見られている間、婚約者がいないと周りにうるさく言われるし、縁談も全ては断れないぞ? 相手によっては顔合わせぐらいはしないといけない」

 

 そうは言っても、年々ジェフリーに届く釣書の数は減っていた。

 件の騒動の原因である公爵令嬢が事あるごとにジェフリーの悪意ある噂を流しているせいもある。彼女はジェフリーの外見がとても好きらしい。それなのに、(なび)かないジェフリーにイライラしているようだ。もちろん、それだけでなくジェフリーが無表情でたまに話したかと思えば、失礼なことしか言わないせいもある。


 「侯爵夫人になることを夢見てる相手であれば申し訳ないなと思いますが……」


 「正式に婚約するとなった段階で、当主がお前達のうちのどちらが継ぐか確定していないと相手方には伝えよう」


 「どうせ顔合わせで断られる確率の方が高いから、大丈夫です」

 確信を持って言ったジェフリーに、家族三人はなんとも言えない顔をした。


 腐っても次期侯爵家当主で顔立ちの良いジェフリーはこれまで三回顔合わせを行ったが、どれも相手方に断られている。いくら将来有望で外見が良くても、雑談もできず無表情で無言のジェフリーは蝶よ花よと愛でられ持ち上げらることに慣れているご令嬢には耐え難いらしい。


 三回目に顔合わせを行った令嬢は、それまでの令嬢とは違っていた。彼女はずっとジェフリーを好きだったと言い、冷酷なジェフリーを自分の愛で溶かせると思い込んでいた。二人きりで庭を散策することになると、べったり体を寄せて上目遣いに俺への気持ちを熱く語り、最後には「なんでも正直におっしゃって下さい。わたくしはジェフリー様の心がどれだけ凍てついて冷たいものでも受け止めてみせますわ」と締めくくった。

 その段階ですでに、派手なドレスの色と太陽の光に反射してギラギラしたアクセサリーと厚化粧と彼女の体温に耐え難くなっていた。話が長くて、内容もよくわからない。

 「香水の臭いが強すぎる」

 不快に感じることの中で、一番失礼に当たらないだろうと匂いのことを指摘する。彼女は、全ての花を煮詰めたような胸が悪くなるくらい甘ったるい匂いをさせている。生理的に無理だ。いくら俺に好意を持っていようとも、無理なものは無理だ。

 なんでも受け止めると言ったすぐ傍から、彼女は顔を真っ赤にして手にしていた扇で俺の頬を張り飛ばした。避けることは造作なかったが、縁談を潰したくて、そのまま受け止めた。


 結局、俺の失礼な発言と令嬢の暴力行為はお互い目をつむることなり、縁談は無事破談となった。

 残念な結果に終わった顔合わせに、さすがの父もがっくりと肩を落とし、母はため息をついた。令嬢の真実の愛で、欠陥人間の俺が普通の人間になれると期待していたのかもしれない。そんなのは物語の中だけの話だ。


 「もー、兄様、おもしろすぎだろ!」

 事の顛末を聞いた弟が腹を抱えて爆笑していたことだけが救いだった。弟に一時の笑いを提供できたのなら、不快な顔合わせを受けたかいがあった。その後、弟は母からゲンコツをくらっていたが。


 今後もまぁ、この調子でどんどん縁談を潰していけば問題ないだろう、とジェフリーは思った。

 


 ◇◇



 十二歳で騎士学校に入学し、十六で近衛騎士になった。

 次期侯爵家当主の重荷がなくなったジェフリーは仕事に邁進した。勉強や仕事はいい。やる事や目的がはっきりしている。

 ジェフリーが次期侯爵家当主であると装うために、弟と一緒に侯爵家の当主教育は受けた。どんな内容であっても勉強は楽しいから苦にならない。


 ジェフリーの美貌や次期侯爵家当主であるということに嫉妬して時折、騎士団で絡まれることもあったが、全て腕力で叩きのめした。すらっとして見えるジェフリーだが身長はあるし、筋肉もついている。することもないので、暇さえあれば鍛錬に明け暮れていたので、剣術や体術の腕はかなりのものだった。


