二度目の派兵
冬の乾燥した風がレイア王国に吹き始めた頃。
各地からくる貴族や有力者たちの治癒を施すのに忙しかった聖女も、彼らが健康を取り戻すと黄金離宮で一日を過ごすことが増えた。
連日聖女の話題で持ちきりだった新聞も、話題の鮮度が落ちたのか、その話題を扱わなくなった。彼女の取り巻き達の数も目に見えて徐々に減っていき、聖女発見以来、騒がしかった王宮が落ち着きを取り戻した頃。
王都にある、大きな歌劇場で火事が起きた。
これは一度目の私の時も、起きた事件だった。当時、防火の為の貯水槽に水が張ってあったものの、夜の寒さに凍りつき、使い物にならずに消火が遅れたのだ。
だから私は今回、水が夜でも凍らないよう、定期的に水面を叩くように手紙を送って注意を促していた。それが少しは功を奏したのか、今回、水は消火に役立った。
その上、王都警備隊が素早く駆けつけ、水の竜を使って大掛かりな消火作業を行い、火が広範囲に広がらないうちに、鎮火することができた。
作業にあたった数名の人たちが軽いやけどを負ったものの、他には被害が出なかった。
この知らせを聞いた時、私は思わず心の中でガッツポーズを取った。
前回は大被害が発生した歌劇場の火災が、回避されたのだ。
その晩、私はシンシアとマックに会い、寮の中庭で皆で喜んだ。
高い棟の影になる、暗い夜の中庭でお互いの目を爛々と輝かせながら。
「俺たち、凄くない? これで大勢の命を救ったよね。二股のベンジャミン一人どころじゃないぜ」
「そうよ! 私、知らせを聞いて心の中で『よっしゃあぁぁ!』って叫んじゃった」
シンシアでも「よっしゃあ」って言うなんて、意外でおかしくなってきて、マックと目が合うと二人でクスクス笑ってしまう。
「マック、今回こんなにも鎮火が早かったのは、本当に王都警備隊のお陰だよ!」
「俺、なんだかさ……密かに凄い英雄になった気分だよ。俺たち、たくさんの人を救えたんだよね」
「英雄だよ。二人は私にとって、無二の英雄だから!!」
「無二の二人って、おかしいわよ! それどっちなの〜」
シンシアが目尻の涙を拭いながら、笑う。そして彼女は噛み締めるように言った。
「未来は変わったのよ、リーセル。貴女が王太子の恋人ではないように、裁判にかけられる未来も、もう絶対に来ないわ」
「うん。二人とも、本当にありがとう」
六歳からの努力は、無駄じゃなかった。頑張った甲斐があった。
それでもやはり、どうしても変えられない流れもあった。同盟国のミクノフ王国と、その隣国サーベル王国の関係が、急速に悪化していた。
国家間の不穏な空気までも私たちが変えることは、できない。
ミクノフとサーベルはもともと、仲が悪かった。
サーベルは大きな国で、領土を広げるのが代々の国王の趣味なのか、何かと難癖をつけては戦争を周辺国にしかける困った国だった。そのせいで、毎年多くの避難民がレイアに流れ込んでいた。
ミクノフは王の権力がどうにもこうにも弱い国で、長い歴史の中で常にサーベルに付け入られては、細々と領土を割譲して生きながらえていた。
私が王宮に来てから、もうすぐ一年が経とうとしていた。
ミクノフでの駐在を終える大使が引き継ぎのために帰国すると、王宮では対ミクノフの今後を巡り、軍務大臣も参加して大きな会議が開かれた。そこには聖女も参加し、なぜか彼女の取り巻きの貴族たちもご意見番のように会議に列席していた。
もちろん、私は王太子の近衛として廊下で衛兵たちと立って待っているだけだったが、会議は紛糾したのかなかなか終わらなかった。
やがて会議が終わると、一番に王太子が中から出てきた。
彼は私が駆け寄ると、簡潔に報告してきた。
「我が国は、同盟国ミクノフに軍隊を差し向けることにしたぞ」
「この会議で、もうそんなことが決まったんですか?」
驚きを隠せない。
私が知る限り、ミクノフへサーベルが侵攻を始めるのはまだ先だし、当然我がレイア王国が同盟国に援軍を送るのも、その後だった。王太子ユリシーズが甲冑を纏って軍隊を率いて王宮を出て行ったのは、六月のことだった。
まだ三月だ。
「サーベルは軍隊をミクノフ国境に集めている。進軍も近い。待っていれば、手遅れになる」
違う。
たぶん、そうじゃない。
王太子は――いや、今の王太子の中にいる時戻しの首謀者だった「かつてのギディオン」には、記憶があるのだ。間違いない。
彼はサーベルが侵略を開始することを、確信している。
それも、どの村から入り、どんな作戦を取るのかも知っているのだ。予め準備ができて、さらに作戦を読めてしまっている今の王太子は、早めに備えるつもりなのだ。
何しろ前回の派兵では、ミクノフ側の将校や地方領主たちの意外な寝返りにあい、苦戦を強いられたのだから。
会議室から次々と出てくる大臣や官僚たちを一瞥してから、王太子は私に言った。
「通常の軍隊に加え、我が国からは魔術兵も派兵することになった」
王宮魔術庁の軍部に直属する魔術兵は、魔術で武力行使をする。また、彼らの作る結界は、鋼鉄の盾より防衛力が高いので、武力衝突の際には、いつも重宝された。
私がそうですか、と言うと王太子は酷薄そうな瞳をこちらに向けたまま、腕組みをした。
「魔術兵団の団長は、ギディオン・ランカスターだ」
聞き間違いをしたのかと思った。
だって、なぜギディオンが?
