第80話 平和を願う者の戦争 下
河内国 太平寺
馬はとても遅いながらも、少しずつ近づいて来た。はっきり言えば討とうと思えばいつでも討てる。弓を番えた兵は待機したままだ。なのに彼らは歩みを止めない。
「一度お会いしたいと思っておりました。」
いつ殺されるかわからない状況なのに、武器を構える様子もない。
「敵味方になってしまったのは不幸だったか、幸運だったか。」
戦場の喧騒が、不思議なくらいこちらに聞こえなくなっていた。
「とにかく、死出の旅路を前に最も望んだ送り人に会えた。」
「何故……何故……」
自分の思いや考えは言葉にならなかった。どうして敵同士なのに逃げようとしないか、とか。どうして自分のことをそこまで買っているのか、とか。どうしてそこまでボロボロなのに笑顔なのか、とか。
「貴殿はこういう状態であれば敵味方問わず救うことを考える御仁だ。槍も刀も構えない限り、御話することはできると思いましてな。」
彼の言葉は止まらない。兵たちもその雰囲気に呑まれた様で、誰もどうするかすら声をかけて来れずにいる。
「この首は後で手柄にして頂きたく思いますが、両脇の2人は優秀な兵に御座います。治せる限り救って頂きたい。」
その言葉に僅かに反論しようとした2人の武者は、しかし木沢長政の表情を見て押し黙った。その笑みは多くを抱え死の淵にありながら、しかし希望に満ちたものだった。少なくとも、前世で手術を終えた未来ある少年少女が良くしていた表情だった。
「典薬頭殿、戦無き世は難しゅう御座いますよ。少なくとも貴殿が医師のままでは到底成し得ませぬ。」
当たり前だろう。現状ですら医師の卵を育てながら父の守護代の仕事の手伝いをして、その合間に新しい技術や薬の実験や試行錯誤を繰り返している。これで精一杯だ。
あと2、3年で医師の育成はいち段落つく。その頃には守護代の仕事が増えるだろう。医師としての活動は減らさざるを得ない。
互いの細かな表情まではっきりと目視できる、空堀の前まで木沢長政がやって来た。
遠くからではわからなかったが、その眉間は僅かに皺が入り、時折顔を歪ませることから痛みがあることは容易に想像できた。
それでも、彼は笑顔のままだ。
「医師としての心を捨てろ、とは言いませぬ。しかし貴方は、貴方が為したい民の安寧には医師では届きませぬ。」
「ならば……ならば如何すれば良いと仰るか?」
「天下人になるのです……天下人だけが、民を安んじ戦無き世を作れるのです。」
天下人。織田信長ですら届かず、豊臣秀吉と徳川家康2人だけが辿り着いた戦乱を終える極地。
「己が天下の差配をする必要は必ずしもないかもしれませぬ……。なれど、天下人でなくば日ノ本から戦は無くせぬのです。」
確かに江戸幕府約250年の太平を築いたのは徳川家康が天下人だったからだ。平清盛も、源頼朝も、足利尊氏も、足利義満も、天下人にはなれなかった。
「この身では天下人には足りぬものが多すぎました……。時も、力も、人も、何もかも足りず、道半ばで終わりました。」
医師は人が救える。では、日本全体を救うのが天下人なのか。
「貴方が日ノ本を思うなら、天下人になるか、天下人を育てねばなりませぬ。医師のままでは、日ノ本の数多の歪みは正せませぬぞ……!!」
両脇の武士に彼は目配せし、2人はそれを機に馬を降りた。腹から血を流している兵は使命を果たしたためかその場で膝をつき、力を抜いて荒い息をついた。
「すまぬ鶏冠井殿。その忠義に報いれぬこと地獄からお詫び致すことにしよう。」
「か、構いませぬよ。死ぬほどでは御座らぬ。」
「それでも、な。」
そう呟くと、彼は馬から落ちる様に降りた。それでも2本の足で立っているのは、意地か消えゆく命の最後の輝きか。
「頼みがありまする。この命、貴方に討って頂きたい。そして、この身が分不相応に願った戦無き世の願い、代わって貴方に成し遂げて頂きたい。」
「な……にを……」
「真に戦を無くしたいならば!医師としての己をも超えて!天下のために尽くされよ!!」
どこからそれほどの声を出しているか、視界に入る十兵衛や芳賀兄弟もその迫力に気圧されている。