 そうして、ジェフリーが二十三歳の時に弟が侯爵家を継ぐことを発表することになった。それまでに弟は成人して一旦、侯爵家の持つ子爵位を継いでいた。そして、婚約者であったビアンカと結婚し、無事長男が生まれた。ここまで来れば横槍が入ることもないし、未だに婚約者のいないジェフリーから弟に当主の座がスライドしても文句は出ないだろう。


 弟を跡継ぎにすることで、周りから長男である俺を軽んじているって言われる可能性もあった。でも両親はそんなことは気にしない。ただひたすら俺と弟の幸せのために動いてくれた。


 騎士団の寮で暮らしているジェフリーは侯爵家に召集をかけられて、久しぶりに家族会議に参加した。弟が侯爵家を継ぐと発表することを父から告げられて、弟にまずお祝いの言葉をかける。


 「ミッチェル、おめでとう!」


 やはり家族はいい。俺は久々の家族団欒にすっかり、くつろいでいた。もっとも他人から見たら、無表情で無駄に姿勢がいいジェフリーはリラックスしているようには見えないだろうけど。


 「なぁ、ジェフリーお見合いを受けてみないか? ジェフリーと気の合いそうなご令嬢なんだ」

 だいぶ白髪の増えた父から提案を受ける。三度目の婚約の顔合わせがだめになってからも、ぽつぽつと釣書が届いていたようだが、両親がしっかりと調査して断ってくれたようで俺まで話がきたことはない。


 「えー!!! そんな人いるの?」

 俺の代わりに弟が気持ちを代弁してくれた。侯爵家当主となるのに弟は相変わらずノリが軽い。


 「メアリー・シーウェル伯爵令嬢だ」


 「おー、今話題の"人形令嬢"? 婚約者が王宮の夜会で、浮気相手とむつみあってる所を騎士に押さえられて婚約破棄したっていう?」

 社交界の噂に精通している弟が端的に彼女について紹介してくれる。


 「お人形さんみたいにとっても綺麗なご令嬢よね。いつも姿勢や所作が美しくて凜としているのよね……」

 宝飾品やドレスなど美しいものに目がない母がうっとりしている。彼女は母の審美眼に適っている令嬢らしい。美しい物への情熱があふれ出して、母は自ら商売を立ち上げてドレスや宝石のデザインをして、販売している。


 「彼女も表情があまり動かず大人しいご令嬢なようだ。内面はわからないが、父上の伯爵は立派で誠実な方だ」

 彼女の父親は王宮の財務大臣をしている父の補佐をしているようだ。確かに父から伯爵の名前を何度か聞いたことがある。父がそこまで言うのなら、会う価値があるのかもしれない。


 「物静かで大人しい方ならジェフリーともしかしたら気が合うかもしれないわね……。顔合わせにはわたくしも参加するわよ!」


 「いや、向こうもこじんまりとしたかんじで顔合わせをしたいようだから……」

 当事者であるジェフリーの意向を確かめられることなく話が進んでいった。

 断ることもできるということだったが、侯爵家が落ち着いたタイミングでジェフリーにも幸せになってほしいという家族の気持ちを感じて、たいした期待もせずに、とにかく顔合わせだけはすることにした。



 ◇◇



 「参加するわよ!」と最後まで母は主張していたが、父の采配で母が仕事でどうしても家を不在にしなければいけないタイミングで彼女との顔合わせが行われた。


 審美眼のある母の言う通りメアリーは綺麗な令嬢だった。

 真っ白な肌に、濃い紫色の目と髪が映えている。切れ長の瞳にすっきりと通った鼻、薄い唇。あっさりとした顔立ちを濃い色の髪やまつ毛が縁どっていて、不思議な魅力を醸し出していた。その整った顔にはなんの表情も浮かんでいない。

