聖女アイリスの見る夢
公爵家の広い前庭を、屋敷の二階の窓から身を乗り出して一人の少女が見つめていた。
ハーフアップにした長い金髪は、春の風にふわふわとそよぎ、輝く光の筋のように美しい。
薄紅色の唇は抑えきれない興奮に愛らしい弧を描き、白い磁器のような頬はほんのりと朱に染まっている。
「ギディオン、もう直ぐかしら? まだかしら?」
そんな少女を、居間にいるランカスター公爵夫人が微笑ましい思いでたしなめる。
「アイリス、もう三十分はそうして待っているわよ。こちらに座ってお茶でも飲んだらどう? タルトをもう一つ、どう?」
隣家のゼファーム侯爵家の御令嬢、アイリスは赤ん坊の頃から、公爵邸に頻繁に来ていた。公爵夫人にとっては親友の娘でもあり、我が子のように可愛がってきた。
ランカスター公爵家の次期当主、ギディオンとは兄妹のように育った。
ギディオンが今日、久しぶりに公爵邸に帰ると知ったアイリスは、昼過ぎから公爵邸に遊びに来て、公爵夫人の話し相手をしていた。
だが時間が進むにつれ、彼女は窓の外ばかりに気を取られるようになった。
「だって、ギディオンが今日はやっと王宮から帰ってくるのよ!」
ギディオンは王宮に勤め始めると寮に寝泊まりしてしまい、自宅には滅多に帰って来なかった。長い国立魔術学院の学生生活も寮での生活だったため、ギディオンが大好きなアイリスとしては、本当に寂しかった。
そうして待つこと小一時間。ガラガラ、と響く車輪の音が遠くから聞こえ、やがてランカスター家の門の前に一台の黒い馬車が止まった。
「ギディオンだわ!」
窓から身を離すとアイリスは廊下を走り、急いで階段を下りた。アイリスにしては珍しく、お行儀悪く二段飛ばしで駆け下りたが、フカフカの絨毯を敷いた階段は上手くその衝撃と音を消してくれる。
両開きの扉を両手で思いっきり開けると、玄関ホールを飛び出す。前庭の噴水の横を駆けると、向こうからはギディオンが歩いてくるのが見えた。
「お帰りなさい! 会いたかったわ!」
両手を広げてギディオンに抱きつく。
紫色のローブを着た彼は、少し疲れたように笑って、そっとアイリスを押しのけた。
「ねぇギディオン、王宮でのお仕事はどうだった?」
「思ったよりは忙しくなくて、安心したよ」
ギディオンは鞄を肩にかけると、そのまま屋敷の中に入っていく。鞄なんて侍女か執事に持たせればいいのに、と思いつつもアイリスは彼の後をつけていく。
ギディオンは玄関ホールで立って待っていた公爵夫人と軽く抱き合い、少しだけ立ち話をすると、そのまま自室に向かう。
公爵家の長い廊下を歩くギディオンは、紫一色のローブを纏っていても、十分目立って美しかった。
アイリスは隣を歩きながら、うっとりとギディオンを見上げた。
ギディオンほど完璧な男は、この世にいないのではないか。ギディオンと比べると、どんな男も霞んで見えてしまう。そう思える。
「ギディオン、美味しいタルトがあるのよ。私も頂いたの。居間にお茶にいらして」
「アイリス、昨日は遅くまで仕事だったんだ。少し部屋で寝たいから、休ませてくれ」
自室に向かい、廊下を進んでいくギディオンをアイリスは追う。
「分かったわ。公爵夫人が夕食にもご招待して下さってるの。一旦家に帰って、夕方また来るわね」
「ありがとう。夕食までには起きるよ」
アイリスは部屋の前までギディオンについていくと、両手を伸ばして彼の肩に手を置いた。背伸びをして彼の頰に軽くキスをする。
「お休みなさい。また後でね」
目の前でパタンとドアが閉まると、アイリスはほぅ、と溜め息をついた。
ゼファーム侯爵家に戻ると、アイリスは自分専用のティールームで時間を潰した。
愛らしい小鳥の刺繍がされたクロスがかかった丸いテーブルの前に腰掛けると、侍女が運んできた紅茶を飲む。
指先で小さなチョコレートを弄びながら、少しずつ食べる。甘いチョコレートには無糖の濃い紅茶がよく合う。
テーブルの隅には、数通の封筒が置かれていた。アイリスに届く手紙のほとんどは、パーティへのお誘いだった。
だがその中に一通、見慣れた形の封緘を見つけて、手紙の束の中からそれを引き抜いた。
クリーム色の封筒に、六角形の封緘。
(また送ってきたのね……)
それはアイリスの友人、ミア・ジュモーからの手紙だった。
開く前から内容は分かっていたが、念のため開封し、便箋を取り出して開く。便箋は薔薇の模様が描かれた上品なものだったが、文面は涙でインクが滲み、内容も哀れだった。
ミアは婚約者がいたが、先月突然婚約破棄の申し出をされたのだ。婚約者は四大貴族の一つ、トレバー家の嫡男だったため、ジュモー家は強く抗議ができず、泣き寝入り状態なのだという。
ミアは長いこと、婚約者に夢中だった。彼女にとっては夢のような相手で、結婚を心待ちにしていたのだ。
「どうしてなのか分からないの。でも彼が、急に最近冷たくなって」
