第十話 謎の丸投げおじさん
「はあ、あとは全部おまかせしますんで、こちらからは何も言いません、適当にやってください。本になれば満足ですから」
それだけ言うと、ていねいな挨拶が繰り返されて電話は切れた。
来たな、「丸投げ系」の人。
繰り返して説明すると、我らが「蕾花社」の事業は、作家でない一般の人たちに対して原稿募集を行い、自費出版の形で書籍を制作して、書籍流通網にのせることである。弱小出版社のため、出版料金は格安に設定されているが、その料金は百万円を超えるのが普通。決して安い買い物ではない。
だが、そんな「安くない買い物」をしておいて、大事な原稿を「あとはよろしく」と放置する人がまれにいる。金が有り余って使いきれないわけでもなく、「年金暮らしでしんどいんだけど、人生に一度は出版するのが夢だったから……」とか言ってなけなしのお金を出して契約したはずなのに、「じゃ、僕はこれで」みたいな感じで編集者に丸投げしてしまうのだ。信じられない。勿体ない。
中には「あとは任せます」と言っておいて実際にゲラが出てからいろいろ文句を言う人もいるのだが、大半の「丸投げ系」の人は本当に放置プレイになる。
原稿に目を通してみると、漫然と「自然を守ろう」「子供たちには優しく」「故郷を大事にしよう」みたいな、ほのぼのしてはいるものの内容の薄いエッセイが三十編も並んでいた。しかもほぼその三つのスローガンに要約されるような内容なので、あれもこれも似たような話ばかりだった。
中でも「自然を守ろう」系のエッセイのうちの四つはほぼ同じ内容で、例に挙げている話も同じ。子供の頃に池にひざまで入ってザリガニを獲った話が大同小異な感じで四作に毎回書かれているのは、やっぱりちょっと……。そしてその四つのエッセイ、締めの言葉がそれぞれ、こんな感じ。文がちょっと変なのは、原文ママなのでご愛嬌。
『そうやはり子供時代の、あの温かく懐かしき自然は何物に代えがたい。子や孫の代もあういった豊かな遊び場を残したげたいと思う次第である。』
『子供時代の豊かな自然は万物に代えがたく、子孫に残したいと思う次第。』
『懐かしき自然の記憶は子や孫の代もあの豊かな遊び場を残したいと思う。』
『あの子供時代の、大いなる自然。子や孫にもああした豊かな遊び場を残してあげたい、そと思っている。』
丸投げ系の人ではあっても、「後からクレーマー」だといけないので丁寧におうかがいを立てる必要がある。私はこの四つのエッセイを一つにまとめ、著者に送ってみた。
読んでくれた頃に電話をしようと思っていたら、投函した翌日、著者がソッコー電話をくれた。
「ご主旨は理解しました。好きなようにやってください」
「あ……えっと、書き直されたエッセイ、大丈夫そうでしょうか? おのおの五ページ前後あったエッセイを、まとめて全部で五ページの一編にしちゃったので、かなり分量が減っていますが……。内容じたいは、重複を省いた程度なので、あまり変わっていないつもりです。でも、元の構成とはまったく変わっていますから……」
「ああ、おたよりは読みましたが、直していただいたのは、見ていないんですよ。多分僕、おんなじようなこと、書いていますからね。まあ、適当にやってください。信用してますんで」
簡単に信用しすぎだよ! せめて、直した文章を読んでから「これなら大丈夫」って信用しようよ! 読んでないけど信用します……って、大丈夫なの!?
