第92話 生老病死
美濃国 稲葉山城
夏の終わり。
お満とラマーズ法の練習(15回目)をしていたら陣痛が始まった。
即座にお湯の準備や産婆が呼ばれ、こちらも万一の為手術の準備に入った。
地位的に誰にも文句は言われない(というか言わせない)ので側で待機し、お満の片手を握り声をかけながらの出産となった。
産婆はアルコールで消毒した上で側に待機。出産時に妊婦は体温が上昇し汗をかくので、陣痛が周期的に治まる時を見計らって水分補給をさせる。
少しずつ陣痛の感覚が短くなる。室内では「ひっひっふー」の声が響く中、ストローとかあったら便利なのにと悔しくなった。
普段とは違い、痛みに顔を顰めるお満。
必死に声をかけ、励ます。もう片方の手を豊が握る。要望されて、手を強く、普段なら痛いと言われるくらい強く握る。
お満と子供に、出来る限りのエールを送る。
頑張れ。頑張れ。
産婆がマスクでくぐもった声で、お湯の具合を確認させる。
フッとお満の表情が緩くなった。
真っ赤な皺くちゃの赤ん坊が全身をこの世界に現した。
臍の緒がまだ完全に切れていないため、ともすれば鎖に繋がれたようにも見える。
「男の子ですじゃ、若様!」
握った手を緩める。
「御前様……」
いつものような囁きが耳に入る。
「だ、大丈夫か!?辛くないか!?」
慌てる俺が面白いのか、お満は顔を見るなり笑い出す。
「先程から呆けた顔をしておいでですよ。……御役目、無事果たせました。」
「うん。うん。うん。」
言葉が出なかった。
父の騒々しい足音が近づくと、赤ん坊が泣き出した。
「よしよし、これで大丈夫ですぞ。さ、御母上様に一度抱かれなさい。」
産婆がお満に赤ん坊を手渡した。絶対に先にお満に抱かせてあげて欲しいと伝えていたのを覚えていてくれたようだ。
「見て下さい。可愛い子です。御前様の子ですよ。」
笑顔のお満を見つつ、渡された子をそっと受け取る。
小さい。肌がブヨブヨしている。蝶姫より少し重さを感じるが、それでも儚くて、すぐにでも手の中で溶けていなくなってしまいそうだ。
目だけがやけに大きく見える。
そして大音量で泣き出した。
「親子ですね。そこまで似なくても宜しいのに。」
豊が笑顔だ。
「大丈夫ですか御前様?泣いてらっしゃいますよ。」
なんというか、気持ちが言葉にうまくできない。
「お満、幸、豊。……頑張ろう。」
体調がまだ万全でないためここにいない幸にも向けて。
俺は色々なことを頑張らないといけないと。
そう思った。
ちなみに、俺の時以上に大声で泣いたのが父道三であった。顔を出した瞬間に凄まじい泣き声で、それでも近づこうとするのを小見の方と母の深芳野に止められ、脇を抱えられるようにして部屋を出て行かされていた。
叔父は「其方が産まれた時に父にしたのと同じ反応をこの子はしている。だからお前の子だ」と言っていた。
出産後のケアはこの時代問題があったので産婆に事前に仕込んでおいた。
まず産んだ母親は横になって寝られるようにする。母が俺を産んだ時は横にならず頭を高くしていたそうだ。そういうのは要らない。前々から準備していた綿入りの枕で横になって眠れるようにした。
更に産後の食事。これも粥がメインで質素だったので、食べやすい物にしつつ栄養価の高い物に変えさせた。
赤子に触れる者・物は煮沸消毒などを徹底。無菌室が作れない分寝床も毎日布は石鹸で洗うようにし、出来る限り清潔な環境にするよう配慮した。
大切な嫡男だ。何があっても対応できるように3交代で寝ずの番をつけて見守らせた。
乳母も信の置ける人物を北小路で修行した侍女に用意してもらった。お満自身も世話はするが、赤ん坊の相手は24時間365日無休になりかねない。休める時を作るためにも乳母との交代制にした。母乳から免疫を補うので、お満の母乳は積極的に与えるよう指示した。まだ名も無き我が子よ、暫しその乳、貸してやろう。
正条植えの成果が順調に出て稲が田んぼ全体で均一に成長しているとか、雑草が抜きやすいという報告を貰いつつ、幸を安心させたりお満と子供と過ごしたり父を出来る限り近づけないようにしたりして夏が終わった。
可哀想なので子の幼名だけは父に付けさせてあげた。喜太郎だそうだ。大丈夫か。髪の毛がレーダーになったり舌が異常に伸びたりしないだろうか。
♢
婚儀をしてからの圧倒的ハイペースぶりに父には「流石わしの子」とか妙に感心された。お満には「三人では足りませぬか?知り合いになかなか良い女子が」とか言われた。
まるで人を性欲の権化の様に言わないでほしい。妊活がこの時代では圧倒的に安定しているだけだろうに。
そして秋の終わりには火縄銃が届いた。平井宮内卿の嫡男綱正殿は鉄砲の使い方だけ習ってきたそうだ。種子島では領主のお抱え鍛冶師が必死に再現しようと試行錯誤していたそうだが、中学の授業で聞いた限りではネジで苦しんだらしいのでうちは問題ない。
砲身は棒に鉄を巻きつけて作り、今年が終わろうかという段階で再現に成功した。
