第69話 医聖の願い
下野国 足利学校
夏に入ったことを感じる日差しの下、古河公方の家臣一色直朝殿に案内されて下野にある足利学校へと向かった。
足利学校は足利荘にある。足利荘は現在足利長尾氏と呼ばれる山内上杉氏の家宰を務める名家が治めているため北条とは敵対しているが、足利学校に出向く場合のみ敵対関係なども見逃されるらしい。
途中で小野寺某なる周辺領主が出迎えてくれた。長尾氏の傘下にある国人だそうだ。小野寺ってそういえば某戦国ゲームにいた気がする。安東氏にすぐ呑みこまれる奴だ。親戚かもしれない。
こちらに来てから知ったが、玉縄の朝倉氏にせよ古河公方の一色氏にせよ大名クラスと同じ姓の一族が結構各地にいるのだ。この時代に生まれたからこそ知った知識だ。面白い。全国に山田さんとか佐藤さんがいるのもこういう流れなのかもしれない。
小野寺殿は変に各地を見回られないようにか最短ルートで足利学校まで護衛してくれた。そこでまず会ったのは足利学校の庠主(校長のことだ)である文伯様だった。
「典薬頭様に来て頂けて、我らもとても光栄に御座います。腐った内腑を取り出した上、体内の石をも除いて見せたことや新しい薬で北条殿を御救いされたことは、ここで医学を学ぶ者たちの間では噂が毎日流れるほどで御座います。」
「き、恐縮です。」
「今日は特別に講義していただけると聞き、普段は医学を学ばぬ者まで集まっております。ご迷惑をおかけせぬよう中では刀を預けることにしておりますので、愚か者がいたらすぐ側に控える方々に命じて追い出してくださいませ。」
そう。今日の用事は文伯様より依頼された医学の講義である。
この足利学校における医学は古よりの医学書について学ぶことが大半だ。扁鵲や淳于意といった過去の中国における医学の大家について学んでいるらしい。
しかし、それでは基礎医学や臨床医学、薬学についての知識が不足しがちだ。そのため小田原まで自分が来たのを聞きつけた文伯様から書状が届いたわけである。
会場となっていた講堂はあまり大きくなかった。10年ほど前に火災で最も大きな建物が燃えてしまったそうだ。高さも低めなので6尺(180cm)を超えた身にはちょっと、いや結構辛かったので屈みながらの講義となった。外にもわずかながら人がいて、耳だけでも話を受けようとする学問への渇望を感じた。
「初めまして。斎藤典薬頭利芸と申します。本日は一日限りでは御座いますがよろしくお願い致します。では、人体の仕組みについてから話を始めたいと思います。」
正しい知識を持った医師が増えれば必然多くの人の命が救われる。基礎基本だけでもまずは身につけてもらうことにした。
1刻(2時間)の講義を2回。4時間も喋りっ放しで進めた。途中で何度も意欲ある聴講生から質問が出た。曰く「何故骨と骨は細かく分かれているのか」とか「血が赤いのは何故か」とか「腕や足が一回転しないのは何故か」とか。
必要な前提知識が足りないものについてはここでは説明しきれないことを伝えた上で簡単に原理だけ伝えた。
当然質問は出たが、どうしても知りたいなら申し訳ないが美濃に作った学校に来てもらうしかない。
凡そ昼下がりの遅い時間帯まで結局質疑をして講義は終わりとなった。女性の医学者や看護師の育成の必要性なども話の流れで出たが、産婆さんに対しより専門的な知識を与える必要はあるかみたいな少しずれた話になってしまった。
日が落ちる前に今日の滞在先である古河公方様の領内へ向かっていると、後方やや離れた間隔で数人の足利学校の学生らしき人物がついて来ていた。何かあっても困るので人を送って話を聞くと、まだ話を聞き足りない、もっと教えて欲しいという熱心な者たちが群れをなしてついて来ていたらしい。
