第二話 闘病記との闘い
この「流通する自費出版」では、けっこう闘病記というジャンルが意義深い。市井の人々が自らや家族の体験をありのままに書く、それをまた市井の人々が読んで参考にする。実体験であり当事者の生の声であるからこそ、新たに患者になった人やその家族の心に届く。今では図書館に闘病記を集めたコーナーができたり、病気ごとに関連書籍を集めた図書館までできたりしているらしい。
だが、本棚に並んでいる一般の人たちの声が、もしも原稿のまま読者に届いてしまったら、さぞかし困ったことになるだろう。
私はあるがん患者の手記を前に、またため息をついていた。
『私は、腹腔鏡の胆嚢全摘術を受けて、無事に終わって、がんの主病巣は一応全摘となった。術後、栄養摂取不良となり、看護士から静注点滴を受けた。不眠のため眠剤も出て薬剤名は、マイナートランキライザーで、私が、不安感も強そうなので、精神安定剤の役もする薬だ。』
今なお「看護士」と書く人が大勢いる。以前、「看護婦」という言葉が使われていた頃に男性の看護職を指す言葉が「看護士」だった。「保健婦助産婦看護婦法」から「保健師助産師看護師法」に法改正されたのに伴い、看護婦・看護士とも「看護師」に名称変更となったが、驚くことにニュースにまで今なお「看護士」の表記が散見される。
看護士一つでかなり愚痴ってしまったが、そんなのは一括変換をかければ済む話。あと文章も、読点が多すぎるが、こっちで整理すれば済む。素人の文章としてはましなほうだ。
だが、文章のノリが専門家気取りっぽいのはいかがなものか。
まず「栄養摂取不良」「静注点滴」という言葉を専門家が使うのを見たことがない。ノリで熟語にしたのだろう。素人さんが背伸びした感アリアリでとても残念に見える。
次に略語。「術後」はいいとして、「眠剤」「静注」は、言わばギョーカイ語だ。「睡眠剤」「静脈注射」と正しく書くべきだ。なお、現在は「睡眠剤」より「睡眠薬」が好ましい。この「眠剤」と「睡眠薬」の差が、現場で飛び交う言葉と「本」で使う言葉の違いだ。
「全摘術」はまあ許容だろう。だが「主病巣部が全摘となった」は「主な病巣部分はすべて取り除かれた」など、わかりやすく書くのが好ましい。全摘術で全摘となった、で表現が重複になるのを避けるためにも。
闘病記を書く人は、病気が重ければ重いほど「医療について、今、自分がいかに詳しいか」ということを自慢したい傾向がある。薬品名をやたら出したがったり、病名をかえってわかりづらい正式名称で書いたり、ただの脱脂綿を看護師の言ったとおりに「ワッテ」と書いてみたり。だが、病院で入院中に聞いたその「用語」は、「正しい日本語」として本に書かれるには値しない言葉が多い。さらには、特定の仲間内だけの特殊な言葉のこともある。「慣用として使われているものの、正確な言葉はまた別」という言葉がたくさんあるのが「業界語」だ。
一般人の原稿が「しょせん」一般人だなと思うのは、消費者たる「読者」が読んでどうなのか……という観点が欠落していることだ。「私が何を言いたいか」だけ考えて、読者には意味不明でも、「なんか専門家みたいなこと」を書けたことに自己満足してしまう。
原稿に「薬剤名」が「マイナートランキライザー」とあるが、これはさっそく誤り。「マイナートランキライザー」は「弱めの精神安定剤」と言っているだけ。「処方された薬剤名は『頭痛薬』というものでした」みたいなヘンテコな文章だ。
患者として病院で医療関係者の会話を聞きかじると、内輪言葉やギョーカイ語など、一般に通用しないボキャブラリー(語彙)が増えていく。それも「聞きかじり」であって、正しく理解していないことも多々ある。人におしゃべりするならどうだっていいが、「出版」になると大いによろしくない。生命にかかわる医療のことについて、誤ったこと、誤解を生じかねないことを書いて、読者が不利益をこうむったら、それはその書籍の責任になる。文章が下手なせいで誤解を生むことも、責任を免れるものではない。
でも、「読者に伝わらないから正しく書きましょう」と作者に言っても、「看護師さんはそう言ってました」「臨場感がなくなっちゃうじゃないですか」という抗弁を受けることがある。じゃあ、アンタに出版用語や印刷用語バリバリで今後の説明をしちゃろうかい。「デザインカンプとデジコンの色がずれてるからもう一枚色調整のコンセ出しましょうか」とか言ってわかるのか!