ネジ作りを習熟していたのが効いたのだ。
「本格的に作り始めるは来年になってからですね。」
元国友の鍛冶師、大崎兵衛四郎はそう言った。種子島から綱正殿が火縄銃を買った少し後に根来寺の僧兵が来たそうだが、既に予備の火縄銃をうちが手に入れたために買えなかったそうだ。最初は2丁しか日本に来なかったのか、と歴史の裏側を見た気分だった。
♢
美濃国 大桑城
秋の収穫後に越前に向かった土岐の軍勢は早々に帰ってきた。夏の攻撃でも損害ばかり受けて帰ってきたが、今回も朝倉宗滴に大敗したそうだ。
何より問題視されたのが土岐八郎頼香様の戦死だ。山崎某なる足軽大将の突撃を受け止めきれなかったらしい。
総大将を務めた二郎サマは敵にいた土岐頼純隊を倒すのに夢中で、宗滴入道の部隊に揖斐様や稲葉殿、森殿が総出で当たってなんとか壊滅だけは防いだ格好だったそうだ。
「頼純め!ちょこまかと逃げるばかりで最後は背中を見せて逃げるとは!曲がりなりにも土岐一門ならば正々堂々と戦え!」
帰って早々に二郎サマは愚痴をこぼしていたが、土岐家中で親斎藤の一番手だった八郎頼香様の死は国人の邪推を招くのに十分だった。
父が守護代を辞めるかとなった時のことも含め、二郎サマと父の確執が表面化するのではと噂が流れた。
とはいえ評定では八郎様の冥福を祈り損害の報告を受け……という一般的な流れだけで終わった。
本題は評定の後だ。父道三と叔父道利、平井宮内卿が珍しく大桑城で揃った。城の留守居を他の人間に任せてまでここで話とは何故なのか。
「さてさて、此れを如何利用するか。」
「八郎様が亡くなるのは予想外でしたな……。兄上としては七郎様が亡くなる方が有り難かったわけで。」
いきなり物騒である。どちらも姉が嫁いでいるのだが。旦那が死んだら可哀想ではないのかと。
「問題ない。次はもっと良い縁を探せば良いのだ。死んだということはあの娘と生涯を共にする器ではなかったという事だ。」
あっはい。
「若様、戦での別れは武家の常に御座います。御姉上も覚悟はしておられたかと。」
「でも、やはり姉上には楽しい生涯を送って頂きたいです。」
「つくづく兄上から生まれたとは思えぬ性分をしておるな。子供に、特に男の子に泣かれるのは兄上そっくりなのだが。」
道利叔父、それについては大きなお世話です。
「さて、其れは其れとして如何動くか。状況を聞くに敵中に孤立したわけではない。」
「宗滴入道、流石の戦上手ですな。」
「この戦はあくまで朝倉に損害を強いる事が目的であった。実際夏には戌山城周辺の刈田が成功しておる。」
「其の上で、我らが如何程の利を得るかですな、兄上。」
「宮内卿、何か妙案はあるか?」
「然らば、喪主を御息女にして其れを実父として御支えなさるのは如何でしょう?」
平井宮内卿は八郎頼香様の葬儀で、姉を喪主にする事を提案した。そして、それを父道三が補佐する事を示したのだ。
「わしが喪主を支えるか。で、八郎様の土地をそのまま手に入れるか?」
「いいえ。土地はそのまま太守様に御返ししましょう。」
「……其方、悪辣よのぅ。」
「何故です?そのまま土地を返せば……あっ!」
確かに悪辣だ。姉上が喪主をするのは自然とも言える。だがその後その土地を求めなければ太守様も何かしら姉上にしなければと考える。
「仮に何もなくとも化粧田は返ってくる。其れは其れで良いのだ。彼奴が女地頭となるなら其れも良し。」
「左様。殿は結局損しませぬし、土岐への忠誠が高い国人へ土岐一族を尊重する姿勢を見せる事が出来まする。」
その一言を聞く父の表情に忠誠心なぞ欠片も見えないのだが。しかし、以前父が言ったように結果から何を生み出すか、何を得るかを考えるということだろう。
「二郎サマは決して戦下手ではない。だが、宗滴入道が相手だったのが悪かった。あれが死なねば朝倉は崩せぬ。」
「でしょうね。名将では表現できぬ程の御仁です。」
戦国ゲームでも恐ろしい程能力が高かった。二郎サマを見た覚えはないが、文字通り桁違いに実力が違うということだろう。
後日、葬儀の後で太守様から姉上の名義で八郎様の領地の一部が下賜された。
姉上と八郎様の遺児は女の子だが、引き取ったとはいえ土岐一族なのでこの子を育てる為にも必要と判断されたのだろう。
結局、父は今回の結果を利用して勢力を拡大し。
またもや敗将の汚名を着ることとなった二郎サマは、暫くの間評定で響く歯ぎしりを抑えられなかった。
種子島に来た火縄銃2丁は矢板金兵衛の1丁と斎藤氏が確保した1丁で終わりです。
堺には当分来ませんし、当然ですが将軍の元に届くのも時間がかかるでしょう。
さり気なく歴史が大きく変わりました。本人にその気はありません。(火縄銃の伝来が2丁なのも知らないくらいなので)
嫡男喜太郎誕生です。史実とは結婚相手も違えば産まれた時期も違う彼はどんな子に育つでしょうか。
木曜の次話は1544年まで進みます。正条植え関係も子供が産まれて火縄銃も来てそれどころじゃなかったわけですが、少しずつ動き始めます。