 幼い頃からジェフリーに執着している公爵令嬢や、夜会で絡んでくる既婚者の夫人のように肉食獣のようなギラギラした瞳をしていなくて、ジェフリーはほっとした。


 ジェフリーはメアリーを見て、自分は他人からこんな風に見えているのだと思った。確かに相手がなにを考えてるかわからないというのは人を不安にさせるのかもしれない。


 メアリーも父である伯爵もあまり口数が多くないようで、父が一生懸命、場を繋ごうとなにか話している。

 ふいにジェフリーはメアリーの視線を感じた。こちらを上から下までまるで観察するように見ている。ジェフリーは昔から令嬢や夫人や、時には男性からも舐められるようにジロジロと見られることがあった。でも、メアリーの視線はそういった欲をはらむものではなく、まるで絵画を鑑賞するような透き通ったものだった。だから、それを不快だとは思わなかった。どうやら、彼女は俺の外見を気に入ったらしい。そのことに少しほっとした。


 「……ということで、若い二人で庭でも散歩してきたらどうかな? 今が見ごろの花も咲いている。ジェフリー、メアリー嬢を案内してあげなさい」

 父に促されて彼女をエスコートすることになった。


 なぜかいつもより心拍数が上がり、体温も上昇しているようだ。風邪だろうか?

 内心そんなことを思いながら、彼女に手を差し出す。


 メアリーは話に聞いた通り、わきまえた人で必要以上に体を寄せることはなかった。腕にちょこんと乗せられた手が冷んやりしていて気持ちがいい。女性と接触しても嫌悪感が湧かないことに自分でも驚いた。彼女からは貴族の女性がつけているような甘ったるい香水の匂いがしないせいかもしれない。彼女からは爽やかな果物のような香りがほんのりした。匂いの好き嫌いが激しいジェフリーだが、彼女の匂いはいつまでも嗅いでいたくなるような好ましい物だった。

 

 「あなたはこの婚約に異議はないの?」

 「ない」

 「聞いておきたいことはある?」

 「特にない」

 「私で良かったんですか?」

 「君は騒がしくない」

 それに姿形も色も匂いも触感も好ましい、と心の中で付け加えた。彼女の小さいのに通る声も好きかもしれない。


 「なるほど……」

 「それに、お互いなにか不満があれば、その時に申し出て婚約の継続を考えれば良いだろう」

 「それもそうね」

 「騎士としての仕事もあるし、一生一人でもいいと思っていた。家を継ぐつもりもなかったし。ただ、父や弟にこれまで、たくさん心配をかけてきた。これまで、どの縁談も顔合わせで潰れている。父や弟のためにも、婚約が恙なく遂行され、君と婚姻できたらと思っている」


 俺の幸せを願う家族のためにというのも本心だが、俺自身もメアリーと交流を持ちたいと思った。なんとかそれを伝えたくて、言葉を重ねるが、何を言っているのか自分でもわからなくなる。彼女にきちんと伝わっただろうか?


 「私も前の婚約は散々だったの。あなたが伯爵家に婿入りして、一緒に伯爵家を盛り立てていってくれて、浮気しなければ問題ないわ」

 「その条件に関しては問題ない。よろしく頼む」


 メアリーとの会話は端的でわかりやすい。

 まるで男同士の約束をするかのように手袋越しに握手をして、この婚約はまとまった。


 父や弟の助言を受けて、メッセージカードをしたため、庭師とうんうん唸りながら花を一輪選び彼女に贈った。女性に花を贈ったことなんてない。でも、父や弟の助言だけでなく、俺自身も綺麗なメアリーになにか綺麗なものを贈りたかった。彼女の好きな色すら聞いていない。悩み抜いたすえに彼女が着ていた薄紫のドレスに似た色の花を選んだ。



