42:別解の天才-2
「はぁ……はぁ……」
ギーリは私を抱えて走り続ける。
黒い混沌とした境界はもう私たちの視界に収まっていて、もう数分で辿り着く事が出来るだろう。
だが私自身は……
「うぐ……」
全身が痺れて、上手く動かす事が出来なくなっていた。
恐らくは多頭多腕のナメクジフィラの体を覆っていた粘液に麻痺毒が含まれていたのだろう。
呼吸が出来なくなったり、意識が保てなくなったり、歩くこともままならないと言うほどに強烈な痺れではないが……確実に私の動きを阻害してきている。
そのため、ギーリにはこれまで以上に慎重な立ち回りを要求することになり、疲労はピークに達していると言ってよかった。
「もう少し……」
けれどもう少し。
そう、もう少しで第8氾濫区域の外に私たちは出る事が出来る。
そうすれば、疲労を癒す時間くらいならば幾らでも取れるようになる。
私の贖罪も終わる。
私がそう思った時だった。
「……!?」
「ギーリ!?」
突然の事だった。
ギーリが私の事を前方に向けて投げ飛ばす。
「これ……は……」
それと同時に私の頭の中に近くの崖上から私たちの事を撮影したように見える映像が送り込まれてくる。
その映像には宙を舞う私、私を投げるギーリ、そして今正に物陰から跳び出そうとしている目の無い巨大ガエルのフィラが写っていた。
「t7う69g7!」
跳び出した巨大ガエルのフィラがギーリに向けて正確に、槍を持った人の上半身そのままの舌を伸ばす。
「あ……」
「……」
巨大ガエルのフィラの槍がギーリの腹に突き刺さる。
そして、腹に開いたのと同じ大きさの穴がギーリの両腕、片脚、胸に唐突に開く。
それは明らかに致命傷となる一撃。
この場にマトモな治療設備があったとしてもなお助かるとは言い切れないような傷だった。
「らるが……」
「あ、あ……」
「hhqs57!?」
そんな傷を負わされたのにギーリは私に微笑みかける。
自分に突き刺さった巨大ガエルのフィラの槍を両手で持って、大量の電気を流し込むことで感電死させる。
「qy9hq……」
「ありがとう……」
「だめ……それは駄目よ……そんなことは……」
ギーリの命が消えていくのを表すように、ギーリと私を繋いでいる赤い糸が霞んでいく。
私は実体のない赤い糸を掴もうとして、痺れている手をギーリへと向ける。
けれど、私が手を閉じるよりも早く……
「ばいばい」
私とギーリを繋いでいた赤い糸が消える。
微笑んだままギーリの身体が崩れ落ちる。
12枚の花弁が揃った紅い月の光がペアを失った私と、ギーリと巨大ガエルのフィラに降り注ぐ。
「いうあううりじえい あいyしえうす」
「……」
カメラ頭のフィラが私に近づいてくる。
私に抵抗する気はなかった。
ペアを失った時点で私の命は20秒で尽きる運命であったし、それ以上に私がこれまで第8氾濫区域の中で生きていようと思えたのは、ギーリと言う大人の体にされただけの赤ん坊を助けると言う目標があったからだった。
その目標が無くなった今……もう、私は生きたいという意思を失っていた。
「あll、あうbyふjlbsl」
カメラ頭の丸太のように太い腕が振り上げられる。
ああ、これが振り下ろされれば私の命は終わる。
親を殺し、沢山の人間を殺し、親友を盾にして、守りたいと願った命を守れなかった罪人の命が、これでようやく終わる。
「最悪のタイミングだよ。畜生め」
「えっ……」
「glぐzry?」
はずだった。
そうなるはずだった。
そうならなければいけなかった。
「もう少し早ければもっと違っただろうが」
なのにカメラ頭のフィラの胸からは黒い杭のようなものが一瞬だけ生えて消え、丸太のように太い腕は振り下ろされず、その身体は大きな音を立ててその場に倒れこんだ。
「本当にクソッタレだ」
気が付けば私の右手の手首からは再び赤い糸が伸びていた。
赤い糸の先はカメラ頭のフィラの背後に向けて伸びていた。
カメラ頭のフィラの背後にいつの間にか彼女が立っていた。
「お前もそう思うだろう。そう思うのなら……」
満開の紅い月を背にして、汚れ一つない銀色の髪を漂わせ、青い瞳を輝かせ、黒い爪の生えた手にタクトのような細長い黒色の棒を持った少女。
青を主体とした自然に存在する精霊や神々に仕える者の衣装を身に着けると共に、その衣装にはそぐわない首輪から伸びた鎖を風でなびかせている巫女。
自身は不死の呪縛に縛られると共に、敵対者とその周囲に対しては圧倒的な死を撒き散らす……『崩壊の魔女』にして氾濫区域崩壊の英雄。
辰砂イーダが私に向けて片手を伸ばした姿勢で、そこに立っていた。
「まだ生きることを諦めないでほしい」
「あ……あ……」
どうしてイーダがそこに立っているのかは分からない。
イーダが生きていること自体は理解できても、どうしてこの場に現れたのかが理解できない。
自分が助かった、助けられたという事は理解している。
これが身勝手な感情だということも分かっていた。
「どうして!」
けれど、それでもなお私はこの感情を発露せずにはいられなかった。
「どうして私様なの!どうしてギーリじゃないの!どうしてカーラじゃないの!どうして!どうして!どうして!!どうしてもっと早くに来てくれなかったの!!」
「っつ!?」
華奢な少女の体を地面に引き倒して、痺れが残る体で殴りかからずにはいられなかった。
「どうし……」
そうして気が付けば、私の全身からは力が抜けていっていて、意識を保つことすらも出来ず、その場で倒れこんだ。
02/21誤字訂正