第23話 急募:年上が弟子入りしてきた時の処世術
最初から♢♢まで三人称になります。
美濃国 稲葉山城
人々が寝静まった頃、稲葉山の屋敷の一室で斎藤左近大夫利政は灯りもつけずにじっと虚空を睨んでいた。
しんと静まり返ったその部屋で唐突にぼそり、と一言言葉が口から発される。
「あれは何だ。」
尋ねるようで誰にも尋ねる気のない一言。わざわざ閨に誰も呼ばず向かわずにいるのは、ただの確認か、得体のしれない何かと会話する為か。
「……悪くはない。むしろ名を上げた。」
胡坐をわずかに崩し、天を仰ぎ見るように上を向く。あるのは天井だけ。いつもと違い、耳役すら控えていない天井。
「わからないとは恐ろしいことだ。何より、やっていることは全て人の身でしかできぬ所業であることか。それが最も恐ろしい。」
顎に手を当てながら、今度は視線を右斜め下に。やや険がとれるまで、たっぷり四半刻(約30分)がかかった。
「それでも、喰らって見せねば欲しい物は手に入らぬ。利がある限り、鬼でもわしは抱えて見せようぞ、新九郎。」
♢♢
年が明けた。天文6(1537)年である。やっと数えで11歳。義務教育は終わってませんよ父上、なんて口が裂けても言い出せないのは父がマムシだからである。
明日は大桑で太守土岐左京大夫頼芸様に新年の挨拶に行かないといけない。三が日の間くらい休ませてほしい。
先日の商人は無事快復した。傷口も化膿せずなんとかなった。15日ほど安静にし商人は宿を引き払った。
仕事もあって毎日は様子見に行けなかったが、豊が宿に出向いて食事内容や顔色などを逐一報告してくれたので良かった。改めて今は医者じゃないための不自由を感じた。高いリスクを承知で摘出を選んだのは間違っていなかった。
彼は桑名の問屋だったそうで、周辺諸国には手術の噂が瞬く間に広がった。津島の商人に見られたのも広まるのに拍車をかけている。
曰く、斎藤の若様は内腑の病も治せる神の手を持つ、だそうだ。
ちなみに、この件でも朝倉の反発を招いたらしい。朝倉は昨年に谷野一栢という医師に明の医学書を翻訳させ日ノ本最高の医学はここにあり、と喧伝したらしい。それが今回の手術成功で完全に霞んでしまったとか。逆恨みじゃない、それ。
父左近大夫も3日ほど後に話を聞きにきた。絶対怪しまれると思ったが、聞かれたのはどうやって治したかや使った道具や薬品についてばかりだった。
なんか拍子抜けだ。慌てて解体新書作成を始めた俺が間抜けみたいじゃないか。
母の深芳野は細かいことに拘らない人らしく、
「豊太丸は明の学問に本当に詳しいのですね。」
なんて喜んでいるだけだった。どれだけすごいことか理解していない乳母たちも次代の斎藤の御家は安泰だとか言っているだけだ。なんとか切り抜けたか?
