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第68話 義元の焦燥、マムシの哄笑

全編三人称です。

 駿河国 駿府館


 2人の男と1人の女性が眉間に皺を寄せながら睨み合うように互いを見ていた。

 1人は大人としてはまだ新米といった若さ溢れる、しかし力強さも感じる風貌。1人は老練さをしわに蓄えた世俗の臭いしかしない坊主だが、その所作は功徳を積んだ者特有の洗練されたものである。

 そして女性は尼頭巾を被った老齢の人物である。相応の年齢を感じさせる風貌だが、背筋がピンと張った姿は高貴さと共に場の雰囲気を一層張りつめたものにしている。

 若い男は名を今川義元、坊主は太原雪斎たいげんせっさい、女性は寿桂尼じゅけいにという。寿桂尼は義元の実母であり、尼御台あまみだいとも呼ばれる女傑である。


堀越ほりこしとは戦が避けられそうにありませぬ。」

「おのれ氏綱……病で動けぬうちに遠江の決着をつけたかったというに……。息を吹き返しおった。義父殿が援軍を出してくれる故駿河衆は動揺せずにいるが……!」

「遠江の井伊がこちらへの反発を強めておりますな。飯尾いのおも不穏、松井も最近堀越殿と文でやり取りをしているとか。」

鵜殿うどのが睨みを利かせているとはいえ、西三河は斯波しばに奪われた。東三河は守るので手一杯だろう。忌々しきは弾正忠よ。我が弟氏豊(うじとよ)から奸計で那古野の城を奪っただけでなく、わしの遠江支配も邪魔するとは。」


 義元のその言葉に、目を閉じて手にしている数珠を両手で揉むようにしながら思案顔となる雪斎。そこで黙っていた寿桂尼が口を開く。


「……焦れば斯波と伊勢に喰われますよ。」

「わかっております、母上。なんとか本願寺や両上杉にも声をかけています。鵜殿と菅沼、そして奥平と足助あすけの鈴木にも動くよう伝えてありまする。朝倉にも朝比奈から連携できるよう話は持っていっております。」


 口調と話す速度に焦りを拭いきれない義元は、しかしその優秀さを発揮し周辺から斯波・土岐への圧力強化を模索していた。

 そこに、小姓から1人の人物の来訪が告げられた。甲斐の大名にして現在駿河に援軍を率いてきた武田信虎(のぶとら)である。


「すまぬな。大事な話をされていたであろうに。」

「構いませぬ義父殿。義父殿が来て下さらなければあの死にぞこないを恐れる家臣たちが何を言い出すかわかりませんでしたからな。」


 数少ない頼れる相手だからか、義元は先程の早口はなりをひそめ普通の話し方で対応する。


「氏綱は一度小田原に帰ったそうだが、兵は今だ弟である宗哲そうてつが率いて先日完成した吉原城に入ったままだ。わしも当分は動かぬ方が良いだろう。」

「ありがたいことです。兵糧にはまだ余裕があります故、もう少し様子を見て今後の対応を決めましょう。」

かたじけない。なにせ信濃攻めに兵糧を用意していたのでこちらに駆け付けるには間に合わなくてな。世話になる。」


 そういってにこやかに笑う信虎を、雪斎と寿桂尼は胡散臭うさんくさそうな顔で見ていた。


 ♢♢


 駿府の城下にある長屋で、1人の男が妻と話していた。


「どうにも新しい今川の殿様は敵が多すぎるな。弾正忠に北条、堀越と東西から挟まれる形になってしまっている……仕官先を考え直すべきか。」

「では、何方に御奉公されるので?」

「三河に戻るのも弾正忠に従うだけになりそうだからな。甲斐も先日の戦で勝ち切れなかったと聞くから何とも言えない。」


 男は溜息を1つ。


「では北条ですか?氏綱様が病から治って駿府に攻め込みそうだったそうですが。」

「いや、北条はこの身の働く場所はなかろう。多目ためという優秀な軍配者が既にいるのだ。河東や川越にいる御一門も優秀だしな。それにこの隻眼と足の具合では、な。」

「ですが、貴方様の風貌を言うなら仕官など到底無理では?」

「夫の容姿に平然と悪態をつくな。いや、氏綱様を治したという典薬頭様なら、多少の見目の悪さは受け容れてくれるやもしれぬと思ったのよ。」


 口をへの字に曲げる男。しかし一切妻は動じることが無い。


「もうここに来て5年ですからね。そろそろ蓄えも心細いですし、もし仕官が叶うなら如何いった御殿様でも結構ですよ。体も治れば良いですね。」

「手厳しいの。しかし斎藤典薬頭様の軍配者は高齢と聞く。入り込むなら狙い目よ。世話になった庵原いはら殿には悪いから、秘かに出立せねばな。」


 拳を掲げて理想に燃える男に、妻の溜息は届かなかった。


 ♢♢


 美濃国 稲葉山城


 4人の男が悪そうな笑顔を浮かべながら集まっている。

 斎藤左近大夫利政(としまさ)、長井隼人佐(はやとのすけ)道利みちとし、正三位右衛門督(うえもんのかみ)持明院じみょういん基規もとのり、平井宮内卿(くないきょう)信正のある意味お馴染みの面々である。


