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アイリス・ゼファーム

 十二月の末。

 国立魔術学院では、最高学年の五年生が主催するチャリティーイベントがあった。

 五年生が校庭でバザーや食べ物を売る屋台を出店し、一般の人を招くのだ。

 校庭に布製の大型テントが十ほど立ち並び、私はその中でチョコレートケーキの売り子を担当していた。

 チョコレートを練り込んだ生地の真ん中にアンズのジャムを挟み、全体をフォンダンしたチョコレートでコーティングしたケーキだ。

 ガツンとした甘さが、冬のおやつに丁度いい。


 学院の厨房で焼かれたケーキが、調理担当のクラスメイトによって次々に運ばれてきて、校庭で私達がそれを売る。


「こりゃ失敗したよ。スープ担当になれば良かったぜ」


 雪でもちらつきそうな寒さの中、ホールケーキを八等分に切りながらマックが愚痴を言う。

 吐く息まで白い。校庭でずっと売り子をするのは、なかなか辛い。

 何かの修行みたいだ。

 言われてみればスープ担当は商品が温かいので、チョコレートでカチンコチンのケーキより、幾らかマシに見える。


「でももっと良かったのは、厨房担当じゃない?」

「そりゃそうっしょ。キャサっちなんてちゃっかり厨房担当だしな。でもさ、俺がコレ焼いたら、大惨事になるからさ――あっ、いらっしゃいませぇ、ケーキいかがですか?」


 サッと笑顔になって、店の前を通る老夫婦にケーキを見せる。


 校庭には沢山のお客さんが来てくれていた。

 近所の人だけでなく、学院の父兄や友人たちも毎年、大勢遊びに来ている。

 クロウ家は王都から遠いので、来ていない。仕方がないとはいえ、来てくれた親に得意顔で商品を売るクラスメイトたちを見ると、素直に羨ましいなと感じる。




 校庭の隣にある車止めには、馬車がたくさん並んでいた。来校者が乗ってきた大小様々な馬車が、並んでいる様子はなかなか圧巻だ。

 そこへ新たに一台の、一際立派な馬車がやってきたので、校庭の生徒達の視線が吸い寄せられた。


「スゲーな、あの馬車。どこの家のだろ?」


 客から受け取った代金を、手元の蓋つきの缶に仕舞いながらマックが呟く。

 その馬車は非常に豪華だった。焦げ茶色の車体には、うるさいまでに銀の装飾が施され、馬車を引く二頭の栗毛の馬たちも、毛並みが良く、手入れが行き届いていた。


「俺の予想では、ジジババの(つがい)が乗ってるな。孫が可愛くて、何でも買っていくタイプと見た」

「ケーキの残り、全部買ってくれないかな」

「いいねぇ。甘党のジジババだと良いな」


 気がつくと売り子たちが手を止め、皆でその目立つ馬車の方を見つめている。

 馬車の扉が開くと、中から姿を現したのは一人の少女だった。

 マックが驚きの声を上げる。


「あれっ、予想外。女の子じゃん!」


 その瞬間、私は心の中で絶叫した。

 手に持っていたフォークが滑り、カツンとテーブルに落ちる。

 目にしているものが、信じられない。

 国立魔術学院の校庭で売り子をしているはずなのに、束の間自分がどこにいるのか、分からなくなる。

 薄紫色のドレスに、白い毛皮のマフラーを巻いた、綺麗な子。

 白い息を吐きながら、愛らしい微笑みを浮かべ、店の方にやって来ている。

 その光景に、息が止まった。

 ――ああ、まさか。


(嘘でしょ、こんなところで? あの子は…)


 何かにしがみつきたくなって、屋台のポールを右手で握り締める。


「ギディオン!」と高く澄んだ声で少女は手を振ると、真っ直ぐにクッキーを売る屋台に向かう。


「アイリス? 来てくれたのか……」


 焼きたてのクッキーを店頭に並べていたギディオンが、驚いたように顔を上げる。

 アイリスが私の目の前を突っ切り、奥の方にあるクッキーの屋台の前に立つ。

 急に底冷えを感じ、私は外套ごと自分の腕を抱きしめた。


(こんなに前触れもなく、もう貴女と会うなんて!)


 アイリス・ゼファーム。ゼファーム侯爵家の令嬢。

 ギディオンの幼馴染みだ。そして、前回はあと一年以内に聖女になった。

 もちろん、そんなことは知るはずもなく、アイリスは無邪気に笑顔を振りまいている。


「ランカスター公爵夫人から聞いたの! 今年はギディオンが売り子をやる年だって。ねぇ、お願い。学院の中を案内して!」


 アイリスはギディオンを店から引っ張りだすと、甘えるようにギディオンの腕に手を絡ませ、彼を見上げた。


「魔術学院の中をもっと見たいわ」

「店の売り子をしないと。悪いけどまだ抜けられないよ」


 ギディオンはアイリスの手からそっと自分の腕を引き抜く。その直後に大きな声を出したのは、同じくクッキーの売り子をしていた男子のクラスメイトだ。


「ギディオン、そのめっちゃ可愛い子、誰?」


 間違いなく浮き足立ったその声に、付近の屋台にいるクラスメイト全員の視線がアイリスとギディオンに向かう。

 ギディオンは苦笑しながら、答えた。


「うちのお隣の、ゼファーム侯爵家のアイリスだよ」


 ギディオン親衛隊の女子生徒たちが、ざわつく。みんなで口をヘの字にして、アイリスを値踏みするように見つめている。

 マックが私の肘をつついた。


「ギディオンの幼馴染み、すっごく綺麗な子じゃん」


 アイリスは、たしかに綺麗だった。

 緩くカールする髪は太陽の光のように艶やかで、白い頬は寒さからか薄く朱色に染まり、とても滑らかそうで、見つめているとその頬に触れてみたくなるほどだ。

 とりわけその大きく愛らしい瞳が印象的で、穏やかであたたかみがある、蜂蜜色をしていた。

 少し小柄だったが、あどけない少女のような甘い顔立ちとは対照的に、思わず視線が吸い寄せられるような魅惑的な体型の持ち主で、その危ういアンバランスさがまた、目を引く。