 ◇◇



 両家の親達の大いなる熱量のおかげで、話はとんとん拍子に進んだ。


 メアリーは伯爵家の唯一の子供であり、婿を取らなければならない。ジェフリーはせっかく侯爵家当主という重責から逃れられたのに、次期伯爵家当主になることになった。

 ジェフリーは伯爵家に通い、彼女の父から直々に伯爵家の当主教育を受けることになった。元々、弟と共に侯爵家の当主教育を受けていたので問題はない。貴族としての交流に不安はあるが、それでもメアリーとせっかくできた縁を切りたくなかった。


 ジェフリーは近衛騎士の仕事を続けながら伯爵家の当主教育を受け、半年後には仕事を辞めて伯爵邸に入り、一年後には結婚することになった。


 二人は順調に交流を深めて、半年が過ぎた。


 「ふふっ、相変わらず綺麗な顔立ちね~。天気がいいと髪の毛が日の光に反射して七色に光って見えるわ」

 週に一度の交流で来るメアリーのお気に入りのカフェで、彼女はケーキを食べながらジェフリーを堪能している。そんな彼女を俺も遠慮なくじっと見つめている。いつも気づくと手つかずのコーヒーが冷めてしまっている。

 初回にカフェに来た時に、落ち着かずにコーヒーを早々に飲み切ってしまった。メアリーは自分の紅茶とケーキが残っていることを申し訳ないと言い、急いで食べようとしたり、俺にお代わりを勧めたりして気を遣わせてしまった。彼女にゆっくりしてもらうために、コーヒーは最後に一気に飲むようにしている。


 彼女も母と同じように、美しい物に目がないようだ。母の興味の対象は宝石やドレスだが、メアリーはガラス製品や陶磁器に目がないらしい。俺の顔立ちや白い肌や水色の髪や瞳を「陶磁器より美しい」と絶賛してくれる。俺なんかよりよほどメアリーの方が美しいと思うけど。


 彼女といる時間は心地よかった。

 元々の性格なのか、俺の性格を慮ってくれているのか、思ったことやしてほしいことを端的に伝えてくれた。歩くのが早いから、半分の速度に落としてほしいとか。

 それに、物事に関心がなく女性をエスコートするのに慣れていないジェフリーに自分から出かける先やしたいことを提案してくれる。もう習慣となっている、王都の大通り沿いにある緑豊かな公園の散策とオープンカフェでのお茶はメアリーの元々のお気に入りのコースだ。


 ふと手元のシャツのカフスピンが目に入る。埋め込まれた宝石は、メアリーの瞳に似た秋葡萄のように綺麗な紫色をしている。それをそっと撫でた。まだ婚約が決まって三ヶ月後のジェフリーの誕生日に贈られたものだ。


 メアリーはいつも無表情で口数の少ないジェフリーを理解しようとしてくれる。ちゃんと会話を重ねて、ジェフリーの意思を確認してくれる。見栄えより着け心地を重視するジェフリーのために、台座から二人で選んでオーダーメイドで作ったものだ。もちろん宝石はメアリーが自ら選んでくれた。


 ジェフリーだって普通の婚約者がお互いの色を身にまとうことくらい知っている。そうやって、相手への愛情や独占欲を示すということも。でも、自分がそれを体験することになるとは思わなかった。それを嬉しく思う日が来るなんて想像したこともない。


 メアリーにドレスや宝飾品を贈ったことは、まだない。でも、メアリーはいつもジェフリーの瞳や髪の色を思わせる水色のドレスを着ていた。その姿を見ると胸の奥がくすぐったくなる。メアリーの誕生日には水色の宝石の入ったアクセサリーを贈ると心に決めている。その日が来るのが楽しみだ。母の工房で作ってもらってもいいかもしれない。


 最近、ジェフリーは自分の気持ちを自覚した。


 彼女と一緒にいると心拍数が上がるし、体温も上がる。

 やたらと気分が上がって、ふわふわした心地になる。


 メアリーとの婚約者としての適切な距離がもどかしい。

 もっと近づきたい。首元に顔を寄せて爽やかで果物のような香りをもっと嗅ぎたい。濃い紫に艶めく髪をくしゃくしゃになるまで撫でて、彼女の頭を吸いたい。もっと近くであの美しい紫の瞳を見たい。彼女の小さいけど澄んでいて、よく通る声をずっと聞いていたい。


