第16話 _人人人人_> 混浴 < ̄Y^Y^Y ̄
『男』
『女』
と大きく書かれた暖簾が、左右に二つあった。
「じゃあ先輩、ここで」
「おう」
女湯に入っていくチェリーと分かれて、俺は男湯の暖簾を潜る。
ここも廃墟のときと変わってるんだな。
六衣とのボス戦に来たときは、脱衣所って二つもなかったような……。
それを言ったら温泉もそうか。
インスタンスマップになってるのか?
と思って脱衣所を見回すと、
「「あ」」
目が合った。
女湯に行ったはずのチェリーと。
「えーと」
「あれ?」
二人揃って首を傾げて、潜ったばかりの暖簾から首を出す。
男と女……に分かれてるよな?
でも脱衣所思いっきり繋がってんだけど。
「どうなってるんでしょう?」
「さあ――」
そのとき、ピロン、という電子音が耳の中で響いた。
DMだ。
誰だ?
瞼を閉じると、届いたばかりのそれが暗闇に開かれた。
〈混浴モードにする裏技見つけたから準備しといてあげたゾ☆ 何も知らない振りをすれば不可抗力だ! ラブコメの伝道師ブランクより〉
「……………………」
あの白髪交じり……!!
「……えーと」
無意味な言葉で間を持たせながら、俺は瞼を開けた。
俺がブランクからのDMを読んでいたことはバレていない……はずだ。
混浴モードとやらを無事解除できれば何事もなく済ませられるが、その方法がわからない。
そう、わからない。
わからない。
わからないのだ。
だから、うん。
仕方がないっていうか。
「……あー」
不意に、チェリーが声を発した。
「ローカルウインドウ、開いてみたら、混浴モードってなってます、ねー」
「お、おう。そうか」
大丈夫か?
挙動不審になってないか。
「じゃあ、えーと……どうします?」
どうします、って。
順番に入ればいい。
普通に考えれば。
でも、そのう……。
あ、やばい。
目が泳いでる。
「……い、一緒に入るか? ……なんて……」
あああああ!
『なんて』ってなんだよ!
冗談にできてねえよ!
こんなもん、変態だとか罵られるだけ――
「……そ、ですね」
――え?
チェリーが、目を左下に逸らしながら、ほのかに顔を赤くして、確かに言った。
「混浴モードって、これ、戻し方わかりませんし。……し、仕方ないですね!」
「お、おう。仕方ないな!」
「あははは!」
「はははは!」
俺たちはわざとらしい笑い声を唱和させた。
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
未だかつて、これほどまでに緊張して風呂場に入ったことがあるだろうか。
チェリーに「先に行っててください」と言われた俺は、一人で浴場に足を踏み入れた。
腰にはタオルを巻いている。
そこはさすがにね?
アバターは垢が出たりはしないので、頭や身体を洗う必要はない。
さっさと温泉に入ってしまえばいい。
だが、俺はなんとなく、壁際に置かれた椅子に腰を下ろした。
目の前には鏡がある。
その下から温泉らしきお湯が垂れ流しになっていて、それを溜めるための桶が足元に置かれていた。
だけど、俺は何もしない。
ただぼーっと、鏡に映った自分を眺める。
こいつめっちゃくちゃ緊張してるな、っていうのが自分でもわかった。
平常心だ、平常心を取り戻せ!
……いや、無理無理無理!
だって、これからチェリーが入ってくるんだぞ!?
さすがにタオルは巻いてるだろうけど、あのチェリーが、裸で!
一体何度妄想し――ゲフンゲフン!
口が滑った。
思考だけど、口が滑った。
とにかく、平常心だ。
平常心を取り戻した者が勝つ(何にだ)。
――ガラッ。
深呼吸をしようとした寸前、脱衣所の扉が開く音が聞こえた。
……来た……!
無意識に、鏡の中に映る脱衣所の方角を見てしまう。
チェリーだった。
やはりタオルを巻いて身体を隠している。
だけど、いつもはツーサイドアップにしている髪を下ろし、ロングにしていた。
ちくしょう可愛いな!!
俺は目を閉じる。
ずっと見ていたら心臓が破裂しそうだ。
瞼の裏に一度は簡易ウインドウが現れるが、それも数秒で消えていく。
「――先輩」
背後から声が聞こえた。
いつも聞いている声なのに、今ばかりは耳に入るなり脳を痺れさせる。
「無視しないでくださいよ、先輩」
そんなはずもないのに、耳元で囁かれているみたいだ。
何でもない言葉すら艶めかしく聞こえる。
でも、さすがにそろそろ答えないと不審がられるだろう。
当たり障りのない答えを探そうとした、そのとき。
――パサッ。
そんな音が聞こえた。
まるで、布が落ちるような。
身体に巻いたタオルを、足元に落としたような。
「こっち見て、いいですよ……先輩」
え?