「やばい、惚れちゃいそう…」


 屋台にいる男子生徒たちが、鼻の下を伸ばしてアイリスを見つめている。


「皆様、今日はよろしくお願い致します!」


 アイリスは屋台の生徒達に笑顔を振りまくと、ドレスの裾をつまみ、膝を折ってお辞儀をした。薄紫色のドレスの裾が、空気を孕んでふんわりと広がる。その流れるような動きが、洗練されていて美しい。

 感心したようなため息を、数名の男子生徒が漏らす。


「どれもとっても美味しそう! わたくし、全部買ってしまいたいくらい」


「うわー、すっげぇいい子だし!」と男子たちが目尻をだらしなく下げている。

 アイリスは確かに、こういう子だった。天真爛漫な愛らしさで、狡猾な素顔を見事に隠して魅了していく。

 だが私には、特別な記憶がある。


「被告人、リーセル・クロウを死刑に処する」


 判決が言い渡された瞬間、絶望の中で私は確かに見た。アイリスがその薄紅色の唇をかすかに上げ、扇子の影で私の判決に微笑んだのを。

 あの邪気のない瞳で、澄んだ声で、汚れなど一切知らないような清楚な立ち居振る舞いで。あの子は、私を陥れたのだ。そして私が処刑されるという判決に、笑顔を見せた。


 もちろん今のアイリスには、その片鱗さえ覗けない。

 こちらまで口元を緩ませてしまいそうになる、弾けるような笑顔でアイリスは私たちの屋台を見て回った。

 彼女がケーキの屋台にやってくると、つい後ろの方に下がって、接客をしなくてもいいようにしてしまう。

 もっとも、鼻の下を伸ばした他の男子が割り込んできて、勝手に売り子をやってくれたので、私が下がらなくても結果は同じだったかもしれない。




 夕方にはチャリティーコンサートが開かれた。

 楽器が得意な五年生と教師、それに十人ほどの王立管弦楽団の団員が、無給で演奏に参加してくれるので、演奏は毎年かなり高いクオリティを維持している。

 私は楽器が得意ではないので、毎年一般客に混じって曲を聴く側だった。

 どうにかチョコレートケーキを売り切れたことに安堵しながら、私はマックとシンシアと一緒にコンサート会場のホールに行った。


 魔術学院には立派なホールがあった。

 木製の舞台が奥に設置され、真紅のビロードの幕がかけられている。舞台の前には、フカフカの座面と背もたれのついた、白い椅子が並べられている。

 天井にも細かな装飾がされ、田園風景や天使たちの絵が隙間なく描かれていて、美しい。

 前列の方はすでに観客で満席で、その中にアイリスもいた。

 なるべく彼女から離れたところに、席を取る。


 隣に座ったマックは、終始周囲を見渡し、演奏は全く耳に入ってきていない様子だった。というより、多分マックは演奏には初めから興味がないかもしれない。

 最初の曲は冬にぴったりの、重厚な宗教色の強い曲だった。

 窓の外の曇天を眺めながら聴くと、味わい深さが増す。

 次の曲は雰囲気が一転し、軽快な曲だった。席に座って聴いている生徒たちの表情も心なしか明るくなったように見える。

 チラリとマックを見ると、なんと彼は寝ていた。管弦楽には完全に興味がなかったのだろう。

 流石に演奏者たちに失礼なので、左肘をそっと動かし、マックをつついて彼を起こす。

 マックはハッと背筋を伸ばすと、目を手の甲で必死に擦ってなんとか眠気を覚まそうと踏ん張っていた。

 寝るまいとマックが目を異様に大きく見開いて舞台を見つめている中、始まったのはワルツだった。

 彼は嬉しそうにニッと笑うと、私の方に顔を傾けて小さな声で言った。


「『青いライヒ川』だろ、この曲。これなら音楽に詳しくない俺も知ってるぜ!」

「そうだね。人気のある曲だもんね」


 そう答えるのが精一杯だった。

 三拍子の明るい曲だが、ギュッと胸が締め付けられる。普通に聴けば心が躍るような、楽しい曲なのに。

 幼児でも知っているような、本当に有名な曲だ。レイア人なら誰もが大好きな曲だけれど。


 塞がったはずの傷から、蓋をした気持ちから、胸の奥から漏れ出てくるように、一つの記憶が蘇る。

 私にはこの音楽とともに、蘇る記憶があった。

 これは、かつて王宮で聴いた音楽だった。

 ギュッと目を瞑り、手をのせた膝の上に視線を落とす。


(大丈夫。これは、私にはもう来ないはずの未来だから……)


 あるいは、失った過去ともいえる。

 閉じた瞼の裏に、走馬灯のようにあの日々の光景が、押し寄せてくる。

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