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23:折れずの竹林-7

「それじゃあ、イーダは今の姿になる前の記憶は殆ど無いんだ」

「ああ、名前は勿論だが、住所や生年月日、家族構成なんかも記憶から無くなってる。家族と一緒に暮らしていたって言う記憶はあるのにな」

 さて、大多知さんを待つことにした俺たちだが、大多知さんが氾濫区域の外でやる事は内容が内容であり、実行には相応の時間がかかる事は間違いなかった。

 なので長期戦になる事は分かっていたのだが……まあ、何事もなく紅い月の花弁が1枚2枚と増えていけば、流石に周囲に対して最大限の警戒をし続ける事は出来なくなる。

 と言うわけで、俺とツノは最低限の警戒心は残しつつも、極自然に会話をし始めていた。


「んー、そこまでないと、逆にどんな記憶が残っているのが気になるかな。教えてもらってもいい?」

「そうですね。それについては私も知りたいです。もしかしたら二人の名前を私が知っているかもしれません」

「そうだなぁ……」

 で、今は俺が混沌に呑まれてイーダになる前についての話である。

 と言っても、俺が覚えている事と言えばだ。


・俺は男だった。

・俺は現在高台となっている高校の2年生として通っていた。

・窓際の席に座っていた。

・唐傘と言う友人がいる。

・灰霧先生が数学の担任だった覚えはある。


 と言うぐらいである。

 他にも探れば記憶は出てくるのかもしれないが、手がかりも何も無しに思い出せる事と言えば、この辺りが限界である。

 で、そんな俺の話を聞いたツノと先生は。


「唐傘君と友人……ん?あれ?もしかして……」

「私の担当だった。混沌に呑みこまれて行方知れずになった……」

 どうやら何かしらの心当たりがあるようだった。


「何か有るのか?」

「う、うん。あるはずなんだけど……」

「ああ、うん、そう……ですね。これで間違いないはずですが……」

 だが、どうにも二人とも奇妙な顔をしている。

 まるで、在るべきはずのものが無かったような顔だ。


「その……ね。『インコーニタの氾濫』が起きた時、私は唐傘君と、それに唐傘君と仲が良かった男子生徒と話をしてたの。イーダの話通りなら……その子がイーダ……なんだよね」

「っ!?」

 ツノの言葉に俺は驚く。

 そう、言われてみればツノの顔には見覚えがある。

 三つ編みで眼鏡の図書委員だった彼女の面影がある。

 つまりツノは俺の名前を……。


「でも、思い出せるのがそこまでなの」

「そこまで?」

 だが、そんな俺の淡い期待はあっけなく砕けた。


「うん、そう。クラスメイトとして間違いなく名前は覚えていたし、名前だって何度か呼んだことがある。なのに、それ以上が思い出せないの。まるで思い出させはしないとでも言わんばかりに、邪魔をされている感じなの……」

「何だそりゃ……」

 ツノは悔しそうにしている。

 絶対に覚えているはずなのに思い出せないと言う事実に。

 この氾濫区域から脱出するための手掛かりあるいは鍵そのものであると言うのに、思い出せない自分のふがいなさに。


「三連さんもそうですか……」

「そうですかって事は……」

「もしかして灰霧先生も……」

 不可解な事が起きている。

 理解しがたい事が起きている。

 それはもう誰の目にも明らかだった。


「私は教師と言う職業柄、生徒全員……とまではいかなくても、自分の担当している生徒で、印象がある程度以上深い生徒ならば覚えています。そして、私の記憶では唐傘君と友人であった男子生徒の事はそれなりに優秀な生徒として覚えている、それに氾濫と同時に行方不明になった生徒の一人としても認識している、此処までの記憶はあるのです。なのに……」

「なのに?」

「その生徒が誰かを示すデータだけが綺麗に私の頭から抜け落ちている。まるでそんな生徒は居なかった。私の妄想に過ぎないと言わんばかりにね」

「……」

 しかもこの異常事態は混沌に呑まれていないはずの先生にまで起きている。

 此処まで来るともはやレゲスの存在を疑わずにはいられないレベルである。


「それでその……今の情報から三連さんの元も思い出せると思ったのですが……すいません。私が覚えているのは三浦と言う苗字までです」

「え、あ、はい……三浦……あ、本当だ……なんかしっくりとくる……」

「へー……」

 で、ツノの本来の名字が三浦と判明、と。

 ……。

 勿論、俺がツノの名前を覚えていない事を話す気はない。

 絶対に揉めると言うか、心証良くないし。


「しかしこうなると、後は名簿とかを頼りに探すしかない感じですか?」

「そうなるでしょう。幸いにして職員室は『インコーニタの氾濫』に巻き込まれていませんし、その手の資料を動かす用事なども無かったはずですから、そのままの位置に残されているはずです」

 だが、希望の芽が無くなったわけではない。

 俺の名前に繋がるものを消している何かの正体は分からないが、俺の名前が記されている資料が存在している事は間違いないのだ。

 ならば、後はその資料を探し出して、『インコーニタの氾濫』と同時に居なくなった生徒の中から精査すればいい。

 そうすれば、物理的な干渉を相手がしていない限りは、俺のイーダになる前の名前は見つかるはずである。


「そう言えばツノ。唐傘の奴は……」

「ごめん、イーダ。私は知らない。灰霧先生は?」

「……。唐傘君の名前は氾濫に巻き込まれて行方不明になった生徒の一人として覚えています。なので……」

「「……」」

 そして、この件に関係することで一つ気になる事と言えば唐傘の行方だが……どうやらこちらの望みは薄そうである。

 流石に俺もツノも唐傘も、混沌に呑まれたが、自分の意思を持ったまま別の姿になって生きていると言うのは……都合が良すぎる。


「と、随分と早かったですね」

「ん?」

「あ……」

 そうやって少々落ち込み気味だった俺たちの耳に壁の方から沢山の人が歩いてくる音がする。

 どうやら大多知さんたちが帰って来たらしい。


「灰霧君、ツノ君、イーダ君、今戻ったぞ!」

「「「……」」」

 空に浮かぶ赤い月の花弁は丁度9枚になったところ。

 つまりはたった3時間で大多知さんは50人近い自衛隊の隊員を連れて来てみせたのだった。

12/19誤字訂正

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