いや、でも。
今、お前――
……いや。
いや、いや、いや。
騙されるな。
どうせ下に水着着てましたとかそういうオチだ。
俺は詳しいんだ!
「人前で裸になるのって……思ったより、ずっと恥ずかしいですね。でも、先輩になら……」
え、裸なの?
水着着てないの?
そんなバカな。
もしかして、ガチか。
これはガチのやつなのか?
「ねえ、先輩、早く……」
だとすれば、先延ばしは得策ではない。
どうするにせよ、さっさと振り向いてしまわない限り、先に進まない。
うん、そうだ。
そうするしかないのだ。
俺は後ろに振り返りながら……。
ゆっくりと……。
瞼を、開けた。
そこには。
一糸纏わぬ姿のチェリーがいた。
ただし、どこからか射し込んだ目映い光が、胸と下半身だけ器用に隠していた。
「なっ、謎の光――――――っっ!!!」
「ぶふっ!! あはははははっ!! みっ、見えるわけないじゃないですかっ! 全年齢向けですよこのゲームっ! あはははははははっ!!」
腹を抱えて笑うチェリー。
その身体がどれだけ動いても、謎の光はぴったりと追随して胸と股間とお尻を隠し続ける。
「っくぁああああ~~~~っ!!!」
俺は悶絶してうずくまった。
や、やられた……っ!!
そういえばこれゲームだったああ……!!
「ぶっふふ! 見たかったですか? 見たかったですか、私の裸!? ねえ先輩っ! ねえってばぁ~」
「やっかましい!!」
もはや悪魔の声にしか聞こえねえ!!
「あ~笑った。背中見ただけで『あ、すっごい意識してるな』ってわかるんですもん。規制のことまで忘れるなんて」
「実際に見たことなんかねえんだから仕方ないだろ……!」
「ですよね~。先輩はゲームですら女の子の裸を見たことがない、汚れなき新雪みたいな人ですもんね~」
「む・か・つ・く……!!」
俺は顔を上げて、謎の光に包まれたチェリーを再び見た。
どこからともなく射し込んでくる光は、どれだけ凝視しても眩しいということがなく、なのに中身が透けることは決してない。
「……こうして見ると不思議だなー。グラフィックデータがそもそも存在しないんだろうけど……」
「みっ、見すぎです変態っ!!」
「いだっ」
頭をシバかれた。
その隙にチェリーは足元のタオルを拾って身体を隠す。
「なんだよ! 見えないんだから別にいいだろうが!」
「たとえ服を着てたとしたって、胸だのま……股だの、じろじろ見られたら恥ずかしいですよっ!」
「むう」
一理どころか百理くらいある。
「すまん」
「わ……わかればいいです」
さっきの名残で顔を赤くしたまま、チェリーの目が頻りにチラチラと下に泳いだ。
そして、少しの間を空けて言う。
「…………先輩も脱いでください」
「は?」
「恥ずかしい思いしたのが私だけなんて腹立ちます! 先輩も一回タオルを取るべきです!!」
「俺は今さっきお前に辱めを受けたばっかなんだけど!?」
「問答無用です! 殺してでも奪い取る!」
「な、なにをするーッ!」
チェリーの手が俺の腰のタオルをむんずと掴む。
きゃーっ! 痴女ーっ!
