キャサリンナは泣き寝入りしない
ギディオンは私の肩に手を回した。
「リーセルをエスコートしたいのです。大夜会は、彼女と参加致します」
王太子はすぐに眉間にシワを寄せた。どこか嘲りを含んだ声で、吐き捨てる。
「私の近衛は、なんと幸運なんだ。ランカスター公爵家の跡取りで貴婦人の憧れの的が、初めて夜会に連れて行く女性に選ばれるとは!」
「どうなさったの、殿下?」
微妙に私に失礼な反応をする王太子の後ろから、聖女が歩いてきた。父親との挨拶回りが終わったのだろう。
ギディオンが振り返り、膝を折って聖女にお辞儀をする。その姿を見て、パッと聖女が顔を綻ばせる。
「ギディオン! 来てたのね。私にそんなお辞儀はいらないのにぃ」
「いくら幼馴染でも、ここでは聖女様ですから」
「アイリスでいいのに! あなたは特別よ」
聖女は無邪気な笑顔を浮かべて、ギディオンの腕に両手を絡ませた。
それを目の当たりにした王太子は、一瞬で表情を強張らせる。
「その特別なギディオンは、来月の大夜会にこの近衛魔術師を誘ったようだ」
王太子が口を歪めて私を顎で差すと、聖女の蜂蜜色の瞳が私に向かう。愛らしい口元に浮かべた笑みはそのままだが、目の奥には私を値踏みするような冷たさがあった。
「それは本当なの? ――こちらは、どなた?」
いや、私、昨日からずっと王太子の近くにおりましたけど。
どうも聖女の視界には入っていなかったらしい。
(というか私たち、魔術学院で一度、会ってますけど!!)
アイリスの目の中には、付き合う価値のないものは通さない、特殊なレンズでも入っているのだろう。
心の中で苦笑いしつつ、膝を折る。
「リーセル・クロウと申します。今年国立魔術学院を卒業しました」
「まぁ、優秀な魔術師なのね! ギディオンは今まで誰もエスコートしたことがなかったのよ。――私も含めて」
可愛い笑顔でそう言うと、聖女はふとその小首を傾げた。天井のシャンデリアの明かりに合わせて、金色の髪が煌く。
聖女はチラリと私の紫色のローブに視線を走らせた。そうしてその可愛らしい口元に、華奢な白い手を当てる。
仕草の一つ一つが可愛くて、憎さ倍増だ。
「そのローブで参加なさるのかしら?」
なんだろう、その質問は。
もしや私がローブしかまともな服を持ってない、と思われているのかもしれない。
「いいえ。一応実家から一枚だけドレスを持ってきておりますので、それを着ます」
念のため持ってきただけのドレスだが、まさか王宮の大夜会に着ることになるとは、思いもしなかった。
私が学院の卒業パーティに参加しなかったことを知った祖父が、慌てて作らせたドレスだ。
一応バラル州の一番有名なデザイナーに祖父が注文したもので、王宮の貴族が着ているものと、なんの遜色もないと自負している。
「そう、そうなの。安心したわ。――ギディオンを、よろしくね」
ふわりと微笑むと、聖女は王太子とお喋りを始め、私には以後全く話しかけてこなかった。また視界に入らなくなったのだろう。
聖女は名実ともに、今夜の夜会の主役だった。
大広間の豪華な装飾も、集う貴婦人たちも皆、彼女の引き立て役でしかない。
黄金の髪が流れ落ちる首筋も、扇子を持つ手も白く輝き、ひとたび真珠のように綺麗な白い歯を見せて微笑めば、花々が一斉に満開に咲いたように、美しい。
その甘い蜂蜜色の瞳を向けられて澄んだ愛らしい声をかけられた者たちは、男女の別なく彼女の虜だった。
王太子は聖女に礼儀を尽くして接し、聖女もまた自信溢れる王太子に惹かれているようだった。
(中身は全くの別人なのに、アイリスあなたはまた、王太子に惹かれるのね)
夜会の人の多さにいくらかうんざりした頃。
不意に私は全身を固くした。
興奮と気怠さの支配する大広間の空気の中に、何か異質な空気が――はっきりとした敵意が微かに混ざっている。
――気のせいではない。どこからか、攻撃的な悪意が放たれているのを感じる。
近衛魔術師としての自覚を忘れてはいない。
社交に夢中の人々に代わって、不埒なものがいないか警戒するのが、私の今の任務だ。
大広間には私が結界を張ってある。強すぎる悪意は、魔術師の結界の中に入ると分かるのだ。
人々の喧騒を耳から遮断し、鋭利な空気を読むことに意識を集中する。
やがて私は人々の足元をユラユラと進む、悪意を見つけた。
それはうっすらと漂う黒い煙のように切れ切れに床を這い、大広間の中を何処かへと向かっていた。
(見えるほど強い悪意っていうのは、ほとんど殺意みたいなものよ。――一体、誰が誰に向けているの?)
煙の発生源を見つけようと、ごった返す人びとを縫うように避けながら、ゆっくりと辿る。
ついに大広間のバルコニーに出ると、煙の量はより大きく見えた。私が張っていた結界はそこまでなので煙は一旦途切れてしまっていたが、それ以上辿る必要はなかった。
バルコニーにいたのは、一人だけだったからだ。
顔を上げて、息を呑んだ。
薄暗いバルコニーに立って大広間の中を険しい顔で睨んでいるのは、共に学んだ学友のキャサリンナだった。キャサリンナは王宮魔術師として採用されなかった為、就職はしなかったと聞いた。ゆくゆくはジュモー家の長女として、どこか良家に嫁ぐのだろう。
そんな彼女との再会を、懐かしむゆとりはなかった。
キャサリンナは右手を腰の辺りで握りしめ、一点を見つめて何やら口を動かしていたのだ。
この仕草には見覚えがある。学院で魔術を行う時、彼女はいつもこんな感じに詠唱していたから。
(誰に、何をしようというの?)