♢
美濃国 大桑城下
そうは問屋が卸さなかった。
「新九郎、そなた見事な医術を身につけたそうだな。京にまで評判が届いておるそうじゃぞ。」
大桑城での新年行事で会った太守頼芸様に、挨拶もそこそこに質問攻めにあった。
「金瘡ではなく外科と聞いたが、流派はあるのか?」
「いえ。明か更に西より来た書物から得た医術ですので、名は存じませぬ。」
「ふむ。ならば余が名付けてやろう。今後は美濃斎藤流医術を名乗るがよい。」
「恐悦至極に存じます。」
「うむうむ。何かあれば新九郎に見てもらおうかの。」
「太守様。利芸は碁も得意に御座います。是非一度御指南をいただきたく。」
「真か利政。優秀な跡継ぎがいて羨ましいのう。」
結局、時機を見て囲碁の相手で今度太守様の屋敷に来ることになった。1人でだ。父左近大夫はうまいこと理由をつけて逃げた。
まぁ、技術が認められれば変えられる歴史もあるだろうと前向きに考えることにした。
しかし頼芸様は和歌や書画といった芸術方面では天才的な人らしく、京でもその腕前は評判だ。特に鷹の絵についてはペンネームまであって、公家や公方様にも愛好家がいるとか。囲碁や将棋も好きらしい。
帰る前に廊下の向こうに見えた同い年くらいの少年にものすごい形相で睨まれた。距離があったのに歯ぎしりまで聞こえ、怖かったので父に後で聞いたら、
「それは頼芸様の先代の正室の御嫡男、猪法師丸様だ。あの方はわしが嫌いでな。嫌いな男の息子も嫌いなのだ。しかもお前は深芳野の子だ。頼芸様も特別に思っているだろう。」
「なんとかして下さい父上。何れはあの御方に御仕えしなくてはいけないんですよ。」
「大丈夫だ。手は打ってある。」
顔まではっきり認識したのは今回が初めてだった。上座にいると顔まで見ないから仕方ない。
しかし父の言葉は全く大丈夫に聞こえない口調だった。口元に浮かんだ薄ら笑いに、背筋が凍る思いがした。絶対何か企んでいるな、これ。
♢
美濃国 稲葉山城
受難の日々は続く。
「御久しぶりに御座います。半井宮内大輔驢庵に御座います。」
「御久しぶりです。あの時はありがとうございました。」
訪ねてきたのは、転生した時に体を診てくれた半井宮内大輔驢庵という医師だ。元々美濃の生まれだった関係で、転生の時は彼の弟子が診断してくれたし、その後一度体を診に京から来てくれた。
今回は後ろに彼の息子2人を連れての帰郷である。嫌な予感しかしない。
「此度はお願いがあってこちらに参りました。」
「如何なる御用事か分かりませんが、何かあるなら父の方が適任かと思いますが。」
「いえ。この件につきましては新九郎様にしかお願いできぬことに御座います。」
嫌な予感が強くなってくる。そう、超過勤務の臭いだ。
「こちらの拙僧の息子2人を、新九郎様に鍛えて頂きたく思うのです。」
「私はまだまだ若輩者に御座います。宮内大輔様に御師事なされるのが一番かと。」
相手の発言にやや被せ気味に拒否していく。年上の教え子とか冗談じゃない。気を遣い気を遣われの関係はストレスの元だ。ストレスで鬱を発症してもこの時代休職願いなんて出来ないんだ。父からの解雇通告はおそらくそのまま人生の終了になるだろう。これ以上の負担は勘弁願う。
「拙僧も明の医学を学びました。しかし、新九郎様のなさった外科治療は寡聞にして存じませぬ。」
そりゃ、この時代にはまだないやり方のはずだ。知っていたら逆に怖い。
「聞けば明から薬になる植物を取り寄せられたとか。太守様にも許可を頂いております故、鍛えては頂けませぬか。」
結局、斎藤の家の名声も上がると後から来た父にも言われ承諾させられた。2人は仏門に入っていて、兄は半井寿琳、弟は半井瑞策を名乗っていた。兄は明の最新式の医術に興味津々だったが、弟は年下に医術を習うのにあまり納得していない様子だった。それが態度に思い切り出てしまっている。
「よろしくお願いしますね、新九郎殿!」
「………よろしくおねがいします。」
誰か、頼むからこの兄弟とストレスなく付き合う方法を教えてほしい。報酬はお小遣いから相応の額を出そう。
医術まで教えてたら月の残業時間が過労死ラインを超えてしまう……。
「外科」という言葉が生まれたのが鎌倉・室町期だそうです。金瘡(または金創)から派生したんだとか。
この当時の医者は産科(いわゆる産婆)・外科・金瘡(刀傷など)・内科くらいの別れ方のようです。
曲直瀬道三あたりでこれに眼科・口腔科などが加わっていくようです。