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第54話 国境を越えて その4

♢♢から三人称になります。

 山城国 上京


 夏の盛りを京の盆地で過ごしたため、美濃和紙の団扇うちわを使う機会が増えた。

 団扇は美濃で量産を企てていたのだが、販売などは扇座とも関わることになる。


 そこで販路拡大のため先日後妻と子供を助けた商人経由である人物にアポをとることにした。


 で、色々あって会う許可を貰ったのでその人物の屋敷に向かった。将軍家も帝も一目置くその人こそ、狩野かのう元信もとのぶ――日本史教科書の絵で大量に名前が出る狩野一族の現当主である。白髪混じりながら僅かに見える手には皺1つなく、目元も小皺こじわさえないのは職業柄だろうか。特に手の若々しさは特筆すべきものだろう。


「お初にお目にかかる。わしが狩野一族の長を名乗らせて頂いている越前守元信です。」

「斎藤典薬大允(てんやくだいじょう)利芸としのりに御座います。お会いできて光栄に御座います。」

「いやいや、こちらこそ、弟の病を治して頂いて感謝の思いを如何にお見せすれば良いかと思案していたところです。」


 先日の商人は扇座に所属していたので彼に頼んでアポをとったところ、たまたまこの狩野元信様の弟である雅楽助之信殿が痘瘡に罹ってしまったところだった。

 直ぐに雅楽助殿に会って種痘を打ち、なんとか回復したのが3日前のこと。

 いくら芸術に優れた人であっても、病を防ぐ術を知らなければ常に命の危険と隣り合わせなのがわかる一件だった。こうして色々あって今日の面会にこぎつけた形となる。


「で、わしとしては出来る範囲で望みを叶えて差し上げたいところですが、とはいえ出来ることは限られますぞ。本願寺の仕事を辞めるわけにもいきませぬしな。」


 狩野越前守様は現在石山本願寺の障壁画を主に手掛けている。土岐と本願寺の仲が悪いのは周知の事実なのでそういう反応がきたのだろう。本願寺と狩野様の関係は焼けた山科本願寺と今の本願寺の拠点石山本願寺の両方で障壁画を描いていることからもかなり良好である。


「むしろこの件が理由で本願寺に断られることはありませぬか?」

「その様な狭量なことをすれば、彼の者らは御仏の道なぞ恥ずかしゅうて説けなくなるでしょう。それに、最近金払いが悪くなってきたと他の商人が騒いでおりましてな。生きるためなら他にも伝手はありますとも。」


 自分の絵に絶対の自信があるのだろう。にこやかに笑いながらも目の鋭さが残る。そして商人や顧客を通じた情報網もしっかりしているのだろう。長島の苦境と昨年のウンカで北陸や近江の本願寺が苦しいのを知っているようだ。


「では、お願いなのですが。」

「うむ、絵の一枚二枚は稲葉山で描かせていただきますぞ。」

「扇座で美濃の団扇に関して特権を与えていただきたいのです。」

「……ふむ、成る程。如何程をお望みかな?」

「出来れば、領内と畿内、それと尾張で販売の取りまとめを許していただきたく。」

「……大きく出ましたな。」


 思考の海に沈み込む様に俯いた狩野越前守様に対し、じっと待ちながら考えておいた色々なパターンを反芻する。


「……尾張と美濃、伊勢はお任せしましょう。近江は商人が既におりますのでそちらに卸せるよう紹介させて頂きます。」

「伊勢も宜しいので?」


 これは予想外だ。


「桑名が最近安定しないもので。長島による統制が効かなくなっております。周辺の国人は本願寺門徒が外に出なくなったために内部で勢力争いの抗争を始めており。六角殿も近江国内と中央の情勢が安定しないため、北伊勢にかまけていられない様で。」

「ということは、座の収入も?」

「入ってきませぬ。大湊も長島と関係の深い会合衆えごうしゅうは苦しくなっているようで。」


 だったらこっちに丸投げしてしまえ、ということか。面倒な。でも逆に言えば、安定させさえすればこちらの収入になるということだ。


「頑張ってくださいませ。伊勢で商いができるようになったら多少銭を頂ければ十分です。」


 にこやかな目元にも皺一つなく。芸術家なのに随分と銭に目が輝く人だと思った。

 芸術家であり実業家である……そんな雰囲気の御老人だった。


 ♢


 秋の収穫も考え、夏の終わりが近いと感じた八月終わりに美濃へ戻ろうと調整を始めると、阿波から船と馬でやって来たという三好の家臣から大風(台風)が来ると報せが来た。


 見れば西の空から雲が広がり始めている。風も音を奏でる程度に強くなっていて、気象には詳しくないが確かに何か起こりそうだと感じた。各地で様々な仕事に従事していた面々を呼び戻すと共に、川辺に住む人々に川岸から離れるよう呼びかけることにした。


 しかし中世社会では財貨を失えば誰も補償などしてくれないせいか、川縁の家から逃げる人はほとんどいなかった。先日の大雨で家を失った人などは逃げてくれることになったので、賀茂川・高野川周辺にいた人をとにかく川から離れることを指示した。

 賀茂川の西岸の人々は半井の屋敷に近い船岡山の東側に逃げ込んだ。西から来る台風の雨風が少しでも山で防がれるようにという苦肉の策だった。土砂崩れが万一起きた時のため、斜面から目を離さないようにと注意した。前世の京都観光で船岡山は岩盤でできていると聞いたからまず心配はないはずだ。



 8月10日夜、大雨が叩きつけるようにやってきた。子供や妊婦、老人は半井なからいの屋敷の一部に集めたが、持ち込んでいた柿渋を塗った傘で大人には耐えてもらうしかなく。