「日向国から足利学校に学びに参りました、闡提子と申します。」
「近江国出身の一渓と申します。明日に典薬頭様がお会いになる田代様に学んでおります。」
代表して2人が挨拶して来た。話を聞くと一渓の方が明日のため古河に行くと話したのに便乗した者が多いらしい。闡提子は少し年上くらいで切れ長の目をした自信家らしき雰囲気。一渓は20は年上に見えるが、理知的な雰囲気で話し方にも落ち着きがあった。
分かれて進むのも何とも言えなかったのですぐ後ろについてもらい、結局そこそこの集団で古河に向かうことになった。
♢
下総国 古河御所
前日に面会していた古河公方の足利晴氏様に許可を頂き、宿のツテもなしに来た学生たちに宿を手配してもらう。
晴氏様は昨日贈ったミント入り湿布の効き目が上々だったらしく、二つ返事で彼らの泊まる場所を部下に用意させてくれた。
翌日は今回の主目的である導道練師こと田代三喜様との会談だった。
「導道練師、御目にかかれて光栄です。」
「何を仰る。稀代の天才と謳われる典薬頭様にお会いできたこちらこそ死出の旅への良い土産を頂き有難いことですぞ。」
後世で医聖と呼ばれる名医・田代三喜。その禿頭の風貌には深い皺が刻まれ、頬は僅かに皮膚が垂れるほどである。肩幅に比して痩せた体型は既に余命幾許もないことを容易に想像させた。
「そんな悲しい事を仰らないで下さい。我らはまだ御師様に教わっていないことが山程あるのです。」
その言葉に反発するのは昨日自己紹介を受けた一渓殿だ。後ろにいた他の弟子らしき面々も「左様に御座います」「練師様ならあと百年は生き延びられるかと」とか言っていた。いや百年は無理だ。
「いや、最近は血と水の巡りが悪い。いくら気を確り保とうとも血と水が足りぬのじゃ。体の悪い物をきちんと出せねば体に毒が溜まっていく。それが死へ近づくのじゃ。」
医学の歴史上田代三喜という医師は「気・血・水」の3つのバランスを大事にしたと伝わっていた。
気とは気力。「病は気から」である。血は血流やリンパを指すと考えられる。水は体内の水分。これが少なければ体調は悪化するし、多すぎても良くない。しかも肺炎の時の様に水は患部に溜まることもある。風邪をひいた時に出る痰を三喜は水毒と表現していた。
どれもバランスが重要なものなのがわかる考えだ。
「まぁ、簡単には死ぬつもりはない。じゃが覚悟はしておけよ。わしが死にそうだからと病の者を放って見舞に来たら槍で追い払うからの。」
まぁ、確かに体調は万全ではないだろうが顔色が悪いわけでもない。今すぐどうこうなるわけではなさそうだ。
「さて、典薬頭様。今回は一つお願いがあってお招きしたので御座います。」
「練師からわざわざお願いとは。」
労働環境が悪化しないお願いなら是非お望み通りにしたいところ。
「こちらに居る我が教え子たち……この者たちを典薬頭様にお願いしたく。」
「彼らを……ですか。しかし年齢的にも若造に教わるのは喜ばないのでは?」
「足利学校で講義を頂きましたな。それを聞いた上で納得できるものだけここに本日来るように予め伝えてありました故、問題はありませぬぞ。」
足利学校でやった講義は人数も多く年下らしき人もいたので気にしなかったものの、目の前にいるのは見た目的にはほぼ全員年上である。
半井兄弟以外にも年上の弟子は増えたものの、個人的に違和感はあるし相手が本当に納得しているかは常に確認するようにしている。でないと職場の陰口叩かれてたら鬱病まっしぐらだ。
「特にお願いしたいのはこの一渓でして。姓は曲直瀬と申しますが、与えた知識を良く吸収し自ら研究することにも余念がない男に御座います。我が後継者として育てておりましたが、わしでは知識に限界があると感じた故、後はお任せしたいのですじゃ。」
