<< 前へ次へ >>  更新
12/351

第12話 近江和議と守護土岐頼芸 その4

自分なりの区切りがうまくつかなかったのでちょっと長くなっております。


追記

私の(一方的)お師匠様である神奈いです様が地図を作ってくださったので掲載させて頂きます。

ありがとうございます。


■美濃周辺略図

挿絵(By みてみん)

■美濃・越前関係城配置図

挿絵(By みてみん)

 美濃国 稲葉山城


 畿内の本願寺が事実上壊滅し、9月に本願寺ー細川の間で和睦わぼくが成立。これに六角も参加することになった。

 これにより六角氏の本隊はフリーハンドを得たことになる。そのため10月に入った頃、六角定頼は美濃へ軍を進めるべく動員を開始した。

 一方、朝倉孝景(たかかげ)は大野郡司の弟景高(かげたか)を総大将とする6000強の軍勢を美濃国境に動員。秘かに大桑おおが城入りした土岐次郎政頼(まさより)の子と連携して稲葉山城に攻め込む様子を見せている。


「両軍合わせて14000近い軍勢か。これは困った困った。困ったぞ道利。」

「真ですな兄上。いやぁ困った困った。」


 で、なんでこの父兄弟こんなにあわてていないかというと。

 実際は六角の本隊はこちらに来れなさそうだからである。


 理由は先の和議で和解したはずの浅井の動きが不穏なのと、本願寺の和議に反対する一派が石山本願寺を退去して中嶋城に集結しつつあることである。

 和議反対派には坊官の下間頼盛しもつまらいせいらも参加しており、今は大人しいがいつ暴走するかわからない。


「というわけで、豊太丸よ。今城下の民が避難しているのでこのくるわから離れぬようにな。」

「畏まりました父上。薬草園までは大丈夫ですか?」

「問題ない。何か戦で使えそうな物が採れていれば持ってくるように。」


 というわけで、六角・朝倉連合軍に対するは鷺山さぎやま城の土岐頼芸(よりのり)様、稲葉山城の父―長井左近大夫規秀、大垣城の竹腰尚綱たけのこしひさつな篠脇しのわき城主東常慶(とうつねよし)木越きごし城主遠藤胤縁(たねより)などの面々ということになった。



 そしてこの一連の戦は、やはりというか六角が早々に離脱した。どうやら比叡山と法華宗(日蓮宗)の対立が激化し、坂本で延暦寺僧兵が挙兵。京の法華宗各寺も僧兵と宗徒しゅうとを動員し大津郊外で対陣となったらしい。

 おまけに反乱中の細川晴国と室町に戻った公方様が密かに通じて管領細川晴元様を排除しようとしていると噂が流れ、京周辺がまた荒れそうな情勢になった。

 そのため六角が苦労して作った本隊のフリーハンドもわずかな期間で呆気なく終了というわけだ。

 噂では比叡山の援軍に向かうらしく、残るのは定頼の弟大原高保(たかやす)率いる3000だそうだ。彼らは浅井の牽制けんせい役も兼ねるらしく、国境の近い不破関周囲を警戒するだけで特に何もしてこないらしい。

 そのため彼らに呼応した多芸たぎ郡領主で反頼芸派の斎藤宗雄(そうゆう)が半ば孤立している状態である。


「朝倉と大桑・多芸だけならやりようがありまする。」


 なぜか末席に参加させられた軍議で、父左近大夫が真っ先に口を開いた。


「中濃の各務かがみ・佐藤・近衛ら諸将に動いて頂き、頼芸様を大将として大桑城に攻め込んで頂きたい。」

「兄上の命で調べたところ、現在の大桑城はまだ12歳の政頼様の嫡男ちゃくなんが城代に入っているのみの状況のようです。急な入城でまだ兵も兵糧も満足に集まっていないとのことで・・・。」

「攻めるなら今です。頼芸様、ご決断を。」


 叔父の隼人佐はやとのすけ道利の情報も合わせて父左近大夫が土岐頼芸の説得を図る。


「しかし、なれば朝倉と多芸の宗雄はどう対処する?」

「私がうまく敵の勢いを潰します。敵の大将は朝倉景高と聞きます。そうそう負けません。この城は息子豊太丸に一時期預ける予定です。多芸の連中は稲葉良通殿に叩いてもらいます。」


