12:高台の高校-2
「さて、それじゃあ、改めて『インコーニタの氾濫』について説明するとしよう」
そう言うと、魚のヒレのような耳を持つ魚臭いオッサンが、黒板に張られた地図と表を指示棒で軽く叩く。
このオッサンの名前は
なお、保有するレゲスは体が発する臭いが魚のそれになると言うもの。
ぶっちゃけ、残念なレゲスだと思う。
「『インコーニタの氾濫』と言うのは、簡単に言ってしまえば特定の範囲内で物質の分解と再構築がアトランダムに行われる災害だ。範囲としては……直径にして4キロメートルか5キロメートルと言う所だな」
「案外狭いんですね」
「ああそうだ。だが、巻き込まれればただでは済まない。多くの場合では建物や地形と同化させられて絶命するし、それを逃れても今度は異形の生物になってしまうのが殆ど。俺たちのように自分と言うものを残して異形となる例は稀だ。それに空間がおかしくなっているのか、実際に歩くと明らかに元々の土地以上の広さがある」
さて、今俺が居るのは図書館二階の会議スペース。
俺はここで、俺と同じく異形ではあるものの自我を残している面々との顔合わせと情報の共有を行っている。
「まあ、レゲスって名前の妙な力含めて、詳しい理屈なんかについては、俺たちが気にする事じゃない。なにせ学者様にだって碌に分かっちゃいないんだからな。それよりもだ……」
「それよりも気にするべきは地形の変化と自我を失って本能のままに暴れる化け物たちの方、そうだろう?鮒釣のオッサン。ああっ……眠い……」
鮒釣のオッサンの言葉に隻眼隻腕で橙髪の女性が言葉を被せてくる。
女性の腰からは橙色の尻尾のような物が生えていて、それはまるで手のように動いている。
女性の名前は
レゲスはテンションの強弱に合わせて自身の尻尾が伸び縮みする事。
なお、片目は異形化の際に失ったそうだが、片腕については『インコーニタの氾濫』が起きたその日に、他の異形との戦闘で失ったらしく、赤いところが見える包帯が痛々しい。
「その通りだ。ユウコ。と言うか、眠いなら寝てていいんだぞ。本来ならこの後の地形変化に備えて、今は仮眠時間だからな」
「アレが一緒の部屋に居て、眠れるわけないだろう」
そう言うと朝駆さんが部屋の隅の方、まるでそこで照明が灯っているかのように眩しく光っている方へと目を向ける。
だが光っているのは照明ではなく、一人の剣を背負った状態で椅子に座り、そのまま腕を組んで寝ている男性である。
彼の名前はキンキラ、レゲスは自身から発している光が当たっているものの位置を把握できること。
一応、この避難所に居る、俺を含めた五人の自我持ちの異形の中では、最も強いらしい。
なお、歳は22だと言っていたが……名前含めて色々と怪しい。
悪い人物でない事だけは間違いないのだが。
「なら、説明は俺がしておくから、ユウコは寝ておくといい。お前は重要な戦力でもあるが、怪我人でもある。それも重傷者だ。出来るだけ安静にしておいた方がいい」
「そ、なら、寝させてもらうよ。この場は私が居なくても大丈夫そうだしね」
朝駆さんが部屋を後にする。
尻尾は……微妙に伸びている、つまり、この場を離れられることに対してテンションが上がっているらしい。
「話を戻そう。あー、俺たちが気にするのは地形の変化と自我を失った異形、それに高台についてだ」
「はい」
「まず高台についてだな。高台と言うのは、この高校のように『インコーニタの氾濫』の影響が出なかった土地だ。最大の特徴はローカルレゲスが存在しない事だな」
「それと、氾濫の時に高校の外に居たけど異形になったりせずに助かった、と言う人は、小規模かつ一時的な高台に居たんじゃないかって」
「へー」
「そんなわけで高台自体は複数存在しているんじゃないかと俺は思っているが……まあ、確認する余裕はないし、そんな余裕があるなら氾濫区域からの脱出を優先するべきであるし、俺たちはそちらを第一目標にしている」
高台にはローカルレゲスが存在しない、か。
となると高校に入った時に感じた、何かが無くなった感じは、ローカルレゲスが無くなったからか?
いや、それだと流血ホテルから商店街に移動したときに同じ感覚を覚えなかったのがおかしいな。
切り替わると完全に無くなるの差はあれど、それまであったローカルレゲスが無くなることに違いはないのだから。
「さて、氾濫区域からの脱出を目指す俺たちだが、その脱出を阻んでいる物もある。その主な要因が地形変化と自我を失った異形だ」
「はい」
まあいい、今はまず鮒釣のオッサンの話を聞く方が優先だ。
「地形変化は新月……紅い月が花弁をすべて失い、次の一枚が生えて来るまでの一時間、辺りが暗闇に包み込まれている間に起きる現象でな。高台である高校は動かないが……それ以外の地形がまるで別物になってしまう現象だ」
「別物になる?」
「何と言えばいいか……そうだな、同じローカルレゲスが適用されている場所を一つのエリアとするなら、そのエリアが再配置される感じだな。おかげで、どのエリアにどんなローカルレゲスがあると言う調査記録が無駄になる事は無いが、そのエリアの周りにどう言うエリアがあったと言う情報は無駄になるんだ」
「なるほど」
地形変化はそれだけでも相当厄介であるらしい。
だが、少し考えてみれば納得は出来る。
なにせ、昨日までは隣に商店街のような食料確保が出来るエリアがあったのに、新月が明けてみればそれが無くなっている、場合によっては立ち入る事すら危険なエリアになっている可能性だってあるのだから。
「そして、地形変化が厄介なのは、地形変化で高校の隣に現れたエリアに、危険な異形が居る場合が多いからだ」
「……」
そしてそれ以上に問題なのが、異形の襲来、と言うわけか。
けれどこちらも納得できる。
腹を空かせた異形にしてみれば、この高台にある高校は大量の食糧が存在しているエリアでしかない。
ならば後は自分に蹂躙できるだけの実力があるかどうかと異形は思い、自らのレゲスと言う圧倒的な力を背景に実行に移してくるのは当然の流れだろう。
「最初のエリア移動では数百人単位の行方不明者が出て、彼らは未だに帰ってこず、それに合わせて襲ってきた異形たちによって何十人と言う死者が出た上にユウコも片腕を失った。今回のエリア移動でも、調査の最中に少なくない数の人間が死んだり、行方知れずになっている事だろう」
鮒釣さんの手は固く握りしめられ、歯は食いしばるようになっている。
まるで己の無力さを噛み締めるように。
「だがそれでも脱出はまだ出来ない。要請を出す事すらも出来ない。情報があまりにも足りないからだ」
正直に言わせてもらおう。
俺は高校に来るまでは、高校に入りさえすればもう安心だと思っていた。
「情報不足のまま、物資が足りないままに脱出を敢行すれば、それこそ夥しい数の死者が出ることになるだろう。この三日間の調査だけでも、それは嫌と言う程に分かっている」
だがそれはとても甘い考えだった。
「イーダ君。既に大多知さんから言われているだろうが、俺からも改めて言わせてもらいたい。どうか私たちに力を貸してほしい。どうか、どうか、頼む」
此処は……最前線。
それも今正に砲火を交わし、剣戟を振るい、命を賭けて生存を勝ち取る鉄火場。
こんな何の力もなさそうな見た目の少女に、大の大人が頭を下げて助力を乞い願うような地獄だった。