抵抗空しく、俺の聖域を守る純白のヴェールははぎ取られた。
どこからともなく射し込んでくる一条の光。
チェリーはそれをまじまじと見て、
「……おー……」
「何の『おー』だよ! 何にも見えねえだろ!」
「いや、まあ、その、なんとなく……」
「タオル返せ!」
「あっ、ちょっ、あぶなっ……!」
チェリーの手に握られたタオルを取り返すべく、俺は身を乗り出した。
のだが。
ここは風呂場である。
足元が非常に滑りやすい。
飛びかかった俺も、逃げようとしたチェリーも、揃ってつるりと転んでしまった。
「あぶねっ」
反射的に、俺は後ろに倒れるチェリーの頭を抱き込むようにして守る。
アバターだから、頭ぶつけたって死にゃあしないんだが。
でも、そのおかげで――
もとい。
そのせいで、俺たちはもつれるように倒れて……。
有り体に言うと、俺がチェリーを押し倒すような形になってしまった。
「……………………」
「……………………」
垂れ流しの温泉が奏でる水音だけが、辺りに漂う。
未だかつてないほど間近にあるチェリーの瞳が、俺の顔を見つめていた。
瞬きをしない。
できない。
目が乾かないというアバターの特性を十二分に使って、目の前の光景を脳に焼き付けようとする。
さらさらの糸みたいなピンク色の髪。
きらきらと輝く大きな瞳。
桜色に色づいた小振りな唇が、薄く呼気を吐いている。
男とはまるで違う細い肩。
浮き出た鎖骨にできた窪み。
その下を覆う謎の光は一定のリズムで上下して、確かにその中にチェリーの胸があることを想像させる。
すべてはただのデータだ。
MAOに収録され、バーチャルギアによって見せられているグラフィックに過ぎない。
「…………せん、ぱい」
だが。
目に見えるその姿に。
耳に聞こえるその声に。
手に感じるその体温に。
何もかもが痺れてしまっているこの俺は、確かに現実で――
――あれ?
体温?
チェリーの頭を庇ったのとは反対の手に意識を向けてみると、何か温かくて柔らかいものに触れていた。
チェリーのお腹だった。
規制に守られた領域のちょうど間隙を、俺は無意識に触ってしまっていた。
「んっ」
びっくりした拍子に手を動かしたら、くすぐったかったのか、チェリーが少し艶めかしい声を出した。
……あれ。
おかしいな。
男にはあまり縁がないが、大抵のVRゲームがそうであるように、MAOにもセクハラ防止機能がある。
胸やお尻、お腹や太腿といった場所を触ろうとすると、すげえ勢いで弾かれる上に凄まじい痛覚が叩き込まれるのだ。
だから俺は今頃、電撃を受けたお笑い芸人みたいにひっくり返って、悶絶していなければならないはずなのだが……。
そういえば。
聞いたことがある。
セクハラ防止機能は、特定のプレイヤーだけを例外に指定することもできるって――
「……お前……俺に触られてもいいようにしてんの?」
よせばいいのに、俺は思わず訊いてしまった。
瞬間、ほのかに色づいている程度だったチェリーの顔が、カーッと真っ赤になる。
そして、何も言わないまま。
顔を逸らすように、横を向いた。
……否定しないの?
言い訳もなし?
あのさ……。
あのさあ。
そりゃあ、俺は奥手だよ。
彼女なんて作ろうとも思ったことないし、恋愛なんて一度も経験せずに一生を終えるんだろうって思ってる。
そんなのはゲームで充分だって、本気でそう考えてる。
チェリーのことだって、周りがなんて言おうと、なんだかんだ気が合って、冗談を言い合えて、一緒にゲームができる、そんな、友達みたいな奴だって、そう思っている。
だけど。
だけどさあ。
さすがに、そんなことされたら、俺だって――
……タガの一つも、外れるっつーの……!
「……真理峰」
思わず本名で読んだら、チェリーがピクッと震えた。
顔がもう一度こっちを向く。
そして、長い睫毛が、そっと伏せられた。
躊躇えるほどの理性は、もう残っていない。
俺は、チェリーの顔に、自分の顔をゆっくりと近付けていく。
なぜか、俺の全身に震えが走った。
チェリーの身体もぶるりと震える。
でも、そんなことはもう意識には入らなくて、少し開かれた桜色の唇だけを―――
「「―――くしゅっ!」」
同時だった。
見事なタイミングで、俺たちは二人同時にくしゃみをした。
……忘れてたけど。
ここは露天風呂で。
俺たちは裸である。
寒っ!
一度そう感じたら、もうさっきの心境には戻れなかった。
まさしく冷や水を浴びせられた感じで、急速に我に返る。
俺は慌ててチェリーから離れた。
……俺。
俺、今。
ヤバくなかった?
え、なにこれ。
ほとんど記憶ない。
人間って極限まで興奮するとこんな風になんの?
チェリーがゆっくりと上体を起こして、指先で自分の唇をなぞった。
俺にはその仕草が名残惜しそうに見えて、また頭の中が過熱した。
でも、肌を刺す冷気に一瞬で冷却される。
「…………え、と」
チェリーは目を泳がせたあと、誤魔化すようにはにかんだ。
「温泉……入りましょうか」
「……おう」
頷く他ない俺だった。