 え。何それ聞いてないんですが。とりあえず頭は下げるけれど。この父怖いし。


「わかった。ならばまずは大桑城の奪還を行う。盛政、兵をまとめよ。」

「お任せください。各務の精兵で大桑城などすぐ落としてみせましょう。」


 と、そんなことになって形だけの守将をやらされることになった。


 ♢


 11月になった。大桑城は陥落間近ながらまだ落ちてはいない。政頼勢が優秀なのか、うちの頼芸様が大したことないのかはわからない。

 一方で朝倉軍も父左近大夫の戦い方に苦戦していた。こちらが動かせる軍勢は多くて2000あまりのため、父は正面からは戦わず、地形を利用して小道で襲ったり兵糧を焼いたり川の水をき止めて敵が来たら流したり・・・と、ベトナム戦争のゲリラも感嘆するであろう手際で敵を翻弄ほんろうしていた。

 おまけに情報を巧みに流し、土岐頼芸様とその兄弟の領地へ誘導して自分の家臣の領内の被害を減らしていた。しかもそれに殆どの人が気付いていないか偶然と思っているのだ。さすがマムシ。やることが汚い。


 結局、越前大野郡の国人領内に朝倉景高が一定の支配圏を確立して終わりそうらしい。土岐次郎政頼は息子を助けに行く余裕はなく、このまま大桑城と大野郡の小城いくつかを交換し合う形で終わりそうだ。

 孤立した斎藤宗雄は近江の本願寺派の寺と連絡を取り合っているらしい。そこだとこちらも追いかけようがない。



 11月が一週過ぎる頃、大桑城が落ちたと連絡が入った。左京大夫頼芸様は大桑の城下に屋敷を置いて治安維持を図るそうだ。

 一方で朝倉軍も事態を打開する為に援軍を派遣し、部隊を2つに分けてきた。大野郡の占領地を守りとう氏を抑える部隊と、井ノ口へ攻め込む部隊である。

 父左近大夫はその動きを察知したものの、兵数が減って長良川を舟で下流に降ることで先発部隊は郡上郡を突破していた。斎藤宗雄の妨害もあり、井ノ口の東に父上が到着した頃にはそれなりの兵数が集まってしまっていた。



 この一連の侵攻で最も大きな戦は金華山きんかざん北東の郊外で11月14日に行われた。

 こちらの先鋒だった岩手重元(しげもと)の部隊が奮戦したこと、相手は敵地での行軍続きで戦意が鈍かったこともあってなんとか辛勝。敵は大野郡へ撤退し防衛に成功した。父は朝倉勢を追って揖斐川沿いに北上していった。


 そして、家中が安堵あんどの空気に包まれたのが隙を生んでしまった。

 後に捕まえた朝倉の忍びを問い質すと、勝ち負けなど最初から気にしていなかったようで、連絡のあった日にただ任務を遂行したらしい。


 ♢


 11月15日未明、稲葉山城の本丸で寝ていると、けたたましい鐘の音で目が覚めた。


 やぐらの兵が大声で叫ぶのを聞きながら、救急外来で急患が来た時のような既視感きしかんを感じて寝所を飛び出し、寝巻きのまま部屋を出ると、城下が一部赤く染まっているのが城壁越しに見えた。