 それでも傘を一定数売り込みのため夏に持って来させていたおかげである程度の人が酷いことにならずに済んだ。食事もこの頃はまだなんとか少しだけだが配ることもできた。



 8月11日、正午になる頃に台風が到来。釘で打ちつけていた建物の壁が軋み、周期の長い地震に遭っているような錯覚に陥った。

 建物が貧弱すぎる……揺れることで形状を保っているのだろうが、不安で仕方なかった。

 外では大人たちがお互い手を握り合って山の影でじっと耐えていたそうだ。強風で体がもっていかれないようにするので精一杯らしい。夜の雨で体調を崩す者も出て、体格の良い面々で屋敷へ運び治療することになった。建物内も揺れているが、直接風雨にさらされるよりはましである。当然だが看病もあって食事を配布したりする余裕はこちらにもなく……文字通り耐えてもらうしかなかった。



 夕方、高野川と賀茂川の合流地点(ここからがいわゆる鴨川である)付近で洪水が発生した。一部の家屋が浸水し、一部は濁流に呑みこまれたそうだ。

 しかし、初夏の大雨でこの地域に逃げていた人々が事前に避難していたおかげで死者は少なかったらしい。

 雨が先に止み、風も徐々に弱まっていった。雨が止んだのは夜に入って少しした頃。


 夜の満天の星空の下、避難していた人々には風で飛んできた物で多少の怪我をした人しか出ず、子供も女性も老人も無事この台風を乗り切ることができた。

 日付が変わるような時間帯になって風も完全に止んだ。幸いにして周辺で風にやられた家屋は出なかった。喜び合った頃に奥田七郎五郎利直の巨体からお腹が豪快になって、大笑いした後食事を作り自分たちで食べつつ皆にも配った。


 後日知った一番被害が大きかった場所は桂川の上流にある丹波国亀岡(この時代は亀山という)や京都嵐山付近だった。そういえば昔見た台風のニュースでもこの地域は床上浸水とかしていた。もうちょっと早く思い出していれば……。

 ただ、天気予報がないこの時代では近隣の人々を救うので限界だったのも事実だ。天気予報までいかずとも天候をいち早く知る方法は考えなければならないかもしれない。



 復興作業の手伝いで結局9月の中頃まで京都に留まることになった。各寺社は資金を捻出して復興を助けたし、公方様も少ない手持ちながら頑張ったらしい。


 美濃方面は幸いそこまで大きな被害が無かった。どうやら大坂湾から小浜方面に抜けるルートを通ったらしい。とはいえ西部や北西部で水害が発生しており、一部の地域は作柄が不安定になりそうである。


 越前は若狭湾を抜けた関係で海岸部に洪水などの被害が出た上、九頭竜川の一部が氾濫はんらんしたらしい。

 そして、長島は増水した川によって一部堤が決壊したため更なる堤防の強化を開始したそうで。

 ここも当分動けないだろうとの見方が強くなった。



 自然に人間は勝てない。

 今回の一連の災害は、それを象徴するようなものだった。


 畿内や四国ではこの影響で戦もできない状態となり、被害の大きかった播磨国は尼子氏の侵攻計画が一時中止されるほどだった。

 荒廃した土地を得ても旨味がないので当然だろう。自力救済の世では弱者は救えない。


 救うためには力が必要なのだ。


 武力と財力と、権威と権力が。


 ♢♢


 山城国 御所


 御簾みすの奥で、後奈良帝は痛みに耐えるように呟いていた。


「また、朕の守るべき子らを守れなんだか……。なんと無力なことか。」


 御簾の前には1人の男性がいる。名を二条尹房にじょうただふさ。前関白である。


「しかし陛下。天は試練のみを与うるに非ず。僅かなれど光明も一筋見えまして御座います。」

「そうであるな。典薬大允。多くの子らを川から避難させてくれたと聞いた。」

「施餓鬼でも財貨を自ら出し、大風においては己が商売に使う傘を貸し与え、種痘なるもので流行り病から人々を救い、妙薬で腹を下したものを治してみせたと。」


 そこまで聞いた後奈良帝は裾で目元を拭う。二条尹房は相変わらず涙脆い方だと思ったが、同時にそこがこの御方の良い所だとも思っていた。本気で民が苦しむことに心を痛めることができる、心を寄り添わせることのできる帝に仕えられるのは幸福だと思っていた。


「何か報いることは出来ぬか。朕の書でそれに報いることが叶うならいくらでも書いて見せようぞ。」

「然れば、御心に沿うよう取り計らいます。」

「頼むぞ。それと皇子にも種痘を受けさせたい。彼の者の治療は間違いなかろう。驢庵ろあんもそう申しておった。」

「畏まりました。近衛も反対はせぬでしょう。右大臣(鷹司忠冬)もなんとか説得致しまする。」


 僅かに笑顔が戻った後奈良帝を見て、二条尹房はほんの少し安堵の溜息をついた。

狩野雅楽助は没年が1539~41まで不明でありますが、今作では1502年生まれ1540年に流行の痘瘡で死ぬはずだったのを助けたということにしております。


台風の進路はジェーン台風(1950)を参考にしております。羽賀寺の記録でも8月11日に若狭湾に台風が到来し、洪水が発生した記録があるため類似したルートにしております。進む速度などは全然違いますが(阿波から報せが間に合う程度ですので遅めですね)。


後奈良天皇は民を思う気持ちが歴代でも特別強い御一人です。媚を売って献金してくる人間より、民のために活動する人を讃える御方であります。

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