 自分がメアリーに対して思う気持ちを弟に打ち明けると、「兄様、それは愛だね。なんかちょっと変態チックだけど。吸いたいってなに? 猫じゃないんだから……」と言われた。弟の言葉はいつも軽いけど的を射ている。


 メアリーはジェフリーと婚約してから、どんどん魅力的になった。

 侯爵家で陶磁器好きがバレると母と意気投合し、母に気に入られたメアリーは社交界でも着々と人脈を築いているという。


 かつての彼女はジェフリーと同じようにあまり表情がなく、口数も少なかった。その美しさへの妬みも込めて"人形令嬢"なんて呼ばれていた。でも、俺の前でにこにこして話す彼女にその面影はない。


 ふいに胸元に石を詰められたような気持ちになる。

 メアリーは伯爵家を婿を取って継ぐ。元婚約者との婚約破棄の後、メアリーの美しさと爵位目当てに釣書が殺到していたらしいと父から聞いた。今のメアリーならジェフリーよりいい相手がいるのではないだろうか?

 相変わらず無表情で話すことが得意ではないジェフリーは彼女の夫として、次期伯爵として相応しいと言えるのだろうか?


 「君は誰とでも上手くやっていける気がする。本当に俺でいいのか? 俺が騎士を辞めて伯爵家に入ってしまったら、もう後戻りは出来ない」

 そんな暗い気持ちからついメアリーに問いかけてしまった。


 「私、幸せです。ジェフリー様と一緒にいる時間が好きです。ジェフリー様って陶磁器よりも美しいし、話していても話していなくても楽しいし」

 「君は俺といて楽しいのか?」

 「ええ、とっても。ジェフリー様ほどぴったりなお相手って、きっと見つからないと思います。それに、私の表情筋が動くようになったのはジェフリー様と婚約して、毎日が楽しいからだと思います」

 「そうか」

 「そうですよ。だから、なんの憂いもなく伯爵家にいらして下さいね」

 メアリーからの回答は泣きそうになるくらい嬉しいものだった。でも俺の表情筋はこんな時も仕事をしてくれない。

 これからも二人の穏やかで幸せな時間が続くことにほっとして、こんな俺でもいいといってくれるメアリーに心から感謝した。



◇◇


 

 ジェフリーに執着していた公爵令嬢は、俺以外の相手にも色々やらかしていたらしい。問題が大きくなり、ついに王命で帝国の三十三番目の側妃として嫁いでいった。これで俺の憂いはなにもなくなった。


 もうきっと、メアリーとの関係は盤石で壊れることはないと油断していたのかもしれない。


 結婚を一ヶ月後に控えたある日、二人で歌劇の鑑賞に出かけた。

 俺のあだ名の元となった歌劇『サイコパスな吸血男爵は虐げられた男爵令嬢に薔薇を捧ぐ』だ。


 血も涙もない冷酷な吸血鬼である男爵が、虐げられている健気で可憐な男爵令嬢に出会うことで変わっていくという王道のラブストーリーらしいのだが、俺にはさっぱり理解できなかった。まず、男爵が実は吸血鬼であるという設定がよくわからない。そこが理解できずにいるうちにどんどんストーリーが展開してついていけなくなった。唐突に挟まるコーラスシーンも余計な混乱を招く。途中から劇は諦めて、メアリーを鑑賞することにした。メアリーはちゃんと舞台に没入しているようで時折、目を潤ませたり、笑ったりしている。こちらを見ている方がよほど有意義だ。


 俺には理解できなかったけど、メアリーはそれなりに楽しめたようなので良かった。最近、結婚式やお披露目パーティーの準備に追われているので、いい気分転換になっただろう。


