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第50話 囁くもの

全編三人称です。朝倉景高・朝倉景鏡・織田信長の動きです。

 山城国 京


 桜が散り始める頃、烏丸光康邸の一室で、朝倉景高は一人の男と話していた。


「では、斎藤殿は本願寺さえ抑えられれば……」

「ええ。家中をまとめ、大野郡を取り戻す手伝いもやぶさかでないと。」

「そうか。石徹白いとしろも落ちたと聞いているし、幕府か朝廷が動かせれば土岐の支援のもとでなんとか出来そうだな。」


 男は斎藤の家からの使者を名乗っていた。彫りが深くやや小柄で、背筋は丸まっている。


武衛ぶえい様は何と?」

「弾正忠が三河に出兵しているそうだが、大和守は動けるそうだ。土岐・斯波の連合軍ならば、孝景も勝ち目はあるまい。」

「では、烏丸様に期待ですな。」

「安心せよ。わしと権中納言は義兄弟。朝廷も権中納言は無視できぬ。」

「良い知らせを待っております。」

「うむ。少ないがこれを持って行くと良い。帯刀左衛門尉殿に宜しくな。」


 銭の入った小袋を受け取った男は一礼すると部屋を出て、そのまま庭まで行くと傍の樹を伝って壁を越え屋敷を出た。


 通りは人の気配がなく、男は顔を懐から出した手拭いで拭く。すると先程とは風体の違う顔が現れた。コキコキと関節を鳴らし体を伸ばすと、背筋の伸びた男は先程より一回りは大きく見える。彼は堂々と通りを歩いてその場を離れていった。


「左近大夫様も人が悪い。わざわざ俺を使者に使っているのだから。」


 ♢♢


 越前国 一乗谷館


 左肩にできた傷跡を見ながら、朝倉式部大輔景鏡は舌打ちせずに医師―谷野一栢たんのいっぱくの養子である三段崎安宿みたざきあんしの治療を受けていた。


「もう大丈夫でしょう。孝景様も御身を案じておりましたからな。」

「お世話になりました。」

「土岐の家中にも良い腕の者がおりますな。乱戦の中で式部大輔様を狙うとは。」

「いえ。あれは斎藤の旗でした。」

「斎藤……ですか。」


 その名を聞くと朝倉家中の医師は皆苦々しい顔をする。斎藤新九郎利芸が行った虫垂炎手術なるものは前例を見ない腹を開いて行うという手法と、内腑の悪化を治して見せ体内から石を取り出して見せたという事実から京の都のみならず山口・博多や駿府・小田原までその情報は広まっていた。

 当然だが同時期に朝倉が作った谷野一栢の医書なぞあっという間に忘れ去られた。谷野一栢自身は畿内にその名を轟かせている人物だが、新九郎という新星には敵わなかったのである。


「土岐の桔梗紋が入った鎧、であるに斎藤家中の臣……孝景様が今調べておりますよ。稲葉山には今や透波が常駐していますからね。」


 近年の驚異的な斎藤家中の伸長ぶりに、朝倉の忍びは稲葉山での情報収集を進めている。玻璃の器や漢方は秘匿が強すぎて未だ情報は入っていないが、石鹸は油と海藻を使うらしいことが判明している。


「しかし、油を使う石鹸は作っても売る場所がないのが困りますな。」

「出来た物も斎藤の石鹸には遠く及ばぬ……あの不思議な爽やかさが出せぬだけでなく、大山崎の油座が販売に関わっている故畿内では売ることができぬ。」


 越前には再三再四大山崎の油座から座に加わるよう文が来ている。油座に加わらないから石鹸は自家生産できているが、このまま続けると将軍家とも結びつきの強い大山崎経由で幕府から苦情が来る可能性もある。


「能登方面に売ろうとしたら下呂の温泉から流れてきた斎藤の石鹸が既に売られていたと聞きましたが。」

「そのせいで石鹸は爽やかさがないため偽物扱い。買いたたかれて関銭を払うと商売にならぬので加賀くらいしか売れませぬ。」

「その加賀は本願寺の拠点。朝倉の品は買ってくれず……。」

「困りましたな……。」


 朝倉はじわじわと追い込まれている。昨年はウンカの害で作柄も良くなかった。おまけに先日の敗戦である。


「……まぁ、また痛むようであればお呼びください。それでは。」

「かたじけない。」


 越前和紙の畿内での売り上げも徐々に落ち込んでいる。文書用の美濃和紙は近年特に販売数が伸びているものだ。そのため越前の財力に陰りが見え始めているのだ。

 舌打ちを始めた式部大輔景鏡は、深みを増した隈の奥にある瞳を見開いて、弓で討たれた時のことを思い出していた。


「忘れぬぞ……忘れぬぞ……痛みも、お前の顔も、血の臭いも。……決して、忘れぬぞ。」


 その囁きは、部屋の雰囲気を暗く、重くするような音色を持っていた。


 ♢♢


 尾張国 那古野城


 どたどたと騒々しい音が弾正忠家の屋敷に響いている。暖かな日差しに縁側で微睡んでいた猫が目を覚まし、尻尾を逆立てている。


「爺!帰ったぞ!!」


 威勢良く障子を開けた少年によって、障子の紙が一部剥がれる。


「若様!あれほど勢いよく開けないで頂きたいと申しておりますのに!」

「良いではないか爺。また美濃から買えばいい。安いから予備の障子紙を買ったのだろう?」


 弾正忠信秀嫡男、名を吉法師という。現在数えで7歳だが、爺こと平手政秀はその姿に溜息をつく。


「若様、まずはお体を洗ってきてくだされ。また相撲をしてきたのでしょう。」

「うむ。近所の悪がきどもを投げ飛ばしてきたぞ!」


 肩に掛けた泥だらけの上着に上半身裸の姿は一家の跡継ぎには御世辞にも見えない。しかしにかりと笑ったその笑顔には左えくぼが現れ、歳相応ながら整った顔立ちの片鱗が見える。


