水の花のお守り
ミクノフにレイアの軍隊が向かうことが決まった週末。
ギディオンはいつものように、私の寮の隣の中庭に来てくれた。
この夜は珍しくギディオンの方が私を待たせた。――きっと派兵の支度で日々、忙しいのだ。
「待たせた? ごめん」
ギディオンはそう言うなり、私の肩を抱いて頰にキスをした。
私は唇が離されると、彼の両腕を掴み、彼の顔を見上げた。
「ミクノフに行かされるって聞いたわ」
「私も打診を受けた時は、驚いたよ。まさか自分に魔術兵団長なんていう役回りが回ってくるとは、想像もしていなかったから」
「断れないの? 危ないわ」
ギディオンは首を左右に振り、なぜか少し嬉しそうに微笑んだ。
「心配してくれて嬉しいよ。でも、魔術兵は風の盾や火の竜を駆使した、後方支援しかしないから。前線に出る普通の兵達に比べれば、遥かに安全だよ」
それでも、何があるかは分からない。どうにか無事でいてほしい。
私は持参した自作のお守りをギディオンに渡した。
「これ、持っていって。お守りよ」
ギディオンは掌の中にすっぽりおさまる小さな巾着の中身を見た。
「水晶? 花の形をしていて綺麗だね」
「違うの。魔術の花なのよ。私のおじい様に作り方を教わったの。このお守りが壊れたりしない限りあなたも無事だと、離れていても私がいつも分かるの」
「大事にするよ。ずっと肌身離さず持つよ」
ギディオンは巾着をジャケットの胸ポケットの中にしまうと、私の両手を握った。
「リーセル、よく聞いて。万が一、このお守りが壊れてしまって、私が王宮に戻れないようなことがあったら、アイリスに注意してほしい。あの子は、何をするか分からないんだ」
戻れないなんて何を言ってるの、と大きな声で咎めようとすると、ギディオンは私の口元に人差し指を当て、静かにするよう言った。
そうして一層小さな声で彼は続けた。
「ここの居心地が悪くなったら、の話だよ。多分、その時は殿下も君を手放してくれるだろう。それと、寮の裏手にある門の奇数日の門番は、買収してある。裏門を出たら、大通り入り口に時計屋があるのを知ってるね?」
「ええ、知ってるけど」
「時計屋の花壇の中に、大きな缶を埋めてある。そこにかなりの額のお金を入れておいた」
「なんの話をしてるの?」
「殿下が君を近衛魔術師にすることに拘ったのは、私のせいなんだ」
「ギディオン。分かるようにちゃんと話して」
「――もしもの話だよ。バラルまでの駅馬車のチケットも入れておいたから」
ギディオンは何かが起こると、感じているみたいだ。
「さっき戦場でも安全だと言ったじゃない! 絶対に帰ってこないと、怒っちゃうわよ」
子供っぽいことを言ってしまう。ギディオンだって、志願したわけではないのに。
直後に後悔するが、ギディオン相手だとつい甘えが出てしまうのだ。
ギディオンは私に両手を伸ばすと、優しく抱きしめてきた。
「万一の話だよ」
その温もりに縋りたくて、私も両腕を彼の背に回して必死に抱きついてしまう。
怖いのだ。
個人のちっぽけな力では、到底抗えないような大きな時代のうねりに巻き込まれて、私と彼のこの脆い関係が崩されてしまうような気がして。
「万一じゃなくて、絶対にないって言って」
「ないよ。大丈夫」
ギディオンは私を落ち着かせるように、ゆっくりと肩をさすってくれた。それは私のざわつく気持ちを鎮めるには、十分じゃなかった。
(そうじゃない。……キスしてくれれば、もっと落ち着けるのに)
そんな考えが頭をよぎり、自分で自分に愕然としてしまう。
嫌だと思っていたはずなのに、いつの間に私はこんなに彼に関して、欲張りになってしまったのか。
「私、あなたと離れるのが怖いの」
「リーセル、どうしたの? そんなに派兵を怖がる必要はないんだよ。余計なことを言い過ぎたかな……。怖がらせたなら、ごめん」
「十三歳からあなたを知ってるからこそ、怖いの。戦場では、みんなの為に前に出たりしないで。授業じゃなくて、これは国家間の戦争なんだから」
「心配ないよ。魔術軍団の役割はさっき言ったように、後方支援だから。安心して」
ギディオンは回した腕に力を込め、ぎゅっと私を抱き締めてくれた。
目を閉じて、彼の胸に顔を埋める。
「どうか戦争で手柄なんて、考えないで」
「手柄は……どうしても欲しい」
「いらないのよ。それよりもっと自分の安全を確保して。お願いだからみんなの英雄になんかなろうとしないで。――あなたは私にとってはもう十分、英雄なんだから」
ギディオンは背に回していた手を上げ、私の両頰を手で挟んだ。目が合うと、不安な私とは対照的に、彼は蕩けるように笑った。
「リーセル、なんて可愛いことを言うんだ」
手が離れ、頰にギディオンが何度も唇を押しつけてくる。その快感と満足感に、頭の芯まで夢心地になる。私は、なんて単純なんだろう……。
頰へのキスが止み、体を離すとギディオンは明るい笑顔を見せた。
「ミクノフから戻ったら、君を父上に紹介したい」
「公爵様に? それは……ええっと。友達として?」
思わず
「好きな人としてだよ。――いい?」
握られた手を、握り返す。
そして少し恥ずかしくて、俯いてしまう。それでもしっかりと目を上げて、頷く。
「うん。別に、それでもいいよ」
なんだか上から目線な返事になってしまった。でもなんて答えるのが正解なのか、分からなかった。
ミクノフとサーベルの国境で両軍の小競り合いが起きると、レイア王国はすぐに動いた。
同盟国に対する援軍がすぐに組織され、大挙してミクノフに向かったのだ。
ミクノフ・レイア連合軍対サーベル軍の衝突が始まると、連日王宮は落ち着かなかった。
官吏や侍女たちの区別なく、彼らはどこからか仕入れた情報を伝えあった。まるで自分は情報通だと誇示するかのように、そして誰が最も大きなニュースを持っているのかを、競い合うように。
「レイア軍はサーベルの動きを読めたみたいに、先回りして待ち伏せしたんですって」
「ほら見なさい、レイアの軍人は賢いのよ!」
「魔術軍団が大活躍したらしいわ」
「さすが、王太子殿下の采配ね」
「寝返りかけたミクノフの将校たちが、ランカスター魔術団長の火竜の威力を目の当たりにして、尻尾を丸めて戻ってきたそうよ」
「魔術兵団はミクノフの民間人が戦争の被害に巻き込まれるのを防いで、現地でも名を上げているんですって」
ミクノフとレイアの連合軍は、順調に勝利を収め、サーベルをミクノフ国境の外へと追いやろうとしていた。攻撃にも防御にも、ギディオン率いる魔術軍が大活躍をし、彼はまさに連合軍に勝利をもたらした立役者だという。
王宮はどこもかしこも魔術軍の活躍談で持ちきりだった。
そんな快進撃に、王宮中が安堵の雰囲気に包まれていた矢先。
とんでもない事件が起きた。
王都にある舞踏会場で、火災が発生したのだ。