読者はその現場にいたわけではない。医療のプロでも通でもない。だから、略語や俗語、通称や業界用語は、作品中でむやみに使ってはいけない。「臨場感」は別の形で出してもらわないと困る。
ひとしきり興奮して頭の中で作者に向かってバーチャルな説教をした私は、次の段落に進んだ。
『私の不安が強いのは、術後の見舞いで、週に一度来ていたある人が、無神経な発言を繰り返したせいだったのである。何を発言したかは、ここでは、そのある人の名誉のために、あえて書かないが、それで私は、すっかり気持ちが落ち込み、薬物投与を受ける羽目になったのである。こんな、つらい手術を受けた後に、なぜ、あそこまで言われなければならないのか。しかも、繰り返し繰り返し繰り返し……だ。本当に、耐え難かったのである。』
「繰り返し」の繰り返しや、「のである」「のである」と同じ文末が続いてしまっているあたりに感情がほとばしっている。だが、しかし、怒りを読者にぶつけてもしょうがない。「本人の名誉のため」とか言って一応「ある人」本人に気を遣うのはいいが、その結果「何をされたのか、何を言われたのか」といったことをまるで読者に説明することなく、作中で延々と怒り散らされても困る。本として、読んでいてまったく意味がない。
そして、他の箇所に「会社の同じ部署のある人は毎週見舞いに来ていた」という記述があり、他にそういう人が書かれていないことから、「ある人」がこの会社の人のことだと容易に推測できる。一般の読者には意味不明、周囲の人や当人にはモロバレという、まさに最悪の状態。「本に悪口を書いた」などと騒動になりかねない。
自身の体験を本にする場合、人への非難を無難に書きたいならば、黄金の必殺技がある。「こんなふうに言われて、私はびっくりした」と至極無邪気に「驚いてみせる」のである。
幸い、著者と顔合わせをした時にこのへんの話を具体的に聞いていたので、思い出しつつ書き直し文例を作った。さきの原稿は、こう直せば、さりげなく当事者を非難できる。
『入院中、見舞いに来てくれた人が何気なく言った言葉に私はびっくりした。
「手術のついでに、お腹の脂肪も取ればよかったのに」
確かに私はちょっと太めだが、がんの手術を受けるのは重大な出来事だったので、そんな風に笑うような発想はなかった。健康な人の明るい冗談をうらやみ、自分の境遇が悲しくなった。
その「脂肪除去」の冗談は何度か繰り返され、はじめは笑っていた私もだんだん笑えなくなっていった。無邪気なことを言える人がうらやましかった。気分が落ち込んで繰り返しカウンセリングを受け、薬の投与も受けた。私は神経質になっていた。』
相手の言葉がどうこうではなく、それを聞いて「私はびっくりして、自分が神経質になっていたせいで、こんな羽目に陥っちゃったよ」と言っているだけ。原稿のような、「~のせい」「~羽目になった」「なぜ~されなければならないのか」「耐え難い」など、指摘や非難の語句は避ける。私が何を言いたいか……ではなく、読者が「がんの人に脂肪除去なんて、ひどい冗談だなあ」と思ってくれればいい。
なお、出版後の当事者とのトラブルの避け方もちゃんと文中に仕込んである。特定の人を指すような呼称は避け、「見舞い客」のような超・漠然とした表現にすること。あとは実際に言われた言い回しとはちょっと文章を変えておくこと。
これを逆手に取り、当事者から「ここに書いてあるのは私のことでしょう」と言われたら、「えっ、あなた『も』そんなこと言ったっけ?」と驚いてみせるといい。他の人だと言われてなおも「いや、私がこのようなひどいことを言いましたよ」と自己主張する人はいない。しかも、セリフが変えてあるので、「私はそういう言い方はしなかったよな」「じゃあ、他の人のことかも」と腰が引けることだろう。まあ、相手が超非常識でまともな感性を持ち合わせていない人であれば、そもそもこのエピソードを書くことじたい、あきらめるべきだが。
かように、他人への非難を本の中で述べるのには技術が駆使されなければならない。そのノウハウを持っているのが編集者だ。「原稿が編集を通る」というのは浄水器を通すのに似ている。読者が読んで不快になるような作者の負の感情、あるいは書籍自身や作者が社会的不利益をこうむるうかつな記述、そういう「毒」「害」を抜いて、作品が本来届けるべき思いや意図だけが届くようにするのである。
