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第15話  ガラスの道は一年にしてならず、紙漉きの改良も一年にしてならず

医学の発展には産業と技術の育成が必要になる現実。

 書物の海でうたた寝をしていたある日、父上が突然部屋に来た。

 明の書物知識のカムフラージュ用の書物を集めていたら、最近は部屋が1つ書物だらけになっている。定期的にさちが整理してくれるが、勉強のためにもと読んでいると気づいたらまた散らかっている。前世から片づけられない性格は変えられていないらしい。


「何か金になるものを探している。」


 まさか埋蔵金伝説でも探しに来たのかと思いきや、単純に新しい特産品とか作ってもうけたいらしい。


 美濃は昔から美濃和紙という紙づくりで結構儲かっているものの、この前の立て続けに起きた洪水被害の補填ほてんにはとても足りないらしい。

 そんな話もあって石鹸も手をつけたわけだけれど、石鹸はちょっと単価が高い。油がそもそも高価で、相応の数作るには原価で20文(8000円くらい)はする。足軽の年収が大体2貫500文前後(2500文、100万円くらい?)の時代なので、普通に庶民しょみんはたくさん買えない。


 高級品にするためきちんとした木箱に入れて朝廷や幕府、六角や浅井や斯波に献上けんじょうとか贈り物としてサンプルを配ったそうなので、そのうち売れるだろうけれど、美濃和紙ほどは数が売れないし油が必要なので量産はまだ厳しい。

 なので、これはこれでいいから他に何かないかと言われた。



 とりあえず和紙づくりの現場を見に行くことにした。

 死ぬ前に行ったことのある美濃和紙の博物館での記憶が思い出せるので、製法の改良とかできないかなと思ったわけだ。

 これはうまくいけば収入がすぐに増えるし。

 小物扱いの我が友(誰がなんと言おうと友である)新七と共に和紙の工房に向かった。護衛の皆さんいつもありがとうございます。


「おおー、すごいですね利芸としのり様。ここで美濃和紙を作っているんですか。」

「ふむ。」

「若様、あまり中に立ち入ると彼らの作業の手が止まるのでお気をつけください。」

「わかった。ありがとう。」


 あらかじめ作業の様子も見たいと言ってあったので、中に入った直後に頭を下げられた後は黙々と作業が続けられていた。

 見た感じ紙漉かみすきの工程は昔も今も大きな違いがあるようには思えないけれど……働いている人間の年齢がバラバラすぎる。上は白髪の老人から下は自分とほぼ同い年と思われる娘までだ。


「なぜこんなに働いている者の年齢に幅があるのです?」

「若様、紙漉きは代々受け継いでいく技です。家業として行いますゆえ祖父母や子供も手伝える年齢になれば手伝い、子が技を覚えるのです。」


 なんだその非効率なやり方は。


「どこかでみんなまとまって大きな施設で分業でやればいいのに。」

「分業?はわかりませんが、彼らもこれで食いつないでおりますので、他人にはそうそう教えるものではありません。」


 そうか。この時代は飯の種だから簡単には教えないんだ。現実に改めて難しさを感じる。

 と、そこで少し年上くらいの男の子が反対側の出入り口から中に入って来た。


「おとうこうぞほどいた分が残り少ない。」

「よし、なら婆様と一緒に一房ついてきてくれ。ついたら解かすのも頼む。」

「あいよ。行こう婆ちゃん。」


 2人が外に出たので、せっかくなのでそちらも見てみることにした。

 すると、なんと楮の繊維せんいを解す為に臼に入れた楮を打ち棒で叩き始めた。

 ある程度終わると桶に移し、今度は桶の楮を石包丁を使いつつ繊維をバラバラになるようほぐしていく。思わずお婆さんに声をかける。


「えっと、この作業はどれくらい時間がかかりますか?」

「そうですなぁ。夜明けから始めて、お天道様が天辺に上がる頃までやると3つほど房が終わって、紙が20枚ほどになります。」


 つまり1日だと頑張ってもそれくらいしか紙は作れないのか。夜明けから正午頃だと7時間だ。ここにもブラック職場があったのだ。児童労働に定年退職を許さない環境。退職金はあの世では受け取れない。



