二度目の幕開け
最早刑罰はひっくり返らない。
(私は何もやってない。だからせめて、さいごまで毅然としていよう)
それが今できる、唯一の抵抗だった。
係官達は、侍女に背を向けた私の腕を両側から掴み、牢の出口へと連行を始めた。
正午が迫っていた。私の処刑執行予定の時間の、正午が。
足が震える。
(震えるもんか。何も悪いことなんて、していないんだから!)
恐怖に震えそうな足を必死に動かして前を向き、地下牢の外へと繋がる灰色の階段を見つめる。
だがその石の階段に足をかけた時。
上階から思わぬ人物が現れた。
信じられなかった。目の前に突然現れたのは、王太子だったのだ。
栗色の髪の毛をボサボサに乱し、肩で息をしている。茶色の目は血走って真っ赤で、甲冑の上に羽織ったマントは薄汚れている。戦地から今しも帰ったのだろう。
「殿下! いつご帰国を?」
王太子は私の正面に立ち、傲然とこちらを見下ろした。いつもは輝くような美貌のその顔を、酷く歪ませて。
「リーセル。……なんて愚かな」
ぶるりと身が震えた。こらえきれず、大粒の涙が流れる。
まさか、王太子も私のことを有罪だと思ってるのだろうか?
「殿下…」
それでも、処刑執行前にこうして王太子が会いに来てくれたことが、嬉しかった。たとえ聖女を毒殺しようとしたと、彼にまで疑われていたとしても。
泣くまいと決めていたのに、王太子の顔を見た途端に、決意が儚く崩れる。
張り詰めていた気が抜け、全身が萎えて床に膝をついてしまう。両手を前に投げ出して、階段にすがりつく。
(死にたくない! 処刑場になんて、行きたくないよ……!)
地下牢の石の階段は冷えて固く、膝が割れそうなほど痛い。だが恐怖と悔しさは膝の痛みを遥かに凌駕した。
これから自分を待ち受ける処刑が恐ろしくて仕方がない。
怒号が飛び交う中を、王宮の外壁に縛りつけられ、処刑執行人に首を切られるのだ。
聖女を傷つけるものは、公開処刑と古代から決まっている。
硬い石の階段についた両手がガタガタと震え、恐怖で足に力が入らない。
自分が死んだら、王太子と聖女は間違いなく結ばれてしまう。国王も国民も、そう望むのだから。
聖女が、妃になってしまう。押さえつけていた思いが、あふれて止まらない。
王太子はゆっくりと階段を下り、私の数段上で止まった。
「リーセル。顔を上げよ」
命じられるまま上体を起こした、その瞬間。
凄まじい衝撃が、私の身体を貫いた。自分の身を襲ったことが、信じられなかった。
目の前に立つ王太子から、胸をひと突きにされていたのだ。王太子の右手に握られた剣は、私の胸の真ん中を貫き、その銀光りする刀身の中ほどまで突き刺さっている。
そしてさらに驚くべきことに、なびくマントの下から覗く彼の左腕は、肘から先がなくなっていた。戦場で失われたのか、布が何重にも巻きつけられ、痛々しい。
カシャカシャと涼しげな音を立て、透明な石のかけらが床に落ちていく。体ごと貫かれた私のペンダントの、バラの形の飾りだったものだ。私の裁判が始まったときに、遠いバラル州から駆けつけた祖父がくれた、お守りのペンダントだった。
粉々に砕かれたそれが、もう私を守ることはない。
「でん、か……」
あまりの光景に、私は目を限界まで見開き、王太子を見上げた。
ぐらり、と身体が傾き、そのまま崩れるように硬い床の上に転がる。
息を吸うことも吐くこともできず、胸をおさえる自分の白い手が、溢れ出る自身の血でぬるぬると滑る。
王太子は出血と死への恐怖でガクガクと震える私を押さえつけた。
そのまま私の上に突っ伏し、嗚咽を始める。
なぜ、王太子は泣いているのだろう。
王太子の栗色の髪が、死にゆく私の視界を埋め尽くす。
ああ、自分は死ぬのだ、と思った。
同時に頭の片隅に、どこか安心する自分がいた。
(だって公開処刑されるよりは、遥かにましかもしれない……)
愛する男に殺されるという、最も残酷な人生の終わり方だとしても。
やがて痛みも寒さも消えた。
全てを終わらせる帳が下り、肉体から意識が解放される。
私の意識は体から抜け出るように、フワリと宙に舞い上がった。
意識を下に向け、見下ろせば石の床に横たわる自分の体がみえる。黒い髪が床に広がり、両足は力なく投げ出され、まるで床に落ちた人形のようだった。
砕けた石の破片が、キラキラと場違いに美しく輝いている。
(ああ、私、死んだんだ。――信じられないけど今、自分の遺体を見下ろしてるんだ……)
血相を変えた係官の一人が、王太子からようやく剣を取り上げていた。もう一人は私の胸元に自分のマントを押し当て、必死に止血をしようとしている。処刑を待つ身だったというのに、私の救命を試みているなんて、滑稽だ。
這うようにして近づいてきて、私の黒髪の頭を抱きしめているのは、カトリンだ。何事か王太子に向かって絶叫しているが、音が聞こえない。
(泣かないで。もう、終わったから……)
私は自分の魂が上へと引っ張られていくのを感じた。このまま神に召されるのだろう。
最後にどうしても、ひとつだけ聞きたかった。
――聖女様を愛してしまったの?
