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第四話 衝撃の自分史

 ほんの八十ページ程度の本にしかならない原稿が来たので「楽チン♪」と思って封筒を開けた。だが、書類上は八十ページと書いてあるのに、原稿用紙の束をどう見ても五十ページに足りるか足りないかという分量しかない。

 パパッと読める分量なのでとりあえず読んでみた。それは、衝撃の自分史だった。


『私は鍛冶屋の父とそこに嫁いだ母の間に生まれた次女で、姉と兄の他にのちに妹が生まれた。母には農作業もあって学校には妹をおぶったまま通いました。父が大けがにて鍛冶屋ができなくなり代わって母が工場に勤めに出、父は失き左手に鍬をくくりつけて畑に出ました。兄が就職して姉が嫁いで私もお見合いをして嫁ぎました。』


 生まれて三行後にはもうお嫁に行ってるよ! いや、お父さん「大けが」ってあっさり書いてるけど左手の先がなくなるようなすごい事故だし!(鍬くくってるんだから腕は無事ってことだよね?)

 なお、「母には農作業もあって(、私は)学校には(まだ赤ちゃんの)妹をおぶったまま通った」というように、いくらか補足が必要らしい。でも意味はわかるけどね。こちらで修正させてもらおう。あ、それから、「次女」は「二女」に直しますよ。

 あと「です・ます」と「だ・である」が交じってるのでそれも直さないと。


『娘が生まれてしばらくすると戦争がはじまりました。』


 潔すぎる。「お見合いをして嫁ぎました。」の次はもう「娘が生まれて」で出産を書き流している。結婚や出産は、それだけで一冊の本が書けるくらい大きな出来事だと思うのだが……。


『左手のない父は赤紙は来ませんでしたが、夫には来たので舅姑と私と娘だけになった。舅は頑固な人でしたが姑は良くしてくれたので、焼け出された時には一家でお世話になりました。』


 わかりづらいが、後ろの部分も読んで意味を補うと、空襲で焼け出された著者の実家のご家族が著者の嫁ぎ先に逃げてきて、一家でお世話になったようだ。でもその前に、「嫁ぎました」のところで「舅と姑と同居だった」って書いておこうよ。ここで突然、舅姑が一緒に暮らしていたことが示されてびっくりしたよ。昔は当然だったのかもしれないけど。


『実家の者たちも畑を手伝うなどしてがんばったのですがなかなか行き先が見つからず、お舅さんがいつまでいるのかと言ったため家の中が険悪になったものの、そこへお舅さんへの召集令状が来たのです。お舅さんは戦死しました。』


 展開早っ! 即死だよ。


『戦争が終わっても、行方不明の夫の消息は知れなかった。』


 旦那さん、行方不明だったんだ。読者に教えておいてあげてよ。なお、戦争は七行だ。八行目には戦争終わってる。まあ生まれて四行後に結婚するよりはかかってるけど。

 私は不安になった。これでは、八十歳だという著者の「現在」に至るまでに、五ページもかからないのではないだろうか……。

 だが幸い、まだ原稿用紙の束はその先が長そうだ。


『結局嫁ぎ先に住み着いた我々はお舅さんの分もお姑さんに尽くした。お姑さんは夫を失い息子も行方不明で、居候でも我々がいてくれるのを喜んでくれました。』


 けっこう描写が入るようになってきた。なんか心温まる話だ。ただ、「住み着いた我々は」「居候でも我々が」ってなってるけど、嫁いだ著者はお姑さんの元々のちゃんとした家族であって、「住み着いた居候」は著者の「実家の人たち」だけね。そのへんの表現のミスは直さないとなあ。細かいけど、整理としてちゃんとすべきところ。


『戦争から二年も経って夫が帰ってきた。そろそろ再婚もと何度も言われていた矢先だったので驚きましたがうれしかったです。間もなく今度は息子も生まれ、お姑さんが一番に喜んでくれました。』


 矢先とか間もなくの使い方が微妙だが、長い長い自分の歴史を振り返ると、著者にしてみれば「ほんのちょっとの時間をおいて……」というくらいの感覚なのかもしれない。「今度は息子も生まれ」で思い出したが、娘さんがいたのはどうなったんだろう。確か「娘が生まれ」とあっさり書いてあったはずだが。と、思ったらすぐに衝撃の形で出てきた。


『そんな幸福な我が家を悲劇が襲ったのです。

 まだ幼い娘が伝染病で亡くなりました。私は乳飲み子の息子に病気をうつさないため娘に近づくことができず娘の死顔も見られませんでした。焼いた灰にさよならを言いました。』


 ここは、ものすごく短い文章なのに目頭が熱くなった。抑えた表現というのは、常に迫力がある。淡々と書いてきたのにここで「悲劇が襲った」と煽るような表現が出てくるのも、著者のめいっぱいの感情表現なのだろう。


『さらに悲しいことに、後を追うようにお姑さんが亡くなりました。娘の時も泣きましたが、それ以上に涙が止まらなかった。』


 とうとう涙をこらえきれなくなった。これしか書いてないのに。


『お姑さんは広いこの家を遺してくれたので私の家族と夫との暮らしになまった。やがて夫の様子がおかしいので問い詰めると、妹と出来ていたのです。家族会議で、妹は出ていくことになり、東京へ行ってしまいました。私は泣いて暮らした。』