作中に批判や悪口をじかに書き込んだら負けだ。どんなに相手が悪くても、読者は作者の負の感情を敏感に感じ取り、そこから作品や作者への反発が生まれてしまう。
私はさらに読み進んだ。
『退院してから、インターネットで、私の病気のことを、いろいろ調べてみた。すると、驚くことがわかった。私は、手術をする必要がなかったらしい。いくつも、切らずに治したという体験談が載っていた。もちろん、不思議なキノコや、粉末で治ったとかいう、怪しいものではない。ちゃんと病院で、治療を受けた人の、ちゃんとした体験談だ。
私よりも腫瘍がずっと大きかった人も、薬物投与の治療と放射線で治ったらしかった。私は医者に言われるままに切って、いや切られてしまった。他にも、摘出せずに済んだという人の、体験がネット上にたくさん載っていた』
めまいがした。インターネットは玉石混交、その道の権威も知ったかぶりの素人も、同じ土俵で情報を発信している。まるっきり間違っている記事もあるし、人を騙して喜ぶ不逞の輩の記事もあるかもしれない。
医療ミス、医療過誤などという言葉がマスコミに踊る昨今だが、やはり医師たるもの、我々素人とは知識の量、経験の量が違う。医師にミスがないとは言わないが、ネット上に転がっているウソやミスや知ったかぶりの分量の膨大さに比べたら、微々たるものだ。
正しいかそうでないかを判断する「番人」がいないインターネットでは、そうしたミスがノーチェックで垂れ流される。よく「ネットがあれば本は要らない」と言う人がいるが、大きな間違いだ。出版社や新聞社は、内容を取捨選択し、できうるかぎり正しい形にして情報を発信する。そうしたフィルターを通さない情報には多数のゴミが混じっている。むしろゴミのほうが多いかもしれない。
根拠とした資料が正しくなかったとき、ネットならその場で記事を削除すれば済むが、売れてしまった本を消去することはできない。ネットと書籍では、負っている責任の重さが桁違いなのである。
前職で担当したお医者さんが嘆いていた。
「今は、インターネットで変な知識をつけてくる患者さんが増えて、正しい治療を勧めても『ネットにはそう書いてなかった』『ネットに載っていた別の治療法のほうがいい』と聞き入れない人がいます。ネットの情報がどれだけ医療の現場の足を引っ張っているか……」
闘病記の原稿には、「インターネットでこう書いてあったのを見た」というだけで、それを「絶対に正しい真実」として書いてしまったものが多々ある。怖いことだ。この原稿のように、「ネットで読んでこうだったから、私は手術の必要はなかった」と書いたものがそのまま出版されてはいけない。このあたりのくだりは、状況を説明して、きちんと理解してもらわなければ……。
でもね、愚痴になってしまうのだけれど……。
最近はこの「フィルター」の役割を軽んずる、あるいはそういう役割があることすら知らない編集者が増えたのよね……。いかに金をかけずに「本」という外形を作り上げるか、そういう、コストとハード面にしか目が行かない編集……。
私は、編集者として経験十分とはまだまだ言えないけれど、持つべき意識と身につけるべきノウハウについて、最低限の意義は理解している編集者だと思うなあ。こういう人がハケンでしか働けない今の社会って、どうなのかしら。なのに、社会に害を垂れ流すことに無自覚で、日本語もおぼつかない人が正社員の編集者だったりするからね。競争社会って、正当な評価の仕組みが構築されてこそ意味があると思うんだけど、一部の本当にすごい人を除いてクソもミソも運次第なこの「競争」環境、どうなのかしら。
私が退職した出版社で、「あいつには仕事を振っても無駄」とみんなにあきれられていた人がまだ正社員をやっているらしい。彼は仕事があまり任されないからのうのうと残っていて、優秀な人に仕事がどんどん集中して過労になって辞めちゃってるのよね。悲しいけど、これが今の日本の現実だ……。ま、仕事があるだけいいと思うしかないか。
すっかり話がそれてしまったけれど、この闘病記、どうしたらいいだろうか。
ネットにこんなことが書いてあったから私の治療はどうだ、こうだ……という記述を片っ端から削除していったら、原稿が三分の一くらい減ってしまう。契約どおりの本を作らないといけないから、なんとか分量が減らないように工夫しなければ……。
私は原稿を前に、また頭を抱えるのであった。