曲直瀬……ということは曲直瀬道三なのかこの人。
曲直瀬道三も医聖と呼ばれた名医だ。田代三喜から曲直瀬道三の師弟関係が江戸時代初期における日本の医療の基礎を築いたと言っても過言ではないと大学で教わった。そんな人物に会える上に弟子になるとは。世の中分からないものである。
「一渓。これより我が後継者として典薬頭様に学び、真に人々の為になる医学を完成させるべくお手伝いするのじゃ。それが我が遺言と思え。」
「かしこまりました。御師様、長らくお世話になりました。」
「これより我が導道練師の道と三喜の三を以って道三と名乗るが良い。典薬頭様、何卒お頼み申す。」
この瞬間から彼の名は曲直瀬道三だ。何という歴史的瞬間。立ち会えるなんて結構、いやかなり感動である。最近書き始めた日記に残しておかねば。
「畏まりました。これより曲直瀬道三を称しまする。典薬頭様、ご指導宜しくお願い申し上げまする。」
「導道練師、お任せください。曲直瀬殿、若輩者ですがこちらこそ宜しくお願いします。」
満足そうに見ている三喜様に、ちょっとだけ安心させられたかなと思うと嬉しさを感じた。
「他にもこの者は十六文先生の嫡子でな。今は彼の方は信濃にいるが足利学校と我が下で学ぶため任されておる。書状で許可を予め得ているそうなので、宜しくお願いしたい。」
そういって紹介されたのはやや年下らしき少年だった。
「永田一草庵と申します。宜しくご指導ご鞭撻賜りたく存じます。父の知足斎徳本より、如何なる方法でも良い故とにかく医術を磨いて参れと命じられております。」
ん?永田徳本の息子か。永田徳本は若い頃から医師として活動しているから、子供の面倒まで見られなかったのか。ならば親子そろって名医とすべくこちらも確り教えるべきか。
それに自分の体調が悪化した時にこのあたりの医聖に正しい知識を教えた上で診てもらえば治してもらえる可能性も高くなるだろう。
「宜しくお願いします。名医と名高き徳本様の子を教えられるとは光栄です。」
「私こそ、京での活躍が噂になっていた典薬頭様にご指導いただけるのは嬉しいです!」
年齢的にはまだ10歳くらいだ。まぁそうもなるか。憧れられたら頑張らないといけないのであまり期待値上げないで欲しいところだが。
他にも、昨日話した闡提子はあと数年学んだらうちで学びたいと言ってきた。
曰く、
「拙僧、占術について学んでおりますが、昨日の話の中で天候について興味深い御話がありましたので、いずれその点教えを乞いたいと思います。」
とのことだった。喉の話から空気の乾燥、そして湿度のことに話がいき、耳の構造の話で気圧の話が出たわけだが、天文関係を学んでいるなら興味が出るのも当然かもしれない。
何はともあれ、優秀な弟子候補を大量に増やして帰国することになりそうだ。
「まずいな。新参者に負けたら父上に折檻される。」
「今までに習った部分を今度一度確認し合うとしよう兄上。」
半井兄弟は危機感を持ち出したらしい。良い感じに学び合い高め合ってくれると何よりだ。
曲直瀬道三については生年などが諸説あってわかりにくいですが、とりあえず田代三喜に学んだのは1531~1537年、足利学校から京へ戻ったのが1546年説を採用しております。
永田徳本は流石に110歳超えた長寿というのが信じられず(90歳説の方がまだ信ぴょう性が高いですが、そうすると享禄年間の事績が不自然)、本作では親子二代での名乗りということにしております。一応初期の信濃時代を初代、その後信玄時代の途中からが二代目といったつもりで書いています。
ですので今回は二代目徳本になる予定の息子が三喜の下で学んでいたという設定です。