1:プロローグ
新章でございます。
『インコーニタの氾濫』。
それは世界各所で突然発生している災害。
突如として地面から混沌が湧き出し、周囲にあるもの全てを呑み込み、崩壊と構築が行われる悪夢。
インコーニタとはラテン語で不明を表す言葉であり、呑み込まれた領域に在ったものが何か分からなくなってしまう事から、そう名付けられた。
現実に起きてはいるが、あまりにも既存の常識から離れすぎていて、実感の湧かない災害。
これが世界一般の認識であり、氾濫に巻き込まれる前に持っていた私たちの認識。
そう、本当に突如であり、唐突でもあった。
『インコーニタの氾濫』が起きた時、私は使用人の娘であるカーラ、それに愛犬のメカラと一緒に庭のプールで遊んでいた。
私が改造した水鉄砲の強さにカーラがビックリしつつも凄いと褒めてくれて、メカラは暑いからもっと沢山の水をくれと言わんばかりに駆け回っていた。
両親はカーラの母親である使用人が笑顔で淹れてくれた美味しい紅茶を楽しみながら、今夜のパーティーはどうしようかと楽しそうに相談をしていて、どうするのかが決まる度にカーラの母親に指示を出していた。
みんな……そう、皆楽しそうだった。
世間の喧騒なんて気にせずに、海岸線で遊んでいる観光客たちの声をBGMにして、一日がゆったりと流れていくのを感じていた。
『インコーニタの氾濫』なんて私たちには無縁だと思っていた。
けれど……けれど、そう、気が付けば黒い液体のような何かがテレビで見た津波のように押し寄せて来ていてた。
それは私たちの家を飲み込み、両親とカーラの母親を飲み込み、メカラとカーラを押し流し、私一人だけを残して、世界の全てを飲み込んでいく。
燦々と降り注ぐ太陽も飲み込まれて、犬の尻尾か海月の触手か、あるいは花の花弁のように数本の紅い光を出した真っ赤な月に変わってしまった。
南国特有の暖かな青い空も、星一つ無い都市部の夜空を重苦しくしたような暗闇に変わった。
「何……これ……」
そう、本当に突如として、唐突に、突然に、世界は変わってしまった。
平和な世界から地獄のような世界へと。
幸福な時間から、不幸な時間へと。
「何なの……これ……」
黒い津波が過ぎ去った後に現れたのは見慣れた私の家ではなく、密林の植物たちと人間を含めた動物たちが融合させられ、所々で脈打つ赤い壁を持つ家だったもの。
「パパ……ママ……」
塀の隙間から見える海は血のように紅く、時折煙を上げる火山は赤い火柱を上げ、見覚えのない奇妙でグロテスクなビルディングが幾つも立ち並んでいる。
「メカラ……カーラ……何処……」
私の身体は震えていた。
寒さではなく恐怖によって。
自分一人だけがこの異常な世界に送り込まれた様に感じて。
そうして恐怖して、冷静さを欠いていて、どうすればいいのか分からなくなっていたいたから気付かなかったのだろう。
「tsちhs……」
何かが動く気配がして、私はそちらを向く。
「パ……パ……」
そこには私のパパの顔をした何かが居た。
そう、パパなのは上半身だけだった。
瞳は正気を失い、口からは涎を垂れ流しにして、胸から下は蛇の体にヤシの葉を何本も突き刺して手足や翅にしたような姿をしていた。
「qlrぁうび にゃyんw……」
「マ……マ……」
そしてパパの顔をした何かの蛇の胴体の先にはママの顔をした何かが居た。
正気を失った瞳に、涎を垂れ流す口に、腕と一緒に人の足を何本もくっつけた姿で、くっついていた。
「ぽどdぴfs……」
「いうあうあいyslql……」
「あ……あ……」
両親だったものが私を見る目に愛情など無かった。
それは美味しそうな肉を目の前にちらつかされた猛獣の目だった。
自分たちは私を食い殺すためにこの場に居るのだと理解している目をしていた。
「ysんrちしいしし!」
「rlvうぇyxyxyxyxy!」
「い、いやあああぁぁぁ!」
私は反射的に手に持っていたそれの先端を両親だったものに向けていた。
そして引き金を引いていた。
それが私が改造した水鉄砲よりも遥かに重い物だとも気付かずに、引き金がプラスチックではなく金属のそれであるとも気づかずに。
「「!?」」
「いやっ!いやっ!いやっ!いやっ!いやあああぁぁぁ!!」
放たれる物が無害な水などではなく、肉を穿つ金属の弾丸である事に気付かずに。
発せられる音が勢いのある水が空気を裂く音ではなく、火薬が炸裂して空気を震わせる音だと気づかずに。
「来ないで!来ないで!こっちに来ないでええぇぇ!!」
「「ーーーーー!?」」
私は何度も引き金を引いた。
目の前に居る両親だった獣がその動きを完全に止めても構わずに引き続けた。
撃ち続けなければいけない。
撃っていなければ自分が殺されてしまう。
そんな根拠のない思いと共に引き続けていた。
「はぁはぁ……」
やがて、撃ち出す弾が無くなったことで周囲は静寂に包まれた。
「あ、あ……あ……」
そして私はようやく気が付いた。
自分がしたことの重大さを、自分が何をしてしまったのかを。
「いやああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
私の前には両親だったものが地面と混ぜ込まれたミンチとなって、生気のない瞳で私の事を睨み付けるような形で転がっていた。