第17話 見えない所でじゃれ合う ~濁り湯編~
「ふぁー……」
温泉に肩まで浸かりながら、チェリーは白い息を吐く。
濁り湯だから、謎の光の出番は終了した。
「きもちひい……」
「そんなにか?」
「そんにゃにでふ……」
声がふにゃふにゃになってやがる。
俺も続いて、チェリーの隣に浸かった。
「お……おおー……」
なんつーか……なんつーか、こう……。
「じゅわーって感じのアレだ……」
「語彙力なさすぎません?」
「やかましいな!」
チェリーはくすくすと笑った。
「でも先輩、国語は得意そうですよね。眼鏡してるし」
「眼鏡が頭いいとかいう古代の風潮やめろ。でもまあ、国語……っていうか、現代文は楽なほうだな」
「楽って?」
「勉強しなくてもできる」
「えー、そうですか?」
さっき陥った変な空気を払拭しようとするように、俺たちはいつもの調子で会話を重ねていく。
「むしろ現代文って、傾向と対策がものを言う教科だと思うんですよね」
「そうかあ?」
「カードゲームと同じですよ。テストを作る人によってメタがあるんです。『この人は素直に答えて大丈夫』とか『この人は深読みを要求してくる』とか」
「出題範囲じゃなくて出題者の問題かよ」
「出題者との心理戦ですよ、現代文は」
「カードゲームと同じねえ。そんな風に考えたことなかったな……」
湯の底に突いた左手の先に、何かが触れた。
爪がある。
細い。
隣に座るチェリーの指だと、すぐに気が付いた。
「ゲームに置き換えられることはたくさんありますよ。方程式はパズルですし」
「歴史は覚えゲーだしな」
「そういえば先輩って、成績大丈夫なんですか? ゲームばっかりしてますけど」
「オール4」
「え。結構いい……」
「体育以外」
「ああー……」
「納得すんな!」
「ちなみに私はオール5です」
「ドヤ顔ムカつく……!」
触った指をつんっとつつくと、つんっとつつき返された。
様子を探るように、つついてはつつき返されを繰り返す。
「先輩って、別に運動神経は悪くないんじゃないですか? アバターであれだけ動けるんですから」
「それな。俺もそう思うんだけど、球技が特にダメだ。飛んでくる攻撃魔法は簡単に見切れるのに飛んでくるボールは全然わからん」
「不思議ですよねえ。筋力の問題なんでしょうか」
「他の最前線組の連中だって、ほとんどは運動不足のオタクだろうに、戦闘中の動きは異常に機敏だしな」
「でもリアルでスポーツやってる人がゲームでも強かったって話もよく聞きますよねー」
ほんの少しだけ、手をチェリーのほうに寄せる。
つつき合っていた指を、第一関節で絡ませた。
チェリーの指も応じてくる。
「そういえばお前、あれ見た? アグナポットの」
「《ぼーし》さんとリアルプロボクサーの裸縛りデュエルですか? 見ましたよ」
「ぼーしの反応力ヤバすぎねえか? 《受け流し》着けてないんだろアレ」
「裸縛りですからね。VR環境への慣れもあるとはいえ、反射神経でプロボクサーと互角以上って、ホントすごいですよ」
「……まあ、俺でも反応するくらいならできると思うけど」
「あれ~? もしかして嫉妬しました? 私が他の人褒めたから?」
「してねえし!」
「ふふっ。先輩もすごいと思いますよ? アバターの操作精度だけは」
「『だけは』ってなんだよ!」
人差し指、中指、薬指、小指。
親指を除くすべての指を順番に、濁った湯の下で絡ませ合う。
「いやー、実際、思うことよくありますよ。『この人、この才能を別のことに使えないのかな~』って」
「使えないんだよ。そういうもんだろ」
「まあ、わかりますけど」
「お前だって大概だろうが。バージョン2の《クロニクル》に書かれたお前の指揮シーン、『さすがに盛りすぎ。こんな孔明みたいな奴リアルにいるわけない』って読み専によく言われてるぞ」
