第83話 信秀の掌の上
三河国 安祥城
弾正忠家は破竹の勢いで東三河を席巻しつつあった。
織田信広が前線の大将として鵜殿氏の上ノ郷城に攻めかかり、北部の山間の地域には佐久間全孝が入って今川方についた足助の鈴木氏を攻めた。
佐久間には寺部城主鈴木重教と亀山(作手)城主奥平貞勝、更には菅沼定継や父を隠居させた菅沼定村らが呼応し弾正忠家に加勢した。
彼らは足助や今川方についた国人を一掃した。上ノ郷城の背後の牧野氏も公然と弾正忠信秀につくと宣言したため、上ノ郷城は四面楚歌に陥った。
包囲から2ヶ月で城主鵜殿長持が自身の首と開城を行う代わりに一部城兵と妻子を義元の下に逃すことを条件に降伏。弾正忠の軍勢は鵜殿長持の死でほぼ無傷で城を得た。
そんな圧倒的優勢の織田信秀の進軍を止めたのは、既に織田方に寝返ったはずの戸田氏の一族だった。
「で、今橋の城は我らへの明け渡しを拒否したか。」
「誠に申し訳御座いませぬ。面目次第も御座いませぬ。」
弾正忠信秀に頭を下げるのは現戸田氏宗家の当主戸田康光である。
問題となっているのは戸田宣成という男で、今橋にある吉田城の城主である。
彼は松平清康(広忠父)の死後に混乱した三河で牧野氏からこの城を奪った戦上手である。
戸田氏宗家の織田弾正忠家への降伏後も同じ「弾正忠」を自称できる胆力の持ち主であり、戸田氏より先に織田方についていた牧野氏にとって因縁の相手でもあった。
「では、城を攻める他ないな。牧野氏とも揉める故代わりの地を用意することも出来たが、使者を城に入れもせぬなら容赦はできぬ。」
「我らが先鋒を務め彼奴を引っ張り出し謝罪させます故、何卒命だけは!」
その言葉に、しかし弾正忠信秀は眉間の皺を深くするのみである。
「……許しては、頂けませぬか。」
「これは貴殿の為でもある。宗家を蔑ろにする者を許しては、今後三河の水運を任せる貴殿に従わぬ愚か者が出るやもしれぬ。それは我らに逆らうということだ。貴殿の責任も問わねばならなくなる。」
「だから敢えて厳しく処断なさる、という事でしょうか。」
「左様。今ならば戸田宗家から独立した不届き者を弾正忠家と共に成敗した、ということにできる。」
「畏まりました。では御命令通りに。」
「うむ。先陣はお任せしよう。」
「では、我ら粉骨砕身弾正忠様の為戦わせて頂きます。それと、お願いが御座います。」
「ほう。何かな?」
お願いという言葉に、弾正忠信秀はわざとらしく目を見開いて問いかける。
「我が娘、真喜が年頃ながら嫁に嫁ぐ相手が決まっておりませぬ。何方か良き相手を御紹介頂けますれば家中もより奮闘出来るかと思うのですが。」
「成る程。ならばうちの信広に如何だ?あれもまだ相手が居らぬ。」
「ま、誠に御座いますか!?其れ程の良縁はそうそう御座いませぬ!」
驚きに開いた口が塞がらない戸田康光に、弾正忠は近づいて肩を叩く。
「今後は三河を我らが差配する。戸田の皆には世話になる故、此方としても有難い申し出よ。」
弾正忠信秀は、頭を下げた戸田康光に見えないようにほくそ笑むのだった。
会談が終わった後、弾正忠信秀は林佐渡守秀貞を側に呼んで耳元に囁いた。
「三河と遠江の水運を我らで掌握せねばならぬ。佐治と戸田の水軍をうまく競わせつつ主導権を握れるよう今から動き始めよ。」
林佐渡守は、小さく頷きその場を離れた。
♢♢
遠江国 掛川城
今川義元にとって、大きな山場が近づいていた。
今も若さ・未熟さが残る彼にとっての正念場。それがこの戦の意味であった。
遠江の堀越今川氏。今川了俊という南北朝時代の名将を輩出したこの分家は、義元の家督継承に異議を唱え続けていた。
現当主堀越氏延の父堀越貞基は義元の対抗馬だった彦五郎に味方した為5年前に義元に討たれた。
それでも堀越氏延は義元に反発し、井伊や飯尾を味方にし北条と斯波の支援を得ていた。
彼らを滅ぼさねば自分は終わる。そう義元は理解していた。遠江の支配が安定しない限り北条から河東を取り戻すことは不可能だし、斯波の侵攻を防ぐことも出来ない。三河にいる今川方の国人支持も崩壊することになる。
今川義元は遠江へ兵を送る為全力でその状況を作り上げた。北条氏綱が再び体調を崩した情報をいち早く察知すると里見・小田・佐竹・成田・長野らへ文を書き、里見の出兵を取り付け長野業正らを成田氏支援に武蔵へ出兵させた。小田も千葉氏へ攻勢に出た事で北条の動きを封じた上で武田信虎の援軍を要請し、信虎らと共に遠江の朝比奈泰能らと合流して7000で堀越氏延の居城を目指した。
