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過去との別れ

 大騒ぎの中で終わった馬上槍試合から王宮へ帰ると、王太子は執務室へは戻らず、私を連れてある場所に向かった。

 彼は王宮の主要な建物群を通り過ぎ、普段は来ないような奥まで、どんどん進んだ。一日中、槍試合の会場にいたのでお互い、疲れ切っているはずなのに。

 前を歩く王太子のブーツは砂埃で汚れているし、既にマントの裾も汚れ、くたびれている。


「殿下、どちらに向かっているのですか?」

「二人で大事な話がしたいんだ。一緒に来て欲しい」


 私たちは王宮の北東の端までやってきた。王太子は止まらず、暗くてジメジメした小さな林の中に入っていく。

 林を抜けた所には、小さな石造りの灰色の建物が立っていた。――その奥はもう、城壁だ。


(ここに来たことがある。ここは、確かあの…)


 灰色の石を組み上げた分厚い城壁を見上げると、大きなかんぬきの下りた重そうな木の扉がある。かつてあの向こうから、民衆の怒号が飛んできていたのを、私は知っている。

 思わず不安になって、隣に立つ王太子に問いかける。


「殿下? なぜここへ?」


 無言で手を引いたまま私をここまで連れてくると、王太子は侘しい灰色の建物を見上げた。


「二度と来たくないと思っていた場所だよ。でも、これからのことを考えると、逃げるわけにはいかない」

「殿下?」

「私の口からはっきり言わないといけない。途切れてしまって、曖昧にしてきた大事なことを」


 王太子は私の顔を真っ直ぐに見た。そしてはっきりと言った。


「私は君を、殺した」


 驚きのあまり、頬が強ばる。避けてきたその話題に突然触れられて、どうしていいのか困り、思わず王太子から目を離す。

 そのまま王太子の手をそっと解くと、私は灰色の建物に近づいた。建物の外壁には、地面すれすれのところに小さな窓がいくつか並んでいた。

 私は建物の周囲に広がる狭い石畳の上に片膝を突くと、その窓を見下ろした。この下には地下があり、私はあの時、確かにここにいたのだ。この暗く陰気で恐ろしい、地下牢に。

 目を閉じれば、かつて聞いた怒号が木霊する。

 私はまるで古い童話でも語るように、淡々と話し出した。


「昔、一人の王宮魔術師が王太子に恋をしました。けれど誰からも愛される別の女性に罪を捏造されて、裁判にかけられました。愛する人にまで有罪だと疑われて、悲しみの中で亡くなったんです」


 暗くて何も見えない窓を見下ろしている私の隣に、王太子が並んで膝を突いた。


「似た話を知っている。昔、ある王太子が一人の魔術師に恋をした。だがここから先が、君の知っているそれとは、少し違う。ーー王太子はその魔術師を、心から愛していた。だから、志願して隣国に軍隊を率いて向かった。成果を引っ提げて国王に彼女を妃とする許しを乞うつもりだったんだ」

「本当に?」

「王太子は必死に国のために戦ったのに、国は彼にとって唯一の宝石を、消そうとしていた。だから、彼は彼女を救う為に、時を戻したんだ。この世で最も愛するその人の、胸を刺して」


 地下牢のある建物の外壁と、石畳の間に生える雑草を、じっと見つめる。風に揺れる雑草を、アリが這っている。

 アリが面白いのではなく、視線を動かすのがただ、億劫だった。


「本当に、申し訳ないことをした。君が最も苦しい時に、何もできなかった。私はたくさんの過ちを犯した」


 私は揺れる雑草を見つめたまま、呟いた。


「あなたは、聖女様を愛してしまったのかと思ったの」


 王太子の手が、膝の上の私の手に触れる。


「今までも、これからも、リーセルは私が最も愛する人だ」


 涙が溢れて、もう何も見えない。

 ただただ、私はその言葉を聞きたかったのだ。

 王太子が今度は私の腕に触れ、耳元に囁いた。


「リーセル。誰よりも君を、愛している」


 涙を手の甲で払うと、顔を上げて王太子を見上げる。


「ユリシーズ、私、辛かった。悲しかった。あなたに捨てられたんだと思ったの」

「本当に酷いことをした。息絶える寸前まで、見開いて私を見上げ続けていた涙の溜まった君の目を、あの日から思い出さない日はなかった」


 手を伸ばし、王太子の頰に触れる。

 向けられる甘い瞳は、たしかに私のユリシーズのもの。


「私は殿下の優しい茶色の目が、好きです」

「リーセルの夜空のような目が、好きだよ」


 王太子が手を伸ばし、私達はお互いの頰に触れ合った。


「リーセル。やっと、この腕で君を抱きしめられる」


 暴れだす心臓を押さえながら、私も王太子を見つめる。

 目の前にいるのは、私のユリシーズであり、魔術学院で共に学生生活を過ごしたギディオンでもある。こうして近くにいて彼を見つめているだけで、幸福感に包まれる。

 何もかもから守られるような、満たされた気持ちになり、胸の中が高揚する。

 私は震える声で、言った。


「ユリシーズ。私にキスをして」


 王太子が顔をゆっくりと寄せ、私達の唇が触れ合う。

 その柔らかな感触に、とろけそうになる。お互いのその感触を確かめるように、何度もそっと唇を重ね合わせる。

 陰気な地下牢のそばで、私達は時間も忘れてそうして久しぶりのキスに酔いしれた。


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