「あのシーンは実際あったことにかなり忠実なんですけどねー。MAOは『事実は小説より奇なり』を地で行くことがたまに起こりますから、《クロニクル》を書いてる人は大変だと思います」
「噂ではAIが書いてるらしいけどな」
「《NANO》ならやりかねないって思っちゃいますよね」
絡ませた手を、お互いに手繰り寄せた。
指の付け根と付け根をくっつけて、これ以上ないくらい、深く、強く。
でも、そこまでだ。
合図を出したわけでもなく。
契機があったわけでもなく。
俺たちは――同時に、一緒に。
そこで止まる。
「綺麗ですねー、空」
見上げると、満天の星々が頭上を覆っていた。
空なのに落ちていきそうな。
自分のいる場所がわからなくなりそうな。
どこまでも広がる夜空が、今ここにいる俺を、雄大な世界の中に溶かしていく。
ただ一つ。
絡ませた左手の感覚だけを残して。
「プラネタリウムみたい……って、逆か」
「間違ってはいませんけどね。仮想現実の空ですから」
「ああ、おう、でも――」
指にほんの少し、力を込めると。
同じように、ほんの少し。
きゅっ、と。
力が、返ってきた。
「――本当に、綺麗だ」
俺たちの関係には、きっとたくさんの名前が付いている。
妹の友達。
友達の兄。
学校の後輩。
学校の先輩。
ゲーム仲間。
ゲーム友達。
それらはどれも正しくて。
だけど、どれも正しくない。
俺たちはずっと、自分たちの関係に名前を付けないできた。
何か自覚のある理由があったわけじゃない。
ただ、なんとなく。
そうすることで失われるものが、何かあるんじゃないかって――
そんな風に、予感していたからだ。
俺たちのどちらかが、ほんの一歩でも、相手に近付けば。
俺たちの間にある見えない堰は、たちまちのうちに破れるはずだ。
そうして、俺たちを示す名前は決定する。
もう『カップルじゃない』と否定することはなくなるだろう。
それが怖いわけじゃない。
きっと幸せだと思う。
きっと嬉しいと思う。
ただ――
たぶん、意地みたいなものなのだ。
俺たちが愛する、俺たちのこの関係は。
『カップル』だなんて、そんな有り触れた、どこにでもある、辞書にも載ってるような一般名詞なんかじゃない、って。
自分の好きなものは、特別なものなんだと信じたい。
コア層向けゲームばかりに入れ込むオタクみたいな、そんな捻くれた意地だけが――
きっと、俺たちを最後の一線で留まらせていた。
「……ん?」
「どうしました?」
「いや……なんか今、温泉がほのかに光ったような」
「そうですか? 気が付きませんでしたけど……」
「気のせいだったかな」
空を見ていたから、温泉は視界に入ってなかったし。
少なくとも今は、白く濁った水面がたゆたっているだけだ。
月の光でも反射して、光っているように見えただけか。
「……うーん。ちょっとのぼせてきましたかね」
「そろそろ上がるか?」
「ん……はい、そうですね」
「それじゃ――」
「……もう見ないでくださいよ?」
「お互いにな」
温泉の縁に置いておいたタオルを手に取り。
俺たちは立ち上がる。
湯の中から水面に出るその寸前に、絡めた指はそっと離れた。
「うーっさぶっ!」
「さっさと出ましょう!」
ぺたぺたと裸足の足音を鳴らして、俺たちは脱衣所へ急ぐ。
……そういえば……。
この温泉について、キルマ村のNPCが何か言ってた気がするけど……。
――それより寒い!
瞬きの瞬間、浮かんで消えた簡易ウインドウに、見覚えのないバフアイコンが表示されていたようにも見えたが――
次に見たときに表示されていたのは、寒さによるSTRとDEXのデバフアイコンだけだった。