22:潮の雨-3
「雨漏りが始まったな……」
「本当だね」
激しい雨音がする中、マンションを三階ほど上っただろうか。
見た目では大した変化は感じないが、複雑な通路に趣味の悪い装飾、それから元のカロキソラ島ではあり得ないという磯臭い雨はカラジェの精神を見る見るうちに削り取っているようで、複数対ある目が瞬きを行う頻度は確実に増えている。
「で、改めて確認なんだが、この雨はおかしいんだよな」
「うん、こんな磯臭い雨はカロキソラ島では降らないよ。雨そのものはスコールとして降ったり止んだりを繰り返して、降る時は今みたいにすごい勢いで降ったりするけど」
「なるほど」
さて、その雨だが……まあ、間違いなくローカルレゲスの影響は受けているな。
雨そのものは第8氾濫区域の外の雲から降ってきたものが境界を越えて、このエリアに降っているようだが、幾らカロキソラ島が小さな島だと言っても、降ってきた雨が磯臭くなるなど普通はあり得ない。
「問題は磯臭くなった結果としてどう言う影響があるかだよなぁ……」
俺は目の前に伸びる複数の通路の内の一本、ひどい雨漏りをして床一面が磯臭い水に覆われている通路に目を向ける。
さて、床や壁に隙間が無ければ、あそこで溜まっている水が他の場所に流れ出すこともあるだろうが、元々雨漏りするような建物だけあって、水が溜まることはない。
また、あの溜まっている場所だけ通路が大きく窪んでいて池のようになっているなら、気づかずに踏み込んで溺れる事もあるかもしれないが、きちんと通路はまっすぐに伸びているのでそういう事もない。
本当にただ磯臭い水が通路を濡らしているだけである。
果たして、それに何の意味があるかと言われたら……正直何も意味があるとは思えなかった。
「そもそもどうして磯臭くなるの?」
「んー、レゲスが関係ないのなら、海にある色々な成分が雨に溶け込んでいるって事になるが……」
「なるが?」
「ローカルレゲスが関わっているのなら、むしろ雨の成分が海と同じに……」
そこまで言って俺は一つの推測……海水に触れることは危険かもしれないと言う話を思い出す。
「「……」」
カラジェも俺と同じ結論に至ったのだろう。
一度俺の顔を見た上で、もう一度雨漏りをしている通路を見る。
「カラジェ。このマンションの中では雨水に触れないようにしておこう」
「うん、そうだね」
俺とカラジェは頷く。
その直後だった。
「冷たっ!?」
俺の首筋に雨水が一滴落ちた。
そう、ただ一滴の海水になった雨水が、俺の皮膚に触れた。
ただそれだけだった。
なのに……
「っつ!?イーダ!!」
「紐が消えた!?」
俺とカラジェを繋ぐ赤い紐が消失していた。
それはすなわち、俺とカラジェの命が失われるまでのカウントダウンが始まったことを意味している。
なぜ赤い紐が消えたのか、その理由など考えるまでもない。
それよりも今考えるべきは、どうやれば赤い紐を再び繋げるか、これだけである。
猶予は……20秒。
「拭くぞ!」
「うん!」
即座に俺は濡れた部分を服で拭う。
だが、赤い紐は繋がらない。
「流すよ!」
「分かった!」
すぐにカラジェが俺の背負っていた壊れた水鉄砲のタンクを外して、その中身を首筋に向けてひっくり返す。
すると……
「繋がったか……」
「ギリギリ……」
俺とカラジェの間に再び赤い紐が生じる。
「はああぁぁ……なるほど、そういう事か……」
「グロバルレゲス……って事でいいんだよね」
「ああ、そういう事になる」
赤い紐が再び生じた後、俺とカラジェは直ぐにその場を離れ、雨漏りをしていない場所を探す。
そして、その雨漏りをしていない場所で、先程起きた現象について話し合うことにする。
「このマンションのローカルレゲスは雨を海水にする。ただそれだけだ。だが、第8氾濫区域のグロバルレゲスが、このローカルレゲスを凶悪化させている」
「海水に触れたら赤い紐が切れてなくなる。って事だね」
「ああそうだ。おまけにただ拭うだけじゃ駄目で、体に付いている塩分を洗い流さないと再び繋ぐことも出来ない」
「そうなると新月の時にエリアが沈んで、沈んだ先に海水が溜まっていたのも……」
「このグロバルレゲスがあるからだろうな。エリア全体が沈んでしまえば、どこに逃げ込もうが、沈んだ後の水面に浮かんでいようが、お陀仏だ」
そして、こんなグロバルレゲスがあるならば、海からの脱出者が存在しないのにも納得がいく。
なにせたった一滴の海水でも体に触れてしまえば、その時点で赤い紐が消えて、ペアが解消されてしまうのだ。
ペアが解消されてしまえば、その時点で第8氾濫区域から脱出するための条件を満たせなくなってしまうし、20秒以上それが続けば命も失う。
つまり、多数のフィラが生息していて、それに襲われる可能性を考えるまでもなく、海からの脱出は不可能ではないが非常に困難と言う事になる。
だから、陸路での脱出者しか現状では存在していないのである。
「イーダ。雨が止むまでこの部屋で待っていた方が……」
「微妙なところだな。ここも何時まで雨漏りしないでいるかは分からない。だが窓からの脱出は……不可能か」
「じゃあ、進むしかないの?」
「そうなるだろうな。とにかく慎重に、雨水には絶対に触れないように気を付けて進んで、高速道路のエリアに入るしかないと思う」
「……。分かった。気を付けて進もうか」
「ああ、そうしよう」
海水を洗い流すための水は多く見積もっても後数回分。
だが、このエリアから逃げ出す道は一つしかない。
何時、何処で雨漏りが起きるかも、雨が止むかもわからない。
故に俺とカラジェはゆっくりと、慎重に、再び上の階を目指すことにした。