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第77話 絡みあう思惑と変わりゆく歴史

本日で年末年始連続投稿は終わりです。やはり毎日投稿は大変だと身に沁みました。


全編三人称です。

挿絵(By みてみん)


 2月半ば、織田弾正忠信秀は年始の挨拶で武衛様こと斯波義統しばよしむねに宣言した東三河征伐に自ら大将として乗り出した。

 その軍勢は西三河の佐久間全孝(ぜんこう)や一部の松平氏、そして同盟者の吉良義安きらよしやすらが加わり、総勢1万という大軍となって東三河に進入した。


 最初に狙われたのは鵜殿長持うどのながもち上ノ郷(かみのごう)城であった。鵜殿氏は周辺国人に援軍を要請。更に駿河の今川本家にも援軍を要請した。


 しかし堀越今川氏が反発し領内の通行を認めない姿勢を見せたため、今川義元は

 自ら大将として2500で遠江に向かった。太原雪斎たいげんせっさいを留守居として再び活動を開始した河東の北条軍と対峙させつつ、武田信虎に援軍を要請するのであった。


 ♢♢


 三河国 上ノ郷城


 鵜殿長持は周辺領主からの文を見終わると大きなため息をついた。

 側に控えていた部下がその表情を見て同じような暗い顔になる。


「援軍は来ませぬか、殿。」

「東三河では腹痛が流行っているらしい。土岐の典薬頭に味方しておれば今頃国人たちも元気に戦えたかもしれんな。」


 奥平・菅沼・牧野など、東三河の諸領主は殆どが陰陽凶兆が悪いか腹痛により動けないと言って援軍を送れないと連絡してきていた。

 だが無理もない。彼らの軍勢が領内を空にする規模で集まらなければ相手と並ぶ兵数にはならない。それほどに動員力に隔絶した差があるのだ。


「とはいえ、一度も戦わずして降ることはありえん。義兄の窮地だからと見捨てれば民からも笑い者にされよう。」

「……せめて数日は耐えてから開城を条件に駿河に落ち延びましょうか。」

「……まぁ、そのあたりが妥当よな。本気で命を懸けたら名は残ろうが、室のこともあって息子も赦されるとは思えん。」


 2人のため息は重く、深かった。


 ♢♢


挿絵(By みてみん)


 武蔵国 松山城


 2月。北条新九郎氏康は父に河東を任せ、1万の軍勢で武蔵国松山城の扇ヶ谷(おうぎがやつ)上杉氏に攻め込んだ。これに氏綱の娘婿でもある古河公方足利晴氏(あしかがはるうじ)が呼応し簗田持助やなだもちすけ率いる3500が合流したことで大軍となった。


 これに対して松山城主で扇ヶ谷上杉氏当主の上杉朝定(ともさだ)は昨年和睦した山内上杉氏の上杉憲政(のりまさ)に援軍を要請し籠城した。

 上杉憲政は上野・下野から13000を動員し、更に常陸の佐竹からの援軍を受けて20000まで援軍を増やし、2月下旬に河越を襲うことが可能となる須賀谷原すがやばらに布陣した。

 常陸の小田勢は下野を遠回りして援軍を送った関係で忍城おしじょう方面に留まり公方の軍勢を引付ける役を任されたが、佐竹勢は上杉憲政に合流し松山・河越の両睨みを図ることで松山の兵を退かせようとしていた。


「で、敵の様子は如何だ、小太郎。」

「……敵と呼べるほどのまとまりは御座いませぬな。」


 北条新九郎は松山城をやや遠目に見ながら自らの乱波である風魔小太郎に尋ねていた。


「小田と佐竹で戦への乗り気か否か分かれております。小田は援軍もあまり多くない上公方様と結城氏の軍が気になってあまり多くはこちらに兵を送っておりませぬ。」

「佐竹は乗り気か。そうであろうな。今も江戸氏らが不穏だ。ここらで武威をもう一度見せつけたいのであろう。」

「須賀谷原では大軍故か油断している者も多い様子。」

「……忍びこめるか、小太郎。」

「夜討ちと放火は我らの得意技にて。お任せを。」


 その言葉に、新九郎氏康は口元を緩ませた。


 ♢♢


 武蔵国 須賀谷原


 新九郎氏康は大軍を派遣した上杉憲政に和睦の提案をしたものの、城内の兵を合わせれば倍近くに及ぶ自陣営に気を大きくした憲政はこれを拒否。河越城奪還に向け大軍を動かした。


 大蔵おおくら館周辺での小競り合いに勝利した上杉憲政は北条方は既に撤退を考えていると判断。最後方の平沢寺へいたくじ付近の陣から鎌倉街道を南下した。


 その夜、新九郎氏康は5000を率いて20000が滞在する大蔵館跡とその周辺を襲撃した。風魔小太郎の工作によって放火も行われ混乱した上杉憲政は佐竹らと連携を取ることができず、早々に20000の大軍は崩壊を始めた。


