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第13話 元服

前の話に後から勢力図・地図を挿入しております。

まだ見ておられない方は是非見ていただきたいと思います。

他の話にも挿入したいですし文の一部修正もしたいですがなかなか手が回りません……。

 美濃国 大桑城下・頼芸よりのり仮屋敷


 年が明けて天文5年(1536年)、年始の挨拶に土岐左京大夫頼芸様のもとに行くのに父上に同行させられた。

 馬の吐く息まで白い中移動をし、正装のためやや薄着で年始の挨拶を行った。


「寒い中大儀だった。温かい汁物と食事を用意させている。少し暖をとろう。」


 上機嫌の頼芸様は集まった家臣に食事を振る舞っている。美濃国内に敵がいるのになぜ上機嫌かというと、ついに美濃の守護に任ぜられることが幕府から伝えられたためだ。

 いよいよ「美濃守護(自称)」じゃなく「美濃守護(公式)」になるわけで、機嫌が良くなるのもむべなるかな。


 そして、これと同時に色々な動きが並行して進んでいるらしい。

 まずは六角定頼との和睦。土岐の内紛を仲立ちしてたのに頼芸様がそれを無視して法要をしたから出陣してきたのを、守護が頼芸様になれば名目がなくなるわけだ。

 任命と同時に不破関から兵を退く予定らしい。なんという出来レース。

 更に頼芸様と六角定頼の娘の婚姻も話を進めているとか。このあたりの動きはほとんど隠しきれていない(というより隠す気がない)ので、朝倉も知っているだろう。


 次に進んでいるのが守護代斎藤帯刀左衛門尉利茂の帰還だ。守護任命は時間の問題なので、守護代辞めさせられたくなければ戻ってこいという感じにやや強気で交渉しているらしい。


 朝倉も守護が変わったら近江方面の六角の支援がなくなるわけで、かなり焦っているようだ。でも冬だから軍勢は送れない。もどかしいだろう。


 一番困っているのが斎藤宗雄(むねひろ)だ。どうやらしきりに本願寺と連絡を取り、その庇護を受けようとしているらしい。既に妻子は美濃を脱出したという噂もある。多分唯一生死がかかっているから、当然必死にもなる。


 そして、もう1つ決まっているのが自分の元服の儀を行うことだ。数えでも10歳だし満年齢だと8歳なんですが。まだまだ遊びたい盛りですよ父上。


「今元服せねば頼芸様の守護就任に間に合わんだろう。守護代を空白にしないためにはわしと其方そなたが一緒に斎藤の名を名乗らねばならんのだ。」

「親の都合にいつだって子供は振り回されるのですね。」

「先日の火付けの時は大人ばかり振り回しておいて良く言うわ。」


 人命救助は他の何よりも優先されるのです。それに知ってますよ、これを機に寺社の場所移動させて城下の統制強くしようとしているでしょうに。


「さて、何のことだ。」


 マムシだなぁ。面の皮が厚いこと厚いこと。



 烏帽子親えぼしおやは土岐左京大夫頼芸様本人がしてくれた。最初は別の人に頼むはずだったらしい。報告した父の話を聞いて頼芸様が「人命を救うとは天晴あっぱれな跡継ぎよ。褒美ほうびに余が烏帽子親となろう。」と言ったらしい。主君が烏帽子親になる意味は家臣との結びつきが強くなることだ。代わりに元服の儀自体を格式にのっとってやる必要が出てきて簡略化できないと父はなげいていた。こちらも覚えることが多くて面倒なことこの上ない。


 前髪がバッサリされてまげを結う事になったので、ただでさえ痛い木の枕がさらに痛くなりそうだなと思った。あれは早くなんとかしないと。後、ひげを剃るのに毛抜きみたいな道具でやるのも嫌なので、早々に前世で使っていたT字型の剃刀かみそりを用意したい。


「では、其方の名は今日より長井新九郎利芸(としのり)だ。余の一字『芸』を与える。守護代の家に恥じぬ武士となれよ。」

「ありがとうございます。長井新九郎利芸、精一杯精進し、御家のお役に立てるよう努力して参ります。」


 御偉い方々の前で頭を下げつつ、決められた口上を手の中に隠したカンペを見ながら述べる。

 斎藤守護代の名付けのルール的に「利」の字が前なのは代々の慣例だそうで、外から入るのでこれを崩すわけにはいかないと頼芸様から言われてこの名前になった。

 しかし、義龍よしたつって最初から義龍だったわけじゃないのか。父の「道三」は法名ほうみょうらしいので、出家するまで名乗らなさそうだ。いつになったら現世の悪行について悔悛かいしゅんするのか。むしろ本当にするのか。疑念は晴れない。