「天下人でなくても良い!ただ、戦無き世を願う誰かに、日ノ本の呪いを、解いていただきたい!貴方なら、出来るはずだ!!マムシと呼ばれる男の息子に生まれながら!戦を求める武人に染まらず、民を思うことのできる貴方なら!!」
「その様な大それたことは出来るとは思っていません!ただ、自分の周りにいる人たちに、幸せが良い人生になって欲しいだけなのです。」
木沢長政は空堀を歩き、遂には柵にかじりつくようにして目の前までやって来た。柵に寄りかかりながら、柵越しにこちらに強烈に訴えてくる。
「貴方はそう言いながら、多くの見知らぬ誰かをも救っておられるではないですか……。覚悟を決められよ!その医は仁にして民を救う力!なれど貴方の力は、貴方の仁は日ノ本を救えるものだ!それはただの仁術に非ず、人を救うという心あるが故の仁!」
「救える限りは救いたい!でも私はそこまで優秀な武士ではない!」
「ならば天下人を支えられよ。この身には同じ志を持つ友も、味方も足りなかった。なれどまだ若き貴方には、必ず同じ想いを持つ者が現れましょう!」
彼の瞳から、何故か炎が見えた気がした。
「それほどの力と心を持ったは最早天命!正しく使うはこの世に生まれたる使命に御座いますぞ!」
「天命……使命……」
突然戦場の音が聞こえた。ここに近づく一団がいる。旗指物は畠山、それも遊佐の一隊である。
「継がぬなら民はもう数十年も戦に巻き込まれ、天下人を待たねばならなくなりましょう。貴方が出来ぬというのなら、貴方が育てるのです!貴方の仁を!受け継ぐのです!」
「天下人を、育てる……」
「そこに、この身の想いを、ほんの僅かでも、載せさせて頂きたいのです!!」
右足に刺さった矢、左肩に刺さった矢、右腕部分の切れた鎧の一部、左のこめかみから僅かに流れる血。
顔色含め、絶対に助からないであろうその姿に、それでもと想いをこめるその言葉に。
「わかりました。その想い、必ず次に繋ぎます。」
何故もっと早くこの人と会えなかったのかと。会って何か変えられなかったのかと。俺はただ唇を噛むことしか出来なかった。
その瞬間、彼の体から何かがすっと抜けたように見えた。
「感謝致す……これで地獄の沙汰も怖くありませぬ。」
穏やかな顔で、声で彼は言う。
「御礼と言っては余りにも小さいものなれど、この首獲って誉れとして頂きたく。」
少しずつ体の力が抜けている。限界を超えてなお気力で保っていたそれが、急速に失われているのだろう。柵に掴まる手が力を失っていく。
「この意志、重く面倒で終わりが見えぬものなれど、継いで頂こうという身勝手を押しつけさせて頂くこの身を、決して御許しなさるなよ。」
その言葉を確りと耳にした上で、俺はいつの間にか用意していた十兵衛から受け取った槍で彼の胸を突く。
視界が滲むのに、いつも狙いが定まらない槍が綺麗に心臓部に突き刺さった。
その顔は、何故こんなにも満足気なのか。
「敵大将、斎藤典薬頭利芸が討ち取ったっ!!」
この身に生まれて初めて、俺は自分の手で人を殺し、その業と想いを背負うこととなった。
天下人という言葉の文献での初出は江戸時代初期ですが似たような言葉は戦国期から散見されますので使っています。「幸せ」という言葉も使い方が若干使うみたいなので「幸せが良い」としています。意味としては同じと捉えて支障ないです。「医は仁術」もかなり昔からある言葉のようです。
木沢長政については色々と設定もあったのですが本筋から外れるので結構バッサリカットしました。
前々から主人公の行動に注目してたのもあってこういった言動になっています。
「色々なものが与えられなかった場合の義龍」が本作の木沢長政という人です。
前世での主人公は助けられなかった人を「殺した」という感覚で捉えているのでこういった文になっています。当然ですが殺人とかはしたことがありません。
医師としてだけでは救えないもの、そのへんについてより広い視野をもって今後彼は戦っていきます。
木沢長政の乱、太平寺の戦いはこれで終わりです。
次は戦後処理や畿内情勢などになります。