「付け火か!?誰ぞある!!」

「若様!ここに!」


 叫ぶと、武装したままの不寝番ねずばんらしき兵が2人やってきた。


「状況はわかるか?」

「申し訳ありませぬ。今物見櫓(ものみやぐら)に確認に行かせております所で。」

「叔父上と御前ごぜん様に連絡!私は城下に状況を確認しに行く!」

「で、ですが……。」

「早くしろ!城下にもまだ一部の民が残っているのだ!」


 人命がかかっているのに悠長なことはしていられない。部屋に戻って今までに用意した医療具と念のためにと用意していた布束を持って城下へ向かう。

 城門で止めようとする兵を「ならついて来い!」と強引に数名連れて井ノ口へ向かうと、武士の住む地域より外周に近い場所が燃えているのがわかった。

 兵が周囲を用心できる範囲で小走りしていると、先程の不寝番の兵が走って追いついてきた。


「ご、御報告!常在寺と物部神社に火の手が上がっていることを物見が確認しました!」

「御苦労!では常在寺へ向かう!」


 人が多いであろう常在寺へ足を向ける。途中で兵が数名集まっている場所があり、聞くと朝倉の忍びを見つけて討ち取ったらしい。不審な服装と動きに声をかけたら逃げたのだとか。1人残して合流させ、常在寺へ向かった。

 常在寺に近づくと周辺は炎で明るく照らされていた。通りの漆喰しっくいの壁に数人がもたれかかっているのが見えたので声をかける。


「大丈夫か。怪我はないか?」

「に、逃げる時に足を少し捻りましたが、それだけです。それより、他の方を。」

「わかった。これを持って腕に巻いていろ。」


 傷口を見て緑色に染めた帯状の布を持たせ、次へ向かう。部下には周辺にいる人々を集めるよう命令する。


「大丈夫か。怪我はないか?」

「左手に、火傷をして、腰を打ちましたが、歩くことはできます。拙僧より、あちらに酷い火傷をした方が。」

「わかった。これを右腕に巻け。」


 赤くはなっているが命には関わらなそうと判断。火傷の具合から黄色の布を持たせて重傷者のいると言っていた方へ向かう。

 トリアージが災害現場での人命救助の鍵となる。前もって古い布の切れ端で作っておいて良かった。

 重傷者がいると呼ばれた方でも黒(つまり蘇生不能)はいなかった。赤もたった1人だけ。それが、


日顒にちぎょう様!」

「と、豊太丸殿……拙僧は、もうダメです。数日しか持ちません。他の方の治療を……。」


 日顒様だけだ。この人が一番重傷。でも助ける。助けられる。


「他の火傷を負った者には水で冷やしてこれをその場所に塗れ!日顒様は私が治療する!其方と其方と其方が水汲み!他は黄色の布を持つ者から順番に並ばせて水で冷やしたり薬を塗ったりしやすいように火傷箇所を露出させる!!早くしろ!!!」

「は、はい!」


 強く睨むと兵たちは言われた通り動き出した。渡した薬は紫雲膏しうんこうだ。第一段階の火傷ならこれで十分。シコンもトウキも明から手に入れて栽培しているので、最近ようやく量が作れるようになってきた。ゴマ油は油売り一族だったので結構多めに用意できた。豚の油は代わりに猪の油で代用したので若干臭いのが要改善だ。中型のつぼ一つ分はあるので、なんとか足りるはず。

 兵が指示通り動き出したのを確認し、日顒様の治療に入ろうとしたところで1人の若僧が近寄ってきた。


「若様、拙僧は怪我をしておりませぬ。お手伝いさせて頂きたく。」

「ではあちらの黄色の布を身につけた者から兵に渡した膏薬こうやくを処置していただきたい。」

「かしこまりました。……日顒様を御救いする方法が御有りで?」

「大丈夫です。絶対に助けます。」


 真っ直ぐ射抜くような眼を正面から見据える。数瞬の後、


「お願いします。日顒様は拙僧の師なのです。」


 そう言って彼は黄色の患者たちに向かっていった。気を取り直して日顒様に正対する。


 日顒様には紫雲膏ではダメだ。何か所か水泡みずぶくれができている。こういう状態だと神仙太乙膏しんせんたいつこうだ。一部の材料が美濃だと育たないが、ほぼほぼ美濃で材料が揃う優れものだ。紫雲膏と合わせると蜜蝋みつろうが手に入りにくいので、そのうち養蜂ようほうをなんとか始めなければならない。

