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第一話 霊感屋敷の死体

 世の中、作家になりたい人が多すぎる――。


『私が下を見ると、そこに死体がばったり倒れていた。思わず悲鳴がしたが、すぐに口を押さえた。死体はすごい血糊で床にまで流れ、私は一瞬踵を返して逃げていった。』


 ため息を一つついて、私は赤ペンを置いた。この、至極微妙な日本語のズレをどうしたものだろう。


 私は、某出版社で編集者をやっている。そう言うとちょっとだけ格好いいが、実際のところは作家でない一般人を相手に「上等の自費出版」を作っているにすぎない。一般の人が本を出し、それを書店に流通させるのだが、その際に作者のご機嫌を損ねない程度に真っ当なものに直させてもらっているのを、一丁前に「編集の仕事」と言っているわけだ。

 正直、好きでこの仕事をやっているわけじゃない。前に勤めていた出版社で過労死させられそうになり、やむなく退職して逃げ出したところ、三十女には正社員の職などなく、派遣社員になった結果この会社に送り込まれてきた。最初、聞いたこともない出版社だったのでピンとこなかったが、「本の門社」と同じ業態だと聞いてやっと理解した。

「本の門社」というのは、この「書店に流通する自費出版」の業界最大手だ。うちの会社(派遣先)では、ここのことを「BOOK‘S(本の)・GATE(門)社」→「BG社」と隠語で呼んでいる。以降、本作でも本の門社のことは「BG社」と書きならわす。

 最初は、そのBG社のビジネスモデルを「素人をおだてて自費出版契約を結んで制作費をむしり取り、愚にもつかない作品を書店に並べて、読者にろくでもないものを売りつける悪徳商法」だと思っていた。今でもそう思っている人は多いのだが、私はちょっと認識を改めた。

 実際BG社は作家を何人も輩出している。他の出版社がダメ出しをした未熟な書き手をけっこう無理やり世に出して、作家稼業をできるレベルにまで(結果的に)育ててしまった。結果オーライだとか、偶然だとか、いろいろ言うことはできるのだが、それで育った作家が何人もいるとなれば、「そういう育て方もある」ということだ。

 私が以前いたのはいわゆる「大手有名出版社」だが、「すでにパーフェクトに書ける、しかも売れそうなネタを持ってくる書き手」でなければ新人なんて相手にしなかった。そこに「育てる」なんて言葉は存在しない。人の才能の尻馬に乗るだけだ。

 最初、BG社の「文化を育て、書き手を育てる」というキャッチフレーズを聞いたときは失笑したが、結果的に今、出版界で作家を一から育てる役割を担っているのはこの業態だけ――と言ったら言いすぎだが、そのくらいに、どこもリスクを取らない状況なのを私は知っている。

 で、私の派遣先である蕾花社らいかしゃもそれと同じ「自費出版を流通にのせていっぱしの出版の形にしてあげる」という仕事をやっているのだが、あちらさんのように何百何千という応募が来るような会社ではないので、作品を送ってきた人全員に「あなたの作品は素晴らしい、ぜひ出版を」と持ちかけている始末だ。月平均五十ほどの原稿応募があり、その全員に声をかけるものの、かなり高額になる出版費用がポンと出せる人は少ない。月十冊出版するのが目標なのだが、まずそこまで出版契約が取れることはない。

 全員に声をかけるのだから、出版される原稿のレベルも推して知るべし。編集者は日々トンデモ作品とばかり対峙することになる。その一つが、さきほどの原稿だ。私はまた、同じ文章に目を落とす。


『私が下を見ると、そこに死体がばったり倒れていた。思わず悲鳴がしたが、すぐに口を押さえた。死体はすごい血糊で床にまで流れ、私は一瞬踵を返して逃げていった。』


「下を見ると」はどのくらい下なんだ。手もとを見るのも、足もとを見るのも、階下を見るのも、高層ビルから地上を見るのも、距離こそ違え全部「下を見る」だ。言葉の選び方が雑。前後の状況から、ここは「足もと」くらいの「下」だろう。

 それに、死体は「ばったり倒れ」ない。人がばったり倒れてやがて死体になるのであって……いや、死んでからばたっと倒れたかもしれないが、特殊な状況下でなければ、死体については「ばったり倒れる」とは表現しない。でも、この、「日本語は、普通はそうは言わない」というのが作者に対してうまく説明できない。しかもたいがい、こういう文を平気で書く人に、そんなことは伝わりっこない。

「思わず悲鳴がした」というのも何だろう。次の文章からすると、「思わず自分の口から悲鳴が漏れた」と解釈するのだろうけれど、「悲鳴がした」というのは、百歩譲って「悲鳴が聞こえた」という意味だ。自分が悲鳴を上げることをそうは言わない。