キャサリンナのきつい目線の先には、煌びやかな装いの貴族の男たちが集まっており、皆酒を片手に椅子の上で話をしている。たくさん人がいて誰を見ているのかは分からない。
キャサリンナの右手の指先に、赤いものがチラつくのが見えた。
素早く歩み寄り、その右手首を掴む。
「キャサリンナ、その火の剣で何をするつもり?」
キャサリンナはピクリと震えてから、私を見上げた。術を行っている最中に急に人に声をかけられたことと、それが私だという事実に驚き、見開かれた目が揺れる。
頰をひきつらせながら、私の手を振り払う。
「何の話!? 何もしてないわよ。あなたが、どうしてここに…」
「私、近衛魔術師なのよ。――こんな所で魔術を使えば、大変なことになるわよ」
ひと目につかないように、キャサリンナをバルコニーの隅の方に追い詰める。彼女は怯えた目で私を見つめた。
「と、友達でしょ。見逃しなさいよ」
絶句してしまう。
キャサリンナの方こそ、私を友達だと思ったことなんて、一度もなかっただろうに。
詰問する姿勢を崩さず、彼女をバルコニーの手すりまで追い込む。この向こうは広い庭園だが、手すりは乗り越えられるような高さではない。
「もう一度言うけれど、私は近衛魔術師なのよ。火の剣を貴女が出そうとしていたのを、この目で見たわ。何をしようとしていたの? 理由によっては、見逃せない」
内容によっては見逃してもいい、とほのめかす。
卒業してから久しぶりに見るキャサリンナは、随分やつれていた。頰がこけ、ウエストが折れそうなほどだ。
着ている紫色のドレスは美しかったが、キャサリンナの顔を更に悪く見せている。
その哀れな変貌ぶりに、少しだけ感情を揺さぶられた。
キャサリンナは決して好きではないが、十三歳の頃からクラスメイトをしている私としては、心配になるほど、今夜の彼女はガリガリになっていた。
キャサリンナはパッと私に背を向け、声を震わせた。
「そ、そんなに怖い顔をしないでよ。怖いじゃないの。私はただ、ある人を少し懲らしめようとしただけよ」
「誰を?」
バルコニーの手すりに手をつき、顔を歪めるキャサリンナを覗き込む。
キャサリンナは不安そうに言った。
「――正直に話したら、見逃してくれる?」
「内容次第よ。でも話さなかったら、今すぐ衛兵に突き出すわ」
途端にキャサリンナは肩を震わせた。手すりにしがみつくようにつかまり、顔を真っ赤にさせている。
「私は悪くないわ。妹が、自殺未遂をしたのよ! 婚約破棄をされて! 相手は四大貴族のトレバー家の嫡男だったのよ。両親は何も言えないし、妹は憔悴していたの」
えっ、と声を上げそうになる。
婚約破棄とトレバー家。
そんな話を、つい最近どこかで聞いた気がする。
記憶を懸命にたどると、いつかの夜の、屋上での出来事が思い出された。
「ま、まさかそれって、ベンジャミン・トレバー?」
「上流貴族に疎いあなたでも、流石に彼のことは知っているのね」
「ベンジャミンを攻撃するつもりだったの?」
「彼はここにいないわ。トレバー侯爵の髪の毛を焼いてやろうと思ったのよ」
「なんで髪の毛を。じゃなくて、どうして侯爵を?」
「あいつは、息子と私の妹との婚約破棄をうちに伝えに来た時に、言ったのよ。『ミア嬢にも原因があるんじゃないか』って。ミアには何の責任もないのに! こんな勝手な婚約破棄だなんて、許せないわ。親友だったアイリスも聖女様になって、妹は最近では相談相手もなくして」
「その話、詳しく聞かせて」
「い、いやよ……。いつからゴシップ好きになったのよ」
「そんなんじゃないから! 事実かどうかを知りたいのよ。――話してくれたら、あなたを見逃してあげるから」
キャサリンナは少しの間迷ったが、衛兵に突き出されるのを恐れたのか、素直に話しだした。
キャサリンナの妹の婚約者は、四大貴族のベンジャミン・トレバーだった。彼に婚約破棄をされたのは、彼女の妹のミアだったのだ。
ミアは睡眠薬を大量に飲み、いまだに目覚めないらしい。
あの夜の塔での出来事と、婚約破棄。
点でしか繋がらないこの話が、私の中で妙に気になった。何かが、この二つの出来事の中心にいる。
「妹さんの婚約者を奪ったのは、どんな女性だったの?」
「知らないわ。でもベンジャミンはあっという間に熱を上げたそうよ……。ミアは私に似て、才色兼備だというのに!」
才?色? と戸惑って首を傾げてしまいそうな引っかかりを、なんとかやり過ごす。
「本当はその女をハゲにしてやりたいくらいなのよ!」
泣き出して鼻水まで流すキャサリンナに、ハンカチを渡す。キャサリンナは私のハンカチで盛大に鼻をかんだ。
「うっ、うっ…後で、ヒック、シルクの、もっと上等なのを贈るから、ゆるじで」
涙が次々に溢れて止まらないので、キャサリンナはついに私のローブで涙を拭き始めた。
ベンジャミンも既に恋人に振られ、酒浸りになっていることを伝えると、彼女は少しだけ怒りを収めてくれた。