 浮かれ気分でいた時に、そいつが目に入った。元騎士だから目はいい。メアリーが気づいていないようなので、方向転換すべきか迷っている内にそいつは、ずかずかと距離を縮めてきた。

 一見して武器等は所持してないようなので、メアリーを庇えるよう構えながら事態を静観することにした。


 「よお、メアリー。お前も後悔しているだろう? 俺と婚約破棄して、"サイコパス令息"と婚約するはめになって」


 「なにをおっしゃっているの?」

 メアリーの元婚約者はにやにやとした笑いを浮かべて、全身ジェフリーの色に染まったメアリーを舐めるように見ている。その視線が不愉快で張り飛ばしたくなった。


 「今のお前だったら、もう一回婚約してやってもいいよ」


 「なにを言っているのか本当に理解に苦しむのですが。あなたとの婚約はあなたの瑕疵で、こちらから破棄しました。慰謝料の返済は滞っているようですが。それに、私は彼との婚約に満足しています。どこかの誰かさんと違って、不誠実なことはしないし、当主教育もお父様からお墨付きをいただいています」


 「今のお前なら、浮気なんてしないよ。婚約してる時は愛想も色気もなかったし、他の女に慰めてもらっても仕方ないだろう? 当主教育だって、お前が受けてるなら問題ないじゃないか」


 「お話になりませんね。本日のあなたの無礼な行いは伯爵家と侯爵家の連名で抗議しますわ。では」

 

 話が終わりそうなので、ジェフリーはほっとした。メアリーの元婚約者は気に食わないが、ジェフリーは口喧嘩には勝てない。肉弾戦であれば負ける気はしないのだが。


 「これまでだって、婚約することすらできなかった男だぞ。こんな気の利かない男より俺のがずっといい男じゃないか。こいつのことを次期伯爵としては認めていても、夫としては不足してるとお前だって思ってるだろ!!」


 「そうなのか?」

 黙って二人の会話を聞いていたが、元婚約者に核心を突かれて思わず話に割り込んでしまう。


 「いいえ」

 メアリーの綺麗な紫の瞳はまっすぐにジェフリーを見ていた。そのことにほっとする。


 「強がるなよ。"サイコパス令息"との婚約なんて破棄したいだろ?」


 「いいえ、私から婚約を破棄することはありません。わたし、ジェフリーを愛しているんです」

 

 「「え?」」

 ジェフリーと元婚約者の声が重なる。

 メアリーが、俺を、愛してる?


 「なぜ、ジェフリー様まで驚くんですか? 私の気持ちは伝わっていませんでしたか? だって、はっきり言わないとこの元婚約者(バカ)には伝わらないでしょう?」


 「でも、こいつは人の気持ちなんてわからなくて……」


 「ええ。確かに彼は場の空気を読んだり、人の気持ちを察することは苦手です」


 「そんな奴と結婚するなんて……」


 「でも、こちらの好意にあぐらをかいて、自分は従妹と浮気して、なにもしてくれない婚約者よりうんとマシです。確かにあなたの方が女心はよく分かっていて、女の扱いも上手なのでしょう。エスコートや贈り物は完璧だと評判だったものね。婚約者以外の女へのね。それに外見だけ比べたら、あなたなんてそこら辺の塵にも等しいわよ。鏡をもう一度よーく見た方がいいわ」


 「これからは態度を改めるよ。よそ見もしない。こいつより満足させてやるよ。お願いだ、メアリー。お前に見捨てられたら俺は終わりなんだよ」


 「そんなこと私の知ったことではないわ。ジェフリー様といると他に何もいらないくらい満たされてるの。あなたなんてお呼びじゃないのよ」


 「こんな無表情で人との会話が成り立たない男が貴族社会でやっていけるわけがないだろう?」


 「ジェフリー様が人とのやりとりが苦手な分は私がカバーするわ。ジェフリー様にだって得意なことがあるの。人を色眼鏡なしによく見ているし、知識も豊富。情報も貴族社会では立派な武器になるのよ。夫婦で補い合って伯爵家を盛り立てていくから、ご心配なく。それに、会話が成り立たないという意味ではあなたのほうが、よっぽどひどいわよ。これ以上自分の醜聞を広めてどうするの?」