「血糊」の意味も取り違えている。血糊は「べったり」というやつで、床に流れるほどの流血は「糊」ではないし、そもそもこの文の主語は「死体は」なのだから、「死体は床にまで流れ」になってしまうじゃないか。さらに言うと、この「すごい」は口語であって、小説の文章としては適切でない。だが、こんな文章を書いていても、作者は「踵を返す」という日本語は知っている。だからタチが悪い。

 でも、「一瞬、踵を返して逃げていった」って……。踵を返したら回れ右の動作分の時間がかかるし、「逃げていった」もしばらく継続する動作だから、それら一連の行動は「一瞬」では終わらない。「一瞬」という言葉の意味をまるで無視している。だがこれも、「なんか、ぱっと動いた」というのを全部「一瞬」で書く人が大変多い。

「私は逃げ出した」じゃなくて「逃げていった」で締めくくっているのも困ったものだ。「私」の視点で書いていたはずが、視線の向け方が「私」を見ている誰かの視点になっている。死体目線か。「あれ~主人公さん逃げていったよ」みたいな。

 さらに細かいことを言うと、真ん中に読点を打った、ふた区切りの文章が三つも並んでいる。この単調な文章の書き方がますます文章を未熟に見せるんだ。

 この人に文法の齟齬を指摘して国語教室をやってあげても、とうてい真っ当な文章が書けるようにはならないだろう。時々、自分で勝手に伸びる人がいるので、そうなってくれることを祈ろう。書面で「ちょっとだけ変だから、ほんとにちょっとだけ、直させてね」と提案して、全面的に書き直させてもらおう。


 ところどころ文法的に噛み合いが悪くなっている部分があるので、できれば全体を、こんな感じで一度直させていただきたいのですが……いかがでしょうか? 例としては、こんな感じです。

『私が足もとを見ると、そこに死体が横たわっていた。思わず悲鳴がほとばしったが、すぐに口もとを押さえた。死体からは床にまで血が流れ、私は瞬時に踵を返して逃げだした。』

 あと、全部真ん中に「、」が打たれてふた区切りの文章になって、同じ調子になってしまっているので、「、」をどこか取るか増やすか、あるいは文章を区切ってはどうでしょう。


 そんな提案を送って数日後、メールが入っていた。


 編集さんの意図はすごいわかりますが、やっぱ私の文章は私らしくないとダメだと思います。死体の倒れてる「ばったり」てゆうのがカットされてて、死体の倒れた重さや存在感です。「すごい血糊」もすごい重要なところで、死体の衝撃度のところとかが理解されなくてすいませんけどちょっと、でした。文法とか大事ってわかってますよ。だけど小説は応用だと思います。文学って、そうじゃないと思います。間違いは直せますが、私の意味はわかって直してほしいです。


「間違いは直してほしい」って……まさにそれを直したんだけどなあ。しかも、元のままだと文がおかしくて稚拙で、書店に並べるにはどうなのって感じなんだけど……。

 勝手に書き換えるのは著作者人格権の侵害だ。修正を断られてしまったら、ある程度作者の間違いを「創作意図」「文学的表現」として残すしかない。ちゃんと手を入れて、それなりのレベルにはしてあげたかったのだが……。こういうときは「手がかからなくてラッキー」と思うしかない。

 我が蕾花社では、「作品を良くするために、作者と徹底的に討論する」なんてのはタブーだ。これで作者がヘソを曲げて、「やっぱり出版をやめる」と言いだしたら大変。手紙で指摘した時点ですでに気を悪くしているだろうから、うまいこと機嫌を直してもらおう。

 このまんまの作品が、小説と称して世に出てしまうのか……。編集担当者として、こんなに切ないことはない。でも、それが私の仕事なのだから仕方ない。せめてBG社のように原稿がたんと集まれば、ひどいものはふるい落とせるだろうが……。

 蕾花社の編集部は三人しかいない。編集長(正社員のおじさん)と派遣編集者二人だけだ。社の全部の従業員を合わせても十二人しかいない。こんな弱小の会社では、お金を出して本を出そうという作者、すなわちスポンサーが神様だ。選ぶ余地なんてない。

 結局、その作品は『霊感屋敷の死体』というタイトルで、ほぼ原文のまま出版された。なんだ『霊感屋敷』って。屋敷に霊感があるのか。だいいち、本文に『霊感』という言葉は一回だけ、しかも「私、霊感ないから大丈夫」ってセリフでしか出てこないのに。

 ――ホントに、世の中には安易に作家になりたがる人が多すぎる。

 次の日、私はまた、別のトンデモ原稿を前にため息をつくのであった。

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