 頭皮にも火傷がありこれが一番酷い。この時代だと厳しいだろうけれど、俺ならなんとかできる。


「この前死んだ牛がいて助かった。」


 牛の胆汁を頭皮の火傷に塗りたくる。胆汁の成分の1つがステロイドだ。単離できる日が来るかはわからない。でも今手に入る最上の熱傷の治療薬だ。


「大丈夫です。これで治りますよ、日顒様。」

「豊太丸様、貴方は……。」

「絶対、死なせませんから。ここで安静にしていてください。」


 安心させようと軽く笑顔を見せた後、やってきた叔父上の兵に日顒様を任せた。周りの建物がほぼ焼けたからか火の勢いは弱まっている。始末は叔父上に任せよう。俺は黄色の布を腕に巻いた集団に向かっていった。


 ♢


 結局、夜明け前に全て鎮火したこの火災で死者は出なかった。うちと関わりの深い常在寺や橿森かしもり神社、物部神社などが狙われ、商家にも少なくない被害が出た。

 死者は忍びに討たれた兵が数名だけ。敵の忍びはほぼ全滅させたらしい。

 被害について父上は、


「あそこで負けていれば城下が丸ごと焼かれていただろう。まだなんとかできる範囲で収まった。それに、人を殆ど失わずにすんだし、な。」


 とは言っていたものの、自分も油断した部分があったからか苦虫を噛み潰したような顔をしていて、しばらく近づきたくない雰囲気であった。

 ちなみに、火災時以外で城代としてやったことは情報をまとめて文にして父上に送る仕事だけだった。大きな仕事や方針は叔父の隼人佐道利が全部やってくれた。


 日顒様も10日ほど軟膏による治療が必要だったが、一番酷かった頭皮の火傷も少しケロイド状の痕が残ってしまったが、逆に言えばそれだけでなんとかなった。


「正直、拙僧はこれで終わりかと思っていました。小僧を守って火を被ってしまって、どうしようもないと思っておりましたから。」


 助けられてよかった。この世界でも俺の医学は人を救える。


 ♢


 12月、六角定頼が本願寺と和睦し、比叡山と法華宗(日蓮宗)の争いに介入しようとしている最中、美濃の各地で雪が降るようになった。

 平地でも積もらない程度に降る上、近場の百々ヶ峰(どどがみね)の頂上もうっすら雪が積もり始めた。稲葉山も雪の日が多い。

 そんなある日、睨み合いを続けていた父上や出陣していた部下たちが帰ってきた。


「おかえりなさいませ。朝倉の様子はいかがですか?」

「留守中大事なかったか豊太丸。ほとんど帰ったぞ、朝倉は。」


 それはチャンスなのでは?と思ったら、顔に出たのか答えてくれた。


「これ以上農兵を駆り出すのは無理だ。ただでさえ寒いのに冬の内職もさせられんし屋根のない場所で働かせては死者が出る。士気がもたん。」


 後で聞いた話だが、春の田植えの時期と秋の収穫の時期、そして雪が降る時期は農民を兵として動員出来ないから戦わないのが普通らしい。

 戦国時代っていうから年中戦っているのかと思っていたのに、なんか思っていたのと違った。去年までは戦に関わっていなかったから知らなかった。


「常備兵でもいれば戦えるんですがね。」

「常備兵?侍のことか。あんなのは金がかかるから無理だ。今の我らでは500も維持するだけで金が底をつくぞ。」


 やはり最後は金目か。



 父上の帰宅から数日後、尾張から急報が入った。雪が本格的に降らない守山城を攻めていた三河の松平清康まつだいらきよやすが、家臣に殺されたという話だ。

 三河統一一歩手前まで来ていたという松平清康が死んだことで、南の情勢は大きく動くだろうとのことだった。

 この人物は徳川家康とどう関係があるのか。家康は元々松平で、生まれるのはあと7年先だ。とするとお爺さんか伯父さんか。なんにせよ、この後今川の影響が強くなるのは確実だろう。

漢方で使う植物は羅列しすぎると見にくさがすごいので都度都度軽く解説するだけにしています。


史実ではどうやら道三はこの一連の乱では出陣していないようです。

この世界では豊太丸への(ある種の)信頼があって自分で部隊を率いた分、城下が襲われずに済んで史実より火災被害が少なくなっている想定です。

<< 前へ次へ >>目次  更新