 いつの間にか、三人の周りには物見高い貴族達の輪ができていた。ひそひそと聞こえてくるものは、元婚約者を非難する内容のものだ。


 「でも……」

 

 「ねぇ、あなたの方が伯爵家の当主として相応しいとでも思っているの? 伯爵家の血筋の妻をないがしろにして、入り婿の分際でどこに種を蒔いてくるかわからない男が」


 「それは……」


 「何度言えばいいのかしら? 彼は"サイコパス令息"なんて言われている。確かに人の機微にうとい。でも、それ以上に魅力があるのよ。私、彼に夢中なの」


 メアリーがジェフリーの腕に自分の腕を絡ませて体を寄せてきた。

 その温もりとジェフリーのためにメアリーが重ねてくれた言葉で体と心がいっぱいになって、溢れた。

 メアリーといると上がりっぱなしの体温はさらに上昇した。

 そして、気づくと頬を生温かいものが流れていた。


 ――これが、涙か。


 きっと俺の顔は真っ赤だし、生まれて初めて流す涙が止まらない。


 「それに彼の事をサイコパスって言うけど、私の気持ちなんておかまいなしで、傲慢で我儘で自分の事ばかり、あなたの方が彼よりよっぽどサイコパスじゃないの?」


 「お前……」

 元婚約者は公衆の面前で顔を真っ赤にして涙を流す情けない俺の姿を見て、驚いていた。周囲でこの騒ぎを遠巻きに見ていた貴族達からも戸惑いの声が漏れる。


 あれだけしつこくメアリーに縋り付いていたのに、「ああ」だか「うん」だか、なにかを呟きながら元婚約者は去って行った。

 


 「メアリー」

 恥ずかしくて照れくさくて、そして大事にしすぎて、今まで呼べなかった婚約者の名前を初めて口に出した。


 「なぁに?」

 俺の腕に体ごと絡まっているメアリーが澄んだ葡萄色の瞳で見上げてくる。今、君の瞳に映っているのは情けない姿の自分だろう。それでも、彼女はそんな俺に幻滅したりしないという確信がある。


 「ありがとう」

 万感の思いを込めていう。

 人間としての大事ななにかが欠落している俺を「愛してる」と言ってくれて。傍にいてくれて。あたたかい気持ちをくれて。


 彼女が目立つことが嫌いなのを俺は知っている。

 もちろん、元婚約者への怒りもあったと思う。でもきっと、俺の不安に気づいていて、それを払拭しようと元婚約者の未熟な部分を指摘し、俺への賛辞を人前で叫んでくれたのだろう。


 元婚約者と堂々と対峙した彼女は、凛々しくて格好良くて美しくて、とんでもなく愛おしい。


 こんな俺を理解してくれようとして、好きでいてくれて、ありがとう。

 急に湧き出した気持ちと涙が止まらない。

 ふふふっと楽しそうに笑いながら、彼女がハンカチを差し出した。固まって動けない俺の涙を、差し出したハンカチで拭いてくれる。ほら、メアリーはどんな俺だって受け入れてくれる。


 「メアリー」

 

 「なぁに?」

 

 「結婚してくれ」


 「はい、喜んで」

 メアリーは「結婚は一ヶ月後にするって決まってるわよ」だなんて無粋なことは言わない。

 この婚約は、周りのおぜん立てで整ったものだ。でも、今は俺自身が彼女と結婚したいと思った。彼女を誰にも取られたくない。その決意表明だった。

 きっと、そんな俺の気持ちもわかってくれているのだろう。

 彼女はなにもかもお見通しなのだから。


 きっともう、俺は"サイコパス令息"なんかじゃないんだろうな。

 そして、彼女は"人形令嬢"なんかじゃない。

 二人はただの相思相愛の普通の婚約者だ。

 

【end】