 ♢


 雪解けのやや進んだ3月、田植えとの合間のわずかな期間で朝倉景高は最後の攻勢に出てきた。

 大野郡司として道の状態から動かせる限り動員したらしくかなり本気のようだった。西美濃の味方は斎藤宗雄の動きに対応させられ、大桑の兵も治安維持のため動かせず。結果として越前国大野郡の東氏とうしが持つ支城・穴間城と石徹白いとしろ城の周辺が完全に敵の手中に落ちることになった。越前との国境付近の国人は緊張状態が続くことになるため、当分軍役は免除することになるそうだ。寝返りも防がないといけないから当然か。


 ♢


 春の陽気に包まれる穏やかなある日、朝廷の使者が訪れ、頼芸様の美濃守への任命が決まった。同時に幕府からも内々に美濃守護に任命され、名実共に美濃の支配者は頼芸様ということになった。

 翌日には六角定頼の使者が訪れて祝賀を贈ってきてその日に和睦が結ばれた。ちなみにこの使者、3日前には不破関を超えている。

 その翌日には早くも六角軍の撤退が開始され、正室として六角定頼の娘さんをもらうことになった。これぞ出来レース。ここまでの流れを表現するなら、出兵まで込み込みで「強く当たって後は流れで」状態である。



 あっという間に一連の段取りが進み、数日後には待機していた国人領主たちを集めて祝いの席が設けられた。

 当然のごとく参加させられるのは何故なのか。


「2人で斎藤の名を継ぎ守護代を名乗ることになるのだ。ここで顔見せせずしてどうする。」


 いやまぁ、仰る通りなんですけれどね父上。でもこう、心の準備というやつができてないんだ。なにせ前世も死ぬ時までに医局長とかに出世できませんでしたし。

 美濃守護土岐左京大夫頼芸様の最初にやった仕事が守護代への父の任命である。同時に父と共に姓が斎藤に変わった。


「利芸よ。わしは以後左近太夫利政(としまさ)を名乗ることにする。斎藤左近太夫利政だ。覚えておけ。」

「其方は今日から斎藤新九郎利芸だ。余のために、そして父のために頑張るのだぞ。」


 なるほど、つまりこれから自分が斎藤新九郎利芸と呼ばれて、父上は斎藤左近太夫利政と呼ばれるわけだ。いよいよ斎藤道三誕生まで秒読みだ。

 そう思っていたら夜の宴会で親しい人は酒が入ると大体がまだ豊太丸か若様呼びだった。まだまだ子供の体だから別にいいんだけれど。なんかもやっとするのは仕方ない。


 ♢


 夏頃には正式に幕府の美濃守護に任命されたことで斎藤帯刀左衛門尉利茂が美濃に来た。

 彼は頼芸様に頭を下げて守護代に復帰した。

 父と2人で形式上守護代を行う形となり、稲葉山は引き続きうちが保有する事になった。

 帯刀殿は大桑の守護の屋敷のそばに暮らすらしい。

 介入の名目をほぼ失った朝倉家中は大野郡平定で損切りにかたむいているようだ。土岐政頼とその息子はほぼ飼い殺し状態になるだろう。とはいえ先日の戦では元服前ながら活躍したことが周辺には知られている。油断はできない。


 元服したので評定にも毎回出席させられるようになった。といっても何か発言することはないのでただの置物である。そこにいるのが大事な立場。

 今日の議題は京都周辺の情勢についてだった。

 法華宗(日蓮宗)が比叡山と六角によって京から追い出され、帝からも追放処分を受けたらしい。そのため追い出された御坊様が一部美濃に逃げてきて父上が保護している。


 常在寺再建に関わってもらうらしいけれど、教養ある人が多いなら色々教えてもらおうかと思っている。日顒にちぎょう様の知り合いが多いらしい。診察ついでに聞いたら囲碁の作法を教える御坊様もいるそうな。前世では囲碁は趣味の1つだった。強い人がいるなら是非打ちたい。


 他にも中嶋城で蜂起ほうきした本願寺の強硬派が木沢長政に壊滅させられたりして、ようやくこれからは落ち着きを取り戻せそうなんだと。フラグにしか聞こえないけれど。


「いやー、頼芸様の守護就任に斎藤守護代の安泰。これで我らも当分は戦に巻き込まれずにすみそうですなぁ。」


 誰だフラグ立てようとしてるのは!そういうのは口に出したらダメなんだよ!わかれよ!

史実での義龍も1536年に元服しております。その時の名前は利尚としひさですが、この世界では色々史実と変わった部分が出てきたため頼芸に目をつけられて偏諱を受けました。

そんな想定で書いております。

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