彼は軍部に所属していない。
彼は魔術庁の王宮警備局にいるのだ。
前回のギディオンだって、聖女の隣に金魚の糞のようにくっついていただけで、戦争になんて行っていない。
「どうして、ギディオンが!?」
王太子は口の端を歪め、面白そうに言った。
「団長は名門の魔術師でなければ。ランカスター家ならば不足はない。それに奴の大きな魔力は国家の為に、こういう時こそ使うべきだ」
勝手なことを。
自分は、戦争になんて行きもせず、王宮で聖女のスカートの裾を持ってついて回っていただけのくせに。
混乱と怒りで震えると同時に、頭の中が冷えていく。
(何を企んでいるの? 何がしたいの?)
「そんな目で俺を睨むな。これはギディオンも事前に承諾済みなんだ。あいつは武功を立てて、お前との仲をランカスター公爵に認めさせる気らしい」
「えっ……」
驚く私に王太子は意味ありげな視線を送った。
「
「今回も――、と仰いますと?」
聞き返すと、王太子はハハハと笑った。
「これは、失言だったな。そうだな、お前は何も知らない。いやいや、あいつも掌中の珠を守る為に、必死で戦ってくるだろうよ」
「ギディオンを行かせるなんて、わたくしも反対ですわ、殿下」
柔らかな声がして、はっと振り返る。
私と王太子の後ろに立っているのは、聖女だった。
純白のドレスを着て、肩に同じ色のレースのショールをかけている。聖女は愛らしい顔を辛そうに曇らせていた。
「ミクノフでギディオンに何かあったら、と心配だわ。わたくしも聖女として従軍すると申し上げたのに。陛下は乗り気でいらしたのに、殿下が反対なさるから…」
一度目の国王は、聖女を王宮にとどめた。王太子との結婚の準備をさせた為だ。今回は、私という障害物がないから、それほど急いでおらず、従軍を認める方が得策と考えたのだろう。
すると王太子は聖女の腕に優しく触れた。さっきまでとは打って変わり、実に優しそうな表情を浮かべている。
「聖女を戦に連れて行けば、神の怒りに触れてしまうかもしれない。いや、それ以上に俺は貴女を行かせたくない」
「わたくしは、ただ純粋にギディオンが心配なのです」
「心配いらない、アイリス。ギディオンは強い。かすり傷一つ、負わずに帰ってくるさ」
「でも、ランカスター公爵夫人も、きっとご心配なさるわ」
「そうか? ランカスター公爵は、これ以上名誉なことはない、と喜んでいたぞ」
「それは、父親と母親の感じ方はきっと違いますもの……」
アイリスはふとその目を私に向けた。
そしてその白く細い手を差し出し、私の手に触れた。
「ギディオンと貴女は、お親しいのでしょう?」
「はい、学院以来の友人ですから」
「友人? 以前、ギディオンは貴女を大夜会に誘っていたけれど。恋人ではないの?」
魔術学院に遊びに来ていた時の様子だと、アイリスはギディオンにも好意を寄せているように見えた。お気に入りの男性に、自分以外の女の影がチラつくのは許せないのだろう。
この聖女は自分が誰も彼もから、『一番』と慕われる存在でないと納得できない、面倒くさい女なのだ。
「違います。それに大夜会には結局、出なかったので……」
すると聖女はどこかほっとしたような表情を見せた。
薄紅色の唇が、ほんの少し弧を描く。
「公爵様が、ご心配されていたの。もしや身分に釣り合わない恋人ができたのではないかって」
それってまさか私のことだろうか。
言ってくれるじゃないの。
「ギディオンは私にとって、幼なじみでもあり、本当の兄のような人なの。幸せになってほしいの。それは、貴女もお友達として同じでしょう?」
「はい、もちろん」
聖女は私の手を、優しく握った。そして引き込まれそうな美しい微笑みで言った。
「それが聞けて嬉しいわ。公爵様を悲しませるようなことを、しないでいただけるわね?」
私がギディオンの恋人になると、公爵が悲しむと言いたいのだろう。
(公爵のために、なんて言い方をするのが、ズルいったらありゃしない)
答えに悩んでいると、いつのまにか聖女の後ろに集まっていた取り巻きの貴公子たちが、口を挟んだ。
「君、聖女様がお尋ねしているんだぞ。早く答えないか!」
今は私が無力で、何も考えていないと思わせる方が安全だ。反撃するタイミングを間違えれば、全てが台無しになる。
俯き加減で「わきまえております」と聖女に答えると、彼女は花のように満開の笑顔を見せた。その笑顔に、取り巻きたちが魅せられたように恍惚とした視線を釘付けにする。
聖女は私の手を離すと、ひらひらと手を振った。
「ご理解してくださって、ありがとう。――殿下の護衛を、よろしくお願いするわね」
まるでカルガモの親子のように、ゾロゾロと集団を引き連れて去っていく聖女。
その後ろ姿を見る王太子は、意外にも面白くなさそうな顔をしていた。
聖女がギディオンの心配をするのが、心外なのかもしれない。
私は王太子の中の本当のギディオンに、心の中で話しかけた。
(あなたは、アイリスが好きだったのね。アイリスはあなたにとって、ただの幼馴染みじゃなかった)
ふと気がついた。
もしかして、そのために彼は『三賢者の時乞い』の発議者になったんだろうか。
そうして、アイリスを今度こそ、手に入れようとしている……?
遠ざかる聖女の背中を、愛しげに見つめる王太子の横顔に、答えを見つけた気がした。