「ほほほ。北条とも縁が繋がるとは重畳重畳。錦小路の名跡も残せるようで何よりぞ。」

「わしと彼奴のこと、毒蛇から薬師如来が産まれたと噂になっておるらしいぞ。」

「兄上を毒蛇とは随分可愛いものですな。」

「実物はもっと悪辣あくらつに御座いますな。」

「ちょっと待て。其方ら言い過ぎぞ。」


 その顔つきに切迫感がないのは、お互いの持つ情報にあまり悪い報せがないためだ。

 それもそのはず、内政は円滑に回り外交は敵味方が明確で大きな変化はなし。敵もある程度自分達の想定通りに動いているのだ。


「北条と結べたことで、今川を滅ぼせたとしても我らに弾正忠が攻め込むことはないでしょう。」

「こちらに楯突けば北条が東から、我らが北から襲い掛かれるからな。お互いの牙が急所にかかっている限り、問題は起こるまい。」

「それに弾正忠は斯波家中に敵を抱えております。当分は安泰かと。」


 宮内卿の言葉に、左近大夫利政はやや大仰に頷く。


「朝倉と本願寺の八回目の話し合いもうまくまとまらなかったそうで。超勝寺ちょうしょうじ門徒を煽り続けてきた甲斐がありますな。」

「超勝寺の僧が何と言おうと門徒は実際に親兄弟を宗滴そうてきに殺されておりますからな。勝手に和睦すれば門徒が反発し瓦解しましょう。」

「そうなれば高田派に門徒を取り込みつつ朝倉に攻め込めば良し。ならずに宗滴が死ねば扇の要を失った朝倉は弱体化必至。」

「ほほほ。どちらに転んでも良いとはまこと其方らははかりごとが得意よの。」


 鮮やかな手回しに持明院基規は感心しつつも楽しそうに笑う。


「ただ、越前和紙の取引が一部で京周辺まで復活したそうで。」

「管領でしょうな。三好と六角を天秤にかけつつ、我らと朝倉も天秤にかけておるのでしょう。」

「わしも管領殿の顔を見たのは一度だけだが、あれはなかなかの怪物だ。太刀持ちに控えている小姓にすら全く気を許しておらなんだ。」


 人間不信の塊、管領細川晴元は美濃和紙の独占を防ぎある程度朝倉の力を維持すべく琵琶湖西岸沿いで越前和紙の流通を復活させている。

 土岐と朝倉の対立が長期化するのを彼は望んでいる。全ては自分の命を狙う人間を減らすためである。


「浅井と京極も再び干戈かんかを交え出したようですが、六角は北伊勢へ出陣するそうで。梅戸・神戸かんべ・関らが合流し総大将を嫡男の義賢よしかたとするとか。」

「家督の継承を円滑に進めるべく実績作りか。千種ちぐさ氏らも災難よな。敵は大軍になろう。」


 どこか他人事のようだが、土岐氏は傍から見ていると安定している故畿内の戦へも関与する機会が今後増える可能性は彼らも考えていた。


「三好勢と波多野勢が塩川の一庫ひとくら城を囲い始めたそうだ。細川高国残党と見た管領の命令だが、摂津国人は反発しているという。畿内の情報収集は怠るなよ。」


 隼人佐道利と宮内卿信正が賛意を示す中、持明院基規は京周辺が荒れるなら来年は周防に行こうかと自身の保身について考えていた。

今川も出来る範囲で活動はしています。ただし斯波の武衛様が乗り気なことや長島は蟹江周辺を抑えられていることなどから全体的にうまくいきません。北条氏綱が史実ではこの頃には病で動けなかったので、東が落ち着いて西に目を向けられました。今作では復活で東西から追い込まれています。

武田信虎は援軍と称して食料を今川に集っています。そのため雪斎と寿桂尼は白い目で信虎を見ていました。


そしてその背後ではマムシも管領も蠢動しています。本願寺と朝倉が手を組まないようにしつつ中央の情勢を睨んでいます。


謎の男についてはそのうちまた登場するのでそれまでお待ち下さい。バレバレかもしれませんが。


主人公の関東編はもう少し続きます。

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