「他の文章も、上手いこと、よきにはからっていただければ、それで満足ですから」
著者はそう言って、また、丁寧なあいさつとともに電話は切れた。
言っておくが……この業界、信用しちゃダメなんだぞ。最大手のBG社は質実剛健でどこを取っても力があるし、うち蕾花社は弱小ながらも「いい本を作ろう」という編集をやらせてもらえている。でも、尻馬に乗ってノウハウもないのにこの業態に乗り出して、詐欺まがいの勧誘をしたあげく驚愕のクソ本を作ったりしている会社がごまんとあるのを私は知っている。これでも、編集者がそれなりに原稿を磨く時間が設けられている蕾花社は、「よっぽどマシ」な自費出版会社だ。
ひどい場合は、素人がパソコンのワープロソフトで「それっぽいもの」を作って、印刷の代わりにコピーするような複製をして、製本だけはきれいにやって外見を整えるようなところまである。これを「出版」なんてとうてい言えないのに、相手が一般人、出版の素人なのをいいことに、ISBNコードだけ付けたからハイ「出版」です、と言ってウチの蕾花社くらいの金を取っていたりする。
時々、「次はよそに頼んでみたんだけど、蕾花社さんみたいに、原稿を良くはしてもらえなかったわ」と言って当社に戻ってくる人がいる。聞いてみると、用字用語の統一程度の基本的な編集もしないどころか、文法のミスや誤字脱字まで垂れ流しなんてこともざらのようだ。ある人は、「章分け」だけやって「編集しました」と言われ、文章じたいは手つかずのまま、誤りなども直されることなく本になったと言っていた。「誤字脱字、間違いだらけで、えらい、恥をかいてしまいました」と笑っていたが、どれだけ傷ついたことだろう。実際にその本を見せてもらったら、装丁も「文字を入れただけ」みたいなひどいもので、帯文は「六十歳、渾身の作」の一行だけ。還暦記念に出版する作品をこんなものに仕上げるなんて、著者に代わってこの某社に殴り込んでやろうかと思った。蕾花社で作り直してあげたい。
愚痴と、最後は怒りの思い出話になってしまったが、これがこの業界の現実。「丸投げ」なんて、絶対ダメだ。業界の者だからこそ、声を大にして言いたい。
この、大変人柄の良い丸投げおじさんの作品は、がっつり要約していくと、「エッセイ三十編・百五十ページ」のはずが「エッセイ十編・八十ページ」になってしまう勢いなので、そんなに気にならない程度の重複はいいことにした。しかし、そっくり同じ文章が出てくるのをいくつか見つけて直したが、一体どういう原稿の書き方をしているんだろう。自分の文章をコピー&ペーストして使っているわけでもあるまいに……。
あまりに見え見えな重複はさすがに削ったので、分量はやっぱり減ってくる。契約上、百五十ページ前後にはならないとまずいのだが、どうがんばっても百十六ページにしかならない。ページが減ると「その分、値段を下げろ」と言われてしまうことがあるので、なんとか百四十ページは超える量にしたい。組版をゆるめにして、改行を多めにしたが、百二十八ページにするのがやっとだった。
もはやお手上げ。仕方なく、著者に相談することにした。
「まったく同じ文章や、ほぼ同じ文章を削ったので、けっこう減っているんです。新たに執筆されたエッセイがあれば追加できますし、『はじめに』や『あとがき』といったものも書いてはいかがでしょうか?」
そう、本作、いきなりエッセイがはじまって、最後のエッセイのあとはすぐに「奥付」になっている。小説の場合「あとがき」はない方がいいと思っているのだが(たいがい、アマチュア物書きはあまり良いあとがきを書かないので)、エッセイは「あとがき」があったほうが締まることが多々ある。本作も、漫然とスローガンを語っているような内容なので、あとがきで多少締められれば……と思ったりする。
「いやあ……それだけ書くのが精一杯でした。もう無理です。今のそれで十分です」
それだとページが減って、契約条件と違ってきちゃうからこっちが困るのよ~。
「せめて、あとがきだけでもいかがですか? この本を出版するに当たっての思いとか、作品の総括とか……」
「何を書いていいのか想像もつかないので、おまかせします。必要なら、あとがきを書いて、つけておいてください」
なんじゃそりゃ。丸投げにも程がある。私が勝手に書いた「あとがき」がまことしやかに入っていて、自分の本として納得いくのかい?