堀越氏延は松井氏が今川方に合流するのを防ぐべく井伊直宗・飯尾乗連らと共に4000で松井氏居城の二俣城を攻撃。若き松井宗信はその圧力に抗しきれないと判断し二俣城を放棄して手勢と共に義元の下へ逃走した。
4月の終わり、犬居を落とし原野谷川以西を押さえた堀越勢5200に対し、掛川城に入った今川義元は1か月の睨み合いを終わらせようとしていた。
「鵜殿が討たれた……東三河はこのままでは斯波に奪われよう。最低限遠江を失わぬためには今攻め込む他ない。」
義元は武田信虎・朝比奈泰能・岡部親綱・安部信真らを集めこう切り出した。
「兵力はこちらの方が多う御座います。ただし、弾正忠が来れば優位は失われましょう。」
「しかし、敵がいる原川城はなかなか厄介な城だと聞くが。」
遠江には疎い信虎の質問に対し、遠江国人の筆頭格でもある朝比奈泰能が答える。
「原川城は北西の堀は実はあまり深くありませぬ。あの一帯は湿地故そもそも敵も近づこうとしないものと考えられて造った物でして。堀は膝くらいまでしか深さがありませぬが、湿地の泥が入る故深さが見えぬのです。」
「ならば、そこから攻め込むか。上流から兵を渡河させ背後に回り込ませよう。」
「義父殿には対岸で敵を引付けて頂きたい。岡部、迂回は其方に任せる。」
「御任せ下さい。息子の元信も初陣なれば、勝ち方を見せねばなりませぬ。」
「渡河は敵に見つからぬことを重視せよ。焦って勝機を失ってはならぬからな。」
斯波の侵攻がありながらも焦りを見せない義元の様子に、信虎は彼の才覚は並のものではないと感じていた。それだけに北条と斯波を敵に回してしまった現状をもったいないとも感じていた。
5月2日、堀越氏の軍勢が陣を布いた原川城に上流から迂回した岡部親綱の別働隊が奇襲を敢行。直後に渡河して本隊が攻め込んだため、堀越方は井伊直宗や浜名頼親が戦死するほどの大敗を喫した。
その後二俣城下へと義元の指示で戻った松井宗信が城を奪還。天竜川に防衛線を張っていた堀越勢は後背を突かれる形となった。飯尾乗連は曳馬城に戻る最中に松井・安部の軍勢に追いつかれ討死。その余勢を駆って曳馬城は落城し、乗連の子飯尾連竜は妹と共に三河に逃げ込んだ。
居城の堀越城を失った堀越氏延は三河へ落ち延び、息子を失った井伊直平は娘と後継の直盛を義元に人質として差し出すことで赦された。
曳馬城は義元に接収され、鵜殿長持の遺児長照が入城した。
♢♢
三河国 吉田城
その報告を、弾正忠信秀は目を閉じて黙って聞いていた。
「堀越殿は吉良様を頼りました。飯尾連竜殿は曳馬城奪還のため力を貸してほしい、と。」
報告が終わった彼は目を開けた。
「ほぼ、狙い通りか。気になるのは堀越か。北条を頼る気か、吉良では頼りにならぬだろうに。」
「牧野殿は約定通りで宜しいので?」
「うむ、牛久保城を与えよ。今年は三河の完全な安定を狙う。」
側に控える林佐渡守は、その言葉に家臣の抱く疑問を代弁する。
「遠江の事は良いのですか?」
「思った以上に今川義元という男は優秀だ。あまり大軍を出せない今、勢いのある今川と戦うのは早計が過ぎる。」
「一年で三河は安定しますでしょうか?」
「してもらう。その為に三河の戦場を二年無税にしたのだ。今川にはそこまでする余裕はない。如何しても民か、或いは誰かが割りを食わねばならぬであろう。」
吉田城の城下も含め、三河各地では現在立札が立てられている。弾正忠家が戦場となった各地に対し二年の無税を示したためだ。国人たちの大部分は戦に自領が巻き込まれていないことから、追従する必要がないため反発もなかった。
「真の強者とは、選べる道の多い者よ。来年も我らの優位は揺るがぬ。時間は決して我らの敵にならぬのだ。」
先程の立札の下に晒された戸田宣成と菅沼元直、そしてその一族の塩漬けの首を、烏が首をかしげながら眺めていた。
堀越今川は史実より粘りましたが、今川義元という傑物の才覚の前に崩壊しました。
しかし、そもそも史実より遙かに情勢が安定している織田信秀相手にはどうしても後手後手になります。
堀越の軍勢が4000→5200に増えたのは、東部に堀越氏が残した部隊と合流して義元と睨み合ったためです。
雪斎は河東の北条軍を牽制していますので一連の流れでは反北条の外交にしか動けていません。