尋ねる口はもう動かせない。
王太子は、私を愛してくれていたんだろうか。
意識はただよう風船のように徐々に上へ昇っていき、もう牢の天井につきそうだった。ここは地下にもかかわらず、天から降り注ぐ一筋の光が見える。なんて神々しい。
こうしてこの光を昇っていけば、天国に行けるのだろう。
その時、眼下で動きがあった。
王太子が係官から剣を取り返し、再び振り上げたのが見えた。
ひと突きでは足りないのだろうか。
(もう息絶えた私を、まだ刺したいの? 殺し足りないほど、いつの間に私を憎んでいたの?)
強力な力で意識が上へと引かれる。
到底抗えない引力で、私の魂が運ばれ出す。いよいよ天へと旅立つのだろう、と思った。
永遠に貰えないであろう答えは、知るのを諦めるしかない。
薄れていく意識の中、私は考えた。
――どこで、何を間違えたのだろう?
こんな人生は二度とごめんだ。
生まれ変わったら、こんな……リーセル・クロウとは全く違った、穏やかで平凡な人生を送る人間になりたい……。
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バン!
という衝撃音とともに、痛みが体全体を走る。
(いったぁぁぁ……)
目を開けると目の前は、木の床。
ここは、どこだろう。
起きあがろうと床に手をつき、その手を見て呼吸が止まる。
――あれ? これ、子どもの手?
わけが分からず、床についた手をしばらく凝視してしまう。
(なんで私、子どもになってるの……?)
さっきまで王宮の地下牢にいたのに。
動揺しつつ顔を上げると、寝具が半分床に落ちたベッドが見えた。
その横に転がっている自分と、さっきの衝撃から考えるに、どうやら私はあのベッドから落ちたらしい。打ち付けたばかりの右肘がジンジン痛む。
一緒に転がり落ちたらしき、クマのぬいぐるみが左腕の下で潰れている。
「ここ、どこ」
愕然と目を見開いて辺りを見渡す。
白いレースのカーテンが天蓋から垂れるベッドに、足元の長椅子。壁紙は薄いグリーンで、大きな出窓がある。それはひどく見覚えのある部屋だった。
(私の部屋だ……。子どもの頃の、私の部屋!)
「なんで? えっ――なんで!?」
両手で頭を抱えた。
何が起きたのか全く脳がついていけず、膝立ちのまま呆然と固まってしまう。
フラつきながらも立ち上がり、ベッドの隣に置かれた等身大の大きな鏡に駆け寄ってしがみつく。
豪華な彫り物の施された縁に掛けた手が、力が入りすぎて震える。
楕円形の姿見の中には、紫色の瞳を極限まで見開き、わなわなと唇を震わせる寝間着の少女が映っていた。
「こ、これ……わたしだ」
そう、私、リーセル・クロウだ。濡れ羽色の黒髪に、小さくまとまった鼻や口。
目は神秘的に澄んだ紫色。自分で言うのもなんだけど、結構可愛い。
「私、小さ……!」
これは多分、六、七歳の頃の私だ。
こんなはずない。あり得ない。
そう思いながらも、もつれる足で窓に向かって走り、花柄のカーテンを開ける。
眩しい朝日が一瞬で室内を満たし、その明るさに目をすがめる。
窓の外には柔らかな曲線を描く芝の丘と、小さな森がいくつも見えた。間違いなく、バラル州だ。
そして窓の向こうにたつ崩れかけた我が家の塀の前には、一本のコニファーの木があった。私が十一歳の時に、雷に当たって折れたはずの木なのに。
よろめきながらも窓から後ずさり、あまりの衝撃に膝から崩れ落ちる。
床の上に敷いた毛足の長いラグの上に、お尻がドスンとぶつかる。
「なんで私、子ども時代に戻ってるの?」
――もしや私は普通に子どもで、ただ今までなが〜い夢を見ていただけなんだろうか? 王太子に見染められて、挙げ句に殺されるなんていう、怖過ぎる夢を。
「ううん、そんなはずない。だって、全部覚えてるもの」
愛した人を聖女に奪われ、愛した人に殺された。
あの衝撃が胸を貫き、両目から涙が溢れる。
けれどひっく、ひっくと漏れる声は、ひどく高く澄んでいて、子どもの声そのもの。
時間が巻き戻ったとしか、思えない。
「もう、殺されたくない……」
王太子は、私を愛してなんていなかったのだ。うぶな田舎貴族の新人魔術師を騙すのは、ちょっとした火遊びみたいなものだったのかもしれない。
本気だと思っていたのは、わたしだけだったのだ。
バカだった。
身の程をわきまえない、私が。
自分にはその価値があるのかもしれない、なんて思ってしまったのが、若気のいたりだった。
まだ小さな両手を組み、小動物のようにプルプルと震えながら神に祈る。
「玉の輿なんて、もう狙いません。身の丈にあった結婚で満足します。だから、殺される運命だけは、嫌です!」
刺された胸元に、手を当てる。
今は傷もなく滑らかだが、剣が貫いた熱と痛みは、今もはっきりと思い出せる。
あれが夢だったはずはない。
どうしてか分からないけど、殺されるはるか前に戻ったのだ。
(きっと、神様が人生をやり直すチャンスをくれたんだ……!!)
もう間違えない。今度こそ、裁判にかけられたりしない。
涙に濡れる小さなこぶしをぎゅっと握り締め、私は人生をやり直そうと硬く決意した。