 相変わらず簡単に言うなあ~。その顛末だけで一冊本になるって……。お昼のドラマもびっくりだ。


『妹はちゃんとしたところにお勤めしていたはずが夜の女になり、やがて何があったのか自殺してしまった。なきがらは、我が家へ帰ってきて、夫は俺のせいだと泣いてわびていました。遺された赤ん坊が我が家の一員となり男の子だったので次男ということで養子にした。』


 そんな事件があった妹さんの子を引き取るのは、葛藤もあっただろうに……。

 とにかく、そんな調子で淡々と筆は進んだ。

 それから旦那さんがいっとき失踪して、その間に著者の母親が認知症になって、旦那は帰ってきたものの、実の息子さん(長男)がそんな親に反発したために旦那さんは養子の息子さん(二男)のほうを可愛がるようになり、長男は中学卒業と同時に家を出て独立。やがて著者の父親が心筋梗塞で急死。その葬儀の後、養子の二男に実の親のことを告げたら二男は数日家出をしたが、長男に連れられて帰宅。家族でまたやり直そうと誓った直後に認知症の母親が死去。著者が脳梗塞を起こして火葬場で倒れて救急車で運ばれ、入院。だが思いがけず軽かったため片足のわずかな麻痺だけで済んだ。案外旦那さんが献身的で、感動。妹さんとデキてたとか言うからトンデモ夫かと思ったら、そうでもないらしい。

 二男が結婚。数年後に長男が結婚。著者は二男の嫁とそりが合わず、二男と疎遠に。長男の嫁とは上手くやっていたが、流産をきっかけに心を病んでしまったお嫁さんとどう向き合ったらいいか葛藤。このお嫁さんへの心配にはけっこう筆が尽くされていて、著者の人柄が忍ばれる。また、自分がお姑さんからよくしてもらったことをお嫁さんに返してあげたいという、お姑さんへの思いも感じられて泣かされた。

 流産を乗り越え、長男の家に第一子誕生。長男の嫁はすっかり明るくなる。

 だが、疎遠になっていた二男夫婦が、生まれて間もない息子とともに交通事故死。二男一家と距離を取ってしまった自分を責め、著者は死も考えて一人で旅に出る。新婚旅行でかつて訪れた勝浦の浜(著者の現在の住まいのすぐそばで、どれだけささやかな「新婚旅行」だったかがわかる)の宿のおかみが親身になって世話を焼いてくれ、自殺を思いとどまった。結局、旦那さんに連れられて家に帰る。

 この、旦那さんが迎えに来て帰るくだりがまた、淡々としているが胸に迫った。


『一人で帰るつもりだったけど、宿のおかみと名残を惜しんで振り向いたら夫がいた。いつ来たのと聞いたら少し前で話が終わるまで待とうと思ったと言った。夫が黙って荷物を持ってくれてタクシーで駅に向かった。夫は途中タクシーを止め海に寄り道して、少し二人で黙って海を見た。死ぬなんて馬鹿だと思いました。次男と嫁と孫にごめんと海に心で言った。』


 やがて長男の二人の子供たち(つまり著者の孫)もそれぞれに結婚。旦那さんはがんを患い、体力の許す限り著者と旅行に行くなどして思い出を残して、家族に囲まれて亡くなる。金婚式を迎えるわずか一週間前のことだった。

 そしてひ孫が生まれ、八十の誕生日を迎え、現在に至る――。

 計算してみたら、本にして五十六ページにしかならないことがわかった。

 八十年もの人生、それなりに波乱もあったのに、ここまで短い書きっぷりはむしろすごすぎる。契約上は八十ページなので、かなり増やさないといけない。著者も高齢だし、老眼の人にも読みやすいようにある程度大きめの文字で組版してページを稼がせてもらうとしても、二十ページ近く不足している。どうしたものか……。


 結局、「この事件のこういう部分を、具体的に教えてほしい」「このあたりの心境は?」「お兄さんとお姉さんがあまり出てこないので、何かしらの形で登場させましょう」などといろいろ取材をかけて補筆して、二十ページ増やしてちょうど八十ページの本に仕上げた。

 お見合いは渋々だったこと、それまで恋愛をしてこなかったこと、東京へ出ていった妹さんに一度会いに行って心ばかりのお金と衣類を置いてきたことなど、いろいろと加筆した。また、ほとんど登場しなかったお兄さんとお姉さんとはよく手紙のやり取りをしていて、二人とも著者の旦那さんの亡くなる前年に相次いで亡くなっていることもわかったので、それも加筆した。


「もう書けないわ」と言う著者に代わって、元の原稿の不親切なところを補筆し、聞き取り取材した内容を加筆して、短いものの、そこそこ分量も内容も過不足ない作品には仕上がったが……。

 本が出来上がって読み返した私は、あの山あり谷ありの八十年もの人生をギュギュッと五十六ページに描ききった著者の原稿の方が、未熟な筆ながらもずっとずっと名作だったなと、しみじみ感じたのだった……。

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