 というわけで、この工程をなんとかすることを最初の目的とすることになった。

 細かい部分まではわからないし作れるわけもないので基本は職人さんに丸投げだが、水車を使ってナギナタビーターと打解だかい機を作ることにした。

 小刀は手術具の要領で使えるので日に2時間ほどを木の小型模型作りにかけ、4ヶ月で仕組みは完成した。歯車の回転数の調整にこだわりすぎて時間がかかったわけでは決してない。

 水車動力で打ち棒が上下して叩き解し、水車の回転軸にのって回るナギナタが繊維をバラバラにするのだ。

 現代のものほどすごくはならなかったが、完成すれば飛躍的に生産力が上がるだろう。


「金が足りんな。」


 模型を見せて水車が必要と説明したらこう言われた。


「とりあえず1つはなんとかしよう。そこを数人の職人が共用するようにして、成果があれば増やすことにする。」


 おかしい。比較的即効性の高いものを選んだはずなのに。


「うまくいけば少し値段を下げて都の紙を独占しにいくか。いや弾正忠だんじょうのちゅうとの関係もある。津島を抱き込んで東海道を使って各地に売るのもいいな。」


 個人的には記憶力で特典をもらっておきながらこの程度というのは釈然としないけれど、父上は楽しそうなのでまぁ良しとするか。


 ♢


 初夏になる頃、新規の特産品として思いついたのはガラスだ。

 温度計の件もあって調べていたところ、この時代日本でガラスの道具はほぼほぼ作っていないようで、ならば再現を目指すかとなった。

 ガラスの玉とかを昔は作っていたそうだけれど、今ではガラスの原料も作り方も知られていなかった。正倉院の碗が貴重と日本史で教わるわけだ。


 珪砂けいさかまで使っていたのでそれをもらってきて、木灰と石灰を混ぜる。

 高温の窯で熱するとドロドロになるので、それを穴の開いた鉄の棒にくっつけて冷める前に吹きながら成型すると完成だ。

 ただ、鉄の棒を空洞ありで作る、つまり鉄パイプ的な物を鍛治師に作ってもらうのに苦労した。普段は刀か鎧兜の部品しか作らないそうで、空洞ありで太さ均一な長い棒という要求にかなり苦戦したらしい。結局鉄板を丸めて引き延ばす形で作ってもらった。何か特殊な材料を使って熱にも比較的強く作ってくれたらしい。


 自分の試作品ガラスは吹いても厚さが均一にはならず、底も丸くて安定しないひどいものになった。

 そういえばガラス職人の善治さん(59)も、手首を回しながら均一な良品が作れるようになるには10年近くかかると言っていた。これは根気が必要かもしれない。


 とはいえ我が国では長く作られなかった(あるいはまともに市場に出回らなかった)ガラス製品ということで、美濃太守頼芸(よりのり)様に早速献上された。

 明の製法を再現してみせたということになっている。

 職人になってもらうため雇った20人ほどの若者たち(次男三男で洪水のせいで稼ぎがなくなった人たちだ)には工房内で頑張ってもらいたい。親方になって嫁さんもらうんだと張り切っていた。


 透明なガラスは試作品から3ヶ月後にやっと顔料で使われていた酸化鉛の配合割合が感覚でわかるようになった。見事やり遂げた職人さんには金一封をあげた。技術はあらかじめガラス工房内で共有すると決めていたので文句は出ずに済んだので、今後も技術の共有は徹底させた。父からは工房外では口外禁止を言い渡されていた。患者さんの守秘義務みたいなものだしそれも仕方なし。



 本格的に売り物を作れるようになるのはもう少し先になるだろう。

 とりあえず試作品のヘンテコな物は父上によって朝廷や幕府、商人にばらまかれたようだ。


 ガラスの蒸留器や温度計はいつできるやら。

ナギナタビーターは明治時代のものですが、その前身となるホランダービーターは17世紀のもので、水車動力だったそうです。

打解機は水車で餅つきみたいに楮の繊維を叩く道具なので、再現は可能です。

ガラス関係はまだまだ職人の技術不足ですので、今後時間が経つごとに色々出てくる予定です。

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