さめざめと泣きながら自分にそう訴えてくるミアは、傷ついてすっかり痩せてしまっていた。
「私でよければ、いつでも話を聞くわ。手紙でもいいわ」
そう言ってやると、ミアはアイリスに慰めてもらおうと、毎週のように悲しみに満ちた手紙を寄越してきた。
言葉を尽くして優しい慰めの言葉を綴るアイリスだったが、本当のことは伝えなかった。アイリスはミアの婚約者が、なぜ婚約を破棄してきたのかを、知っていた。
ミアの婚約者は、ミア以外に好きな女性が出来てしまったのだ。
(本当に哀れだわ。婚約者を奪ったのが、この私だとちっとも気づいていないなんて)
アイリスはまだ恋人と愛し合うということが、よく分からなかった。
だがミアが婚約者にベタ惚れになり、彼の話を目を輝かせて乙女心いっぱいにして話すのを見て、とても心動かされたのだ。
そんなに心奪われてしまう男性って、どんな方なのかしら、と。
しかも相手はランカスターやゼファーム家と同じ、四大貴族なのだという。人当たりも穏やかで社交的で、容姿も優れていて、社交界でも評判の男性なのだという。
(それなら、わたくしにこそふさわしいかもしれないわ。ミアじゃなくて)
そう思ったのがきっかけだった。
軽い気持ちで偶然を装って、貴族に人気の紅茶館でミアの婚約者に会ってみた。
少し楽しくおしゃべりをした後、紅茶館を出たところでわざと鞄を落とし、物盗りに襲わせた。もちろん、事前に金を払って仕込んだ偽の盗っ人だ。
怯えて彼に縋り付き、気持ちが落ち着くまでそばにいてもらった。
そして少し甘えた声で話しかけ、真っ直ぐに彼を見つめて「あなたと出会えたことが、嬉しくて仕方がない」という仕草を徹底してみた。
すると翌日、ゼファーム侯爵家に薔薇が届けられた。
以後何度も紅茶館で二人きりで会うようになり、アイリスはミアの婚約者の心をあっけなくさらっていった。
(でも、思っていたような素敵なものは何もなかったわ。つまらない、平凡な方だった)
アイリスはミアの婚約者に直ぐに飽きた。
だからとうに別れを伝えていた。だが恋に敗れた彼は、落ち込んで領地に引きこもってしまい、また一度破棄してしまった婚約をもとに戻すことは流石にできなかった。
(わたくしは、何も悪くないわ。あんなに彼がわたくしに夢中になってしまうなんて、思いもしなかったのだし)
ミアの婚約者は、期待したほど素敵な殿方ではなかった。
それもこれも、アイリスの一番一近くにいる男性ーー隣家のギディオンが、ハイスペックすぎるからだった。
(ああ、ギディオンよりも素晴らしい男性は、どこかにいないのかしら?)
残念ながら、幼馴染のギディオンほど立派な男性は見たことがない。
(わたくしったら、彼にとっては妹みたいなものなのに――)
自分のギディオンへの愛情が、単なる幼馴染を超える域に達しそうなのは、自覚していた。ランカスター家とゼファーム家は仲が良い。一時は、ギディオンとアイリスの婚約話が出たこともあるほどだ。
けれど、アイリスがどんなに努力しても、ギディオンは自分を女として見てはくれない。アイリスにはギディオンは皆に等しく優しいけれど、誰かに執着するようなことはないように見えた。だから彼に恋しても、無駄なのだ。
だからこそ、早くもっと上位互換の男性を見つけたかった。
もっともギディオンも子供の頃から紳士だったわけではないのだという。
アイリスは小さすぎて覚えていないのだが、侍女たちが言うには小さい頃の彼は、いばりんぼうで嫌なやつだったらしい。芋虫を拾ってはアイリスに見せ、彼女が泣いて逃げるのを口の端を歪めて笑って追いかけるような、意地悪な子供だったとか。
今のギディオンからは、そんな子供時代は想像もできない。
だが六歳の時にギディオンはある朝高熱を出し、記憶喪失になったのだという。その後、彼は人が変わったように大人びた子どもになったらしい。
アイリスは居間の壁にかかる一枚の大きな肖像画を見つめた。
軍服を纏い、山の前に立つ中年男性が描かれている。その男はゼファーム家の始祖であり、初代ゼファーム侯爵だった。
初代国王を助け、小さな国々の集合体に過ぎなかったこの地の権力を一つにまとめた男だ。同時に紡績業で巨万の富を築き、ゼファーム家の繁栄を不動のものにした。
この絵を前に、初代当主と向かい合う時、ゼファームの血筋の者は皆、その名に恥じぬ偉業を成し遂げなければならない、と硬い意欲を燃やすのだ。それはもはや強迫観念に近かった。
恵まれた家に生まれたのだ。アイリスはこれを、神の祝福のようなものだと思っている。
だからこそ、自分が栄光の人生を歩むのは当然であって、それを邪魔する者は、神の意思に反することなのだ。
「今日の紅茶はアリガー山の高地産の、春摘みの茶葉でお淹れしました」
侍女が誇らしげに言いながら、アイリスの飲み干したカップにまた紅茶を注ぐ。
最高級のもの。
アイリスの周りに集まるのはそれだけであって、最高のものだけがアイリスに近づくにふさわしいのだ。