「そんな、私が勝手に書くのは適切でないので……」
断っちゃったけど、さあ困ったぞ、ページが増やせないとなると、あとは……
もう他に方法が考えつかないので、恐る恐る、正直に切り出してみた。
「実はその……、契約上、百五十ページ前後のお約束となっているんですが、このままだと百二十八ページで終わってしまうんですね。でも、あの、後からの返金は応じられない形になっているので……」
しまった、声が消え入りそうになってしまった。ちゃんと説明しなくては。
「あと二十ページ分、もったいないので、何か収載できればと……。その、減ってしまっても、原稿の量に応じて編集作業も発生するため、今の料金のまま、ページだけ少なくなってしまうものですから……」
冷や汗だくだく。「ページを減らしすぎて、金を返せと言われる」というのは、当社編集部最大のNGだ。もう売上は計上されている。ここを目減りさせることは相成らぬと、きつく会社に言われている。しかも、ほんとに、言い訳をさせてもらうなら、百五十ページ分の原稿の編集をちゃんとやったからページが減ったのであって、「ほぼ同じようなエッセイが何度も載っている」というぐだぐだの本を作ればページは減らないのだ。見積もりが間違っていたならともかく、「より良い本」を作ろうとしてページが減った分を「金返せ」と言われると、「だったら原稿通りの垂れ流しでいいや」という編集をするしかなくなるので、えっと……
「ああ、百二十……いくつですか、それでいいですよ」
え、あ、はい。へ?
「お恥ずかしい原稿ですからね、いろいろ差し支えもあると思います。すみませんね、気を遣わせちゃってね。百ページでも、八十ページでも、減ったらそれでいいです」
仏かアンタは。必死で脳内言い訳をしていた私を尻目に、著者はあっさりと「お恥ずかしい」を連呼して、さんざん詫びたうえに電話を切った。
いや、でも。ありがとう。はっきり言いましょう。
「よかった、良い本になりますよ!」
ひどい重複は削って、邪魔にならない程度に多少繰り返しになっても言いたいことは主張して、もちろん原稿が平板な分はフォローできないけど、それなりに主義主張がわかりやすく、かつしみじみ読める本になると思う。
なんか偉そうになっちゃうけど、丸投げ先が蕾花社でよかったね。分量が減った分は、あくまで「読みやすく」なった分。よかったよかった!!
その後、カバーデザインや帯についても、この丸投げおじさんは「お任せします」を貫いた。
「カバーデザインのご要望は」
「いや~、お任せします、なんもないです」
このやりとりから、どういうデザインを起こせばいいのだろう。「自然を大事に」みたいな漠然とした内容の本だし……。帯文も、案を3つも作って送った返事が「一番いいのにしてください」。カバーと帯のデザイン案を送ってみた途端、一転、「こんなのを作って!」とか怒られたらどうしようかと思った。でもやっぱり、案の定と言えばそうなんだけど、
「これでいいです。ありがとうございます。よきに計らって、進めてください」
それでおしまい。
「変えたいところなど、あれば対応できますが……」
「いやあ、そちらの会社さんで良いと思われたら、それでいいので」
アンタの本じゃろが。
そして著者校正にはまったく赤字が入っておらず、「すべて一切をお任せします。よろしくお願いします。」と書いてハンコが押してあった。
なんか、やる気がないのかなあ。ホントに出版したいのかなあ。もしや、何か、他の目的があって……? 疑心暗鬼は募る一方。
そして書籍が完成して、印刷所から著者に送付され、手元に届いた頃になっても特にリアクションはなかった。開き直ればいいものを、私は「大丈夫だろうか」「実は不満だったりするんじゃないか」など、うじうじと心配していた。
やがて発売も間近になった頃、著者から電話があった。
「知人に配ったり、宣伝したりして、いろんな問い合わせをもらってるんだけど、書店はどこで注文できますか。インターネットの書店では買えますか。発売日は、正確には何日になりますか。発売の何日前から注文できますか」
あれやこれやと、質問の嵐。私は一つ一つに丁寧に答えつつ、内心では「??????」とひたすら「?」を繰り返していた。
めっちゃ、楽しみにしとるやん。
こんなに楽しみにしてるのに、なんで「全部お任せ」「よきにはからって」「そちらが良ければ、いいです」だったんだろう。こうしたいああしたい、あれもこれも……って、なるよね、普通? もちろん、私がすごく優秀な編集者で、文句なしに作ってくれそうだったから……というならいいのかもしれないけど、編集案、「見てない」って言ってたよね。もしかして、校正ゲラすら見ていない……なんてこともありえるよね。
でもなぜか、こういう人は時々いる。
私はただひたすら、こういう善良な「丸投げ系の人」が出版を依頼する先が、BG社や蕾花社のような、いい本を作ろうとしている自費出版会社であってほしいと願うばかりである。同列に称しちゃったら、BG社さんから叱られるかな。