「この前買い足した石鹸で全身洗ってきなされ。誰ぞある!」

「爺。そろそろ自分で体は洗えるぞ。」

「一度石鹸を食べようとした方とは思えぬ言い草ですな……。」

「食べるなと書いてあったが、見たら食べられそうだったのでな!」

「……今日使うものには整髪剤なるものがついております。そちらも決して飲まないでくださいませ。」

「なんだ、新しいものがついているのか!舐めるくらいならなんとかなろう?」

「いけませぬ!!」

「やれやれ、爺は真面目だな。」

「これでも若い頃は弾正忠の家中でも恐れられたのですがな……。」


 そんな政秀のぼやきに耳を貸さず、吉法師は湯を沸かしている庭へと駆けだした。が、突如ぴたりと停止すると政秀に振り向き、


「爺!体を洗ったら新作の絵本を読むから準備しておいてくれ!」

「若!少しは和歌や漢籍をお読みくださいませ!」

「嫌じゃ!あれは意味が分かりづらい!新九郎殿の一寸法師の方が数倍面白いぞ!」


 そう叫んで彼は再び走り出した。政秀は溜息と同時に、頭が痛くなるのを抑えられなかった。


 一方の吉法師は、体を侍女に洗われながら呟いていた。


「そうじゃ、いくら強い敵でも内から攻められれば弱い。新九郎殿は実に頭が良い。面白いのに兵法まで学べるのだ。」



 翌日、弾正忠の屋敷に三河攻めをしていた弾正忠信秀の情報が入ってきた。

 吉法師も耳聡くそれを聞きつけて報告に立ち会っていた。


「それで、安祥城は落ちたのか?」


 終始自信満々な吉法師と対照的に平手政秀の不安そうな顔に、使者は満面の笑みで答える。


「はっ。御味方大勝利にて、安祥は我らが手に。松平長家を討ち取りました。」

「そうか……獲ったか……。」


 春の早い時期から弾正忠信秀は安祥城を攻めた。その軍勢は水野氏の援軍を含め7000。後方の長島の危機がほぼなかったことや、斎藤を中心とした土岐勢が後方から睨みを利かせたことで可能となったほぼ全力であった。

 結果として安祥の城主松平長家は奇襲や撹乱で粘るも衆寡敵せず討ち取られ、城は弾正忠信秀のものとなった。


「それ見たことか。爺、父上なら大丈夫と言ったであろう。」

「戦とは何が起こるかわからぬもの。人は矢の一本でも死にますし、内腑が傷んでも死ぬのです。」

「内腑なら新九郎殿の力があれば治るやもしれぬぞ。」

「典薬大允になられるとか。凄まじい傑物と聞きますな。一度お会いしたいですな。」

「会う時は一緒に会うぞ。絵本の礼もせねばな。」

「わしとしましては、絵本にばかり感けず他の学問もしていただきたいのですが。」


 溜息をつく政秀に、使者は両者の顔色を窺うばかりである。気づいた政秀は顔を上げ続きを促した。


「おお、すまぬな。他にも報告することがあろう。話してみよ。」

「はっ。殿は安祥城に援軍すら出せぬ松平清定は動けぬと判断され、桜井松平の本拠である上野上村城に向かわれました。」


 弾正忠信秀は安祥城に松平清定が援軍すら出せなかったことで岡崎城の掌握も出来ていないと判断した。そのため清定の本拠である上野上村城に4000の兵を派遣し、清定を揺さぶりにかかったのだ。


「流石父上じゃな。犬と肉じゃ。」

「犬と肉?何のことですかな?」

「知らぬのか爺。今の清定は水面に映った肉と自ら咥えている肉のどちらをとるか試されておるのじゃ。新九郎殿の絵本にあった話ぞ。」


 イソップ童話の『犬と肉』。一頭の犬が肉を咥えて歩いていると、水面に映った自分が持つ肉を見てそれを欲しがり、それを寄越せと水面の犬に吠えた時に咥えていた肉も水の中に落としてしまって全て失う話。


「今の清定は水面に映る岡崎城を咥えようとしている犬よ。それを大事にして本拠の上野上村城まで失おうとしている。」


 お世辞にも自分の物には出来ていない岡崎城に固執するか、旧来の本拠地を大事にするか。


「恐らく父上は岡崎城を明け渡し降伏すれば上野上村城を無傷で返す気であろう?」

「そ、そこまでは某、聞かされておりませぬ。」

「そうか。ま、そうなるであろうよ。」


 絵本を読んでくると言って吉法師は興味が失せたとばかりに部屋を出ていった。


 政秀は吉法師の慧眼に眼を見張ると同時に、それを教える絵本を祝いとして贈ってくる新九郎に恐怖を覚えていた。

 まるで吉法師を育てるべく教えを囁くようなその行いに、背中にかく脂汗が止まらなかった。

土日両方とも投稿予定です。思った以上に分量が多くなったため分割しました。

朝倉や織田という近隣の大名家から見た土岐・斎藤と信長の初登場になります。

三河は良いサイズの地図が見当たらなかったので、そのうちなんとか見繕います。


今はまだ子供なので割とテンプレな信長のままですが、少しずつ主人公の影響が出てきています。

秘かにずっと信長に贈り物をしてご機嫌取りをしていました。

典薬大允補任の話はまだ尾張までは届いていません。(予定止まり)

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