「勝った!勝った!勝ったぞ!!敵は既に総崩れぞ!!」

「「勝った勝った!!勝った勝った!!」」


 敵陣の中心部に突撃した北条綱成ほうじょうつなしげときの声に、上杉兵は大将の討死かと浮き足立って統一的な行動がとれなくなった。

 更に、佐竹勢が加勢を狙うも上杉兵は混乱し同士討ちが発生。夜陰に紛れて互いの連携が不足した部分を巧妙についた形となった。


「佐竹は気にせずとも良い!とにかく上杉を叩け!!」

「「応っ!!」」


 新九郎の声に兵が応え、次々と上杉の陣に殺到した。



 上杉の陣では混乱する中で慌てふためくだけの上杉憲政の側で倉賀野行政くらがのゆきまさが周囲に檄を飛ばしていた。


「街道への道を確保せよ!長野隊が敵の左方を抑えている間に後方へ下がって立て直す!!」

「よ、余に逃げろと申すか!?」

「管領様!今は敵に撹乱を許しているのです!一旦下がって川を渡り立て直さねば被害がいたずらに増えましょう!」

「あ、あれだけの兵がいたのに圧されているというのか……」

「とにかく、お下がり下さい!!」

「うむ。ま、任せたぞ!」


 慌てて側近と共に後方へと逃げ出す上杉憲政を見ながら、倉賀野行政は従う将の1人に小声で囁いた。


「そのまま平井まで逃げよ。ここはもう保たん。」

「……倉賀野殿は如何なさるおつもりで?」

殿しんがりは必要だ。意識して殿をする者が、な。……あれで領民には慕われているのだ。戦だけが致命的に苦手なだけで、な。」

「……御武運を!」


 そう告げた将を見送ることなく、倉賀野行政は前を向いて指揮に戻る。


篝火かがりびを焚け!ここまで来ては敵が視認できぬ方がまずい!夜陰で敵の接近に気付かぬ方が致命的になるぞ!」


 自らを敵の標的にする意味も込めて、彼は周囲の兵に火を焚かせた。


 ♢♢


 夜が明けた須賀谷原には泥と血で染まった北条の将兵だけが立っていた。多くの屍と焼け焦げた臭いの中、北条綱成のあげた勝鬨に最初兵は反応できなかった。

 2度目の勝鬨に反応した将兵を皮きりに、一斉に兵が応え始めた。


 その勝鬨は新九郎氏康の元にも届き、周囲の兵も共に勝鬨をあげた。


「この勢いのまま、松山城を落とすぞ!!」


 ♢♢


 後世「須賀谷原夜戦」と呼ばれるこの戦により、山内上杉氏の上杉憲政は4000以上の兵を失った。


 更に倉賀野行政をはじめ長野吉業ながのよしなり成田親泰なりたちかやす藤田康邦ふじたやすくに、本間近江守、行方なめがた武田一族らが討死したことで組織的な反攻を行う余裕を失った。佐竹氏も石井清定らが討死したため、両軍は撤退を余儀なくされたのだった。



 上杉憲政の敗走から15日後、3月に入ったばかりのその日、松山城は陥落した。

 援軍の崩壊と共に士気が崩壊した扇ヶ谷上杉氏の軍勢は大手門を守りきれず、僅か3日で城門を突破された。


 その後の奮戦も甲斐無く、城の陥落と共に上杉朝定は自刃した。太田資顕おおたすけあき難波田なんばだ一族は城内の乱戦の中でほぼ全滅し、扇ヶ谷上杉氏は滅亡した。


 僅かに逃げた太田資正(すけまさ)らは山内上杉氏の平井に逃げ込み、再起を図ることになる。


 北条氏は武蔵の大部分をその手に収め、対今川のための大きな余裕を得ることになる。



 一方、山内上杉氏の上杉憲政は忠臣を多く失い、その損害は致命的なものになっていくのだった。

戸田氏の城が片方赤のままなのは理由ありです。次の織田の動きで出てきます。


当然ですが史実より状況が悪い分今川義元は出せる兵力が限られます。

とはいえこの後遠江の兵も加わるので倍くらいにはなります。


河越夜戦の前倒しで須賀谷原で夜戦となりました。史実では古河公方とはここで敵対していますが、氏綱が存命のため晴氏と敵対していない分兵力の集まりが悪く5000対20000の合戦となりました。

その分山内上杉氏の被害は甚大なものになっております。数名が史実より早く退場です。


一気に関東の主導権は北条が握